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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第4章 >1 入山にいたるまで
文献名3父の死
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
OBC B195401c1411
本文の文字数2179
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本文  喜三郎は精乳館の仕事で多忙をきわめ、したがって、農事は病気がちの父吉松、それに母と弟がうけもっていた。ところが、主なはたらき手であった弟の由松が突然家出をしてしまったので、家には、薪一束すら刈りに行くものもいなくなってしまった。吉松は困って「屋敷の椋の木は鬼門に当たるが、今の世にたたりなどということもあるまいから、伐って薪を作ってくれ」と喜三郎にたのんだ。喜三郎も、たたりなどあるものかと、屋敷の丑寅の隅にある椋の大木の芯を伐り落としたが、そのはずみに、隣家の小島長太郎の土蔵の瓦を二、三〇枚ばかりめくってしまった。さっそく新しい瓦を買って弁償したが、小島はいろいろと苦情を持ち込んで困らせるので、吉松はそのことをたえず気に病まねばならなかった。そのため、このことがあってから、だんだん病が重くなった。父の病状を心配した喜三郎は、病が早くなおるようにと、余部の大元教会などに参詣した。けれども、祈願に行った喜三郎の眼には、民衆をいつわっている教会の内幕が、つぎつぎとうきぼりにされ、一時は無神論者になるほどであった。それから半年のあいだ、喜三郎の手あつい看護がつづけられたが、ついに、一八九七(明治三〇)年七月二一日、吉松は五三才で帰幽した。喜三郎は力をおとし、悲嘆にくれた。
 親類や友人たちは、口々に「吉松の死は丑寅の隅にある木を伐った鬼門のたたりだ。七人までたたるというから、はやく神様へうかがってもらえ」といってきかなかった。喜三郎も、それをむげにすてておくこともできず、気にかかっていたので易者に見てもらったところ、やはり丑寅の木を伐ったことと、未申の方角にある池がたたっているとのことであった。喜三郎は、そのころ井上円了著の『妖怪学』(東京哲学館発行)をとりよせて読んだり、多少は哲学を研究したりもしていたので、たたりなどを素直に信じる気にもなれなかった。しかし、半信半疑ではいけない、真理をきわめてこのことを解決しようと考えた喜三郎は、仕事の余暇に宮川の妙霊教会や、亀岡五軒町の神籠教会、余部の大元教会などを訪ね、いろいろと質問したが、どの教会でもさっぱり要領をえなかった。この上は、神の教を直接にうけるよりほかはないと決意し、今度は、産土の神をまつる小幡神社に参って、毎夜一二時から午前三時頃まで熱心に祈願をこらし、神教をこうた。
 すると、八月下旬からはじめて、ちょうど三七日の上がりの日に、喜三郎は、丑寅鬼門の金神と未申の金神の由来、さらに、宇宙の真相、神と人との関係などについて、種々の神教を産土の神からさずかり、かねての疑問を氷解することができた。
 その結果、喜三郎は大いに勇気づけられ、進んで他教の教義をさぐり、誤った宗教を改革しようと決意した。そこで、営業は一時人まかせにすることとし、各教会をたずねて行った。そして、神示の教訓をいろいろと説いてみたが、各教会の人々は相手にしてくれない。この地方で学識があるといわれている人々をも訪問したが、門前払いにされたりもした。なかには、はげしく喜三郎の説を反駁し、「山子である」とののしる者もあった。平素親しい友人までが疑ったり、悪評をたてたりしたが、喜三郎はそれに屈することなく、あくまで真理を明らかにしようと努力をかさねた。その過程で、教会の迷妄ぶりや宗教家の偽善を目撃するにつけても、喜三郎の煩悶と焦慮は日々深まっていった。
 『本教創世記』には「宗教は慈悲博愛を鼓吹しても、また現世は救うには至らず、ただ死後の楽園を想像させ、心に慰めを与えているに過ぎない。富者をみ、貧者をみても、矛盾が多く、さまざまの疑問がおこる。いったい土地といい、資本といい、一切のものは、人類全体を幸福に生活させるため天から与えられたものではあるまいか。それを地主や資本家が、その利益を独占しているのであるが、それは何の理由があり、だれがその権利をあたえたというのであろうか、一方には一挙手一投足の労もなく、歓楽と専横をほしいままにしている者があり、他方には無数の人々が飢えに苦しみ寒さにふるえているのはどうしたことか。これを黙視していいのであろうか」という、当時の青年喜三郎のいきどおりが記されているが、こうした世の矛盾や堕落を批判する精神は、喜三郎のこころにますます強まっていった。
 みずからが小作農としての苦悩を味わい、また、この地方の貧農のみじめさを、いやというほど知っていた喜三郎の胸には、弱者にたいする同情と、強者にたいする反抗とが、一つになって渦まいた。ある時など、いっそのこと、弱い者を助け強い者をくじく、いわゆる任侠の人になってやろうと考えて、無頼漢を向こうにまわして喧嘩をしたり、仲裁をかってでたりもした。仲裁がうまくゆくと、喧嘩の仲裁は喜三やんに限るというふうにおだてられ、侠客気どりになって、しまいには、どこかに喧嘩はないかと探して歩いたという。

〔写真〕
○穴太の里 p138
○神教をこうた小幡神社本殿 p140
○父上田吉松の墓(昭和2年 聖師建立) p141

〔図表〕
○穴太における関係地図(点線は部落を示す) p139
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