文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第6章 >1 冠島・沓島開きよみ(新仮名遣い)
文献名3冠島と沓島よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-07-27 23:27:05
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一九〇〇(明治三三)年旧六月、とつぜん「こんど二どめの世の立替えについて、冠島に参りてくだされよ」との神示が開祖にあった。開祖は、冠島という島については、ほとんどなにも知らなかったので、みんなに調べさせた。すると、綾部の人で建部という者が、その島に行ったことがあるということであった。建部は、この島の鳥糞を売って一儲けしようと計画して、かつて島に渡ったことがあったのだが、建部の話では「あんな恐いところへは行くものではない」ということであった。
冠島は、雄島・男島・大島ともいい、近くの沓島(雌島・女島)とともに、舞鶴沖約二〇海里のあたりに浮かぶ小島である。丹後府中一の宮と称されていた籠神社の海部宮司の話によれば、男島・女島は吉佐の宮の奥宮であり、祭神は国常立尊であるという。なお男島には老人島明神(安政五年再建)が鎮祭されている。
冠島は竜宮島、沓島は鬼門島ともいわれている。冠島は周囲約四キロ、山頂に直径三メートルあまりの桑の大樹があり、そのほか種々の樹木が茂り、陸稲もみのっていたと伝えられる。沓島は冠島から二海里はなれた地点にある。沓島は冠島よりさらに狭く、灌木ばかりの全島は、日本海のうちよせる荒浪のため土塊は流出し、周囲はきり立った岩壁になっていて上陸する地点がない。両島は、安山岩と輝緑凝塊岩よりなり、ともに無人島で、冠島には鯖鳥(おほみずなぎ鳥)、沓島には海猫がそれぞれ数万羽棲息している(近海は京都府告第三一九号-明治四二・六・二二-で禁猟区に指定され、大正一三年内務省令にて保護指定された)。むかし彦火々出見命が塩土翁に案内された竜宮はこの島であるともいわれ、浦島太郎・安部童子丸に関する伝説も伝えられている。一五九二年ごろ(文禄年間)には三種四郎左衛門がたてこもり、軍資金を集めたとも称する孤島である。
両島近海の漁業権は、東・西大浦村の野原・三浜・小橋三部落の共同管理になっている。この地方では老人島明神を漁業あるいは養蚕の神として崇敬し、由良川流域の者は、養蚕参りに染め絹を献じ、舞鶴市の市場地方では毎年桑苗を寄進している。また若狭地方ではこの島から桑の芽を摘んで、新種「千松」をつくって、全国にひろめた。神社は旧五月五日に礼祭をおこなうが、沿岸の漁民はのぼりや太鼓でにぎやかに団体参拝をし、競漕して帰る古習もある。むかしから冠島詣りは、板子一枚の命がけの参拝であったから、「男子は一生に一度は詣れ、二度と参るな」などともいわれた。男の子の参拝は一種の成人式でもあり、参拝をすませてはじめて男子としての取扱いをうけた。女子は明治初年まで参拝できなかった。古くは社前にいつも饌米を俵に入れてつるしておき、出漁のおり、にわかに時化にあえば、この島へ避難して饌米をいただき、後日、米を持ってお礼参拝をする風習があったのだが、いまはその民俗的慣行も絶えている。
〔図表〕
○出修の関係地図 p206