文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第4章 >2 高熊山の修業よみ(新仮名遣い)
文献名3高熊山よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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高熊山は亀岡市曽我部町穴太区の奥山、その中の高台である。一八九八(明治三一)年三月一日(旧二月九日)、聖師がこの山にこもり、一週間の修業をおこなったことを記念して、大本ではその山を霊場としている。喜三郎の修業当時は山頂は小松林であり、中腹から麓にかけて、うっそうとした老樹につつまれていた。
『霊界物語』の第一巻第一章には、この山の由緒について「高熊山は上古は高御座山と称し、のちに高座といい、次で高倉と書し、ついに転訛して高熊山となったのである。丹波穴太の山奥にある高台で、上古には開化天皇を祭りたる延喜式内小幡神社の在った所である。武烈天皇が継嗣を定めむとせられたとき、穴太の皇子はこの山中に隠れ一生を送らせられたという古老の伝説が遺っておる霊山である。天皇はどうしても皇子の行方がわからぬので、やむを得ず皇族の裔を探し出して、継体天皇に御位を譲られたということである。また、この高熊山には古来一つの謎が遺っている。『朝日照る、夕日輝く、高倉の、三つ葉つつじのその下に、黄金の鶏、小判千両いけおいた』昔から時々名も知れぬ鳥が鳴いて、里人に告げたということである」とのべられている。『丹波郷土史』の記載するところによれば、七三六(天平八)年に、この山に小幡神社の奥宮が勧請されたとも伝えている。
〔写真〕
○小幡神社は穴穂の宮ともいわれた p145
○小幡神社社誌 p145