文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第6章 >1 冠島・沓島開きよみ(新仮名遣い)
文献名3鞍馬山まいりよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ217
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沓島開きにつづく次の出修は、はじめから、行先が示されていなかった。出発の前に出た筆先には「こんどの実地の神の仕組みておる所は、変性男子(開祖)と女子(上田会長)より行かれんぞよ。すみ子と春一(春三)と二人は修行のためじゃ」(明治33・閏8・5)とあって、一行は四人と定まり、同じ筆先に「皆々のために神が連れまいるのじゃ。それを見て改心なされよ。世界のかがみの出る元であるから、みなかがみに出すのざぞよ」と示されたので、修業と、役員・信者の改心のためと、善悪のかがみを出されるのが出修の目的であるとおもわれた。
いよいよ九月一日(閏八月八日)に、一行四人は惟神のまにまに出修にでかけることになったが会長は、自分を排斥する首謀者四方春三を同行させる神意がわからぬから、お供はおことわりするといいだした。開祖の言葉では、ご都合もあることだし、旅支度もすっかり準備できておるから、ぜひとも同行するようにとのことであったので、会長はようやく承認した。すると開祖は、会長に「ちょっと裏口を開けてご覧なさい。恐ろしい事がありますから良く見ておいて下されや。みな戒めのためじゃと神様がおっしゃります」と話すので、会長は四方祐助と四方春三をさそって障子を開けてみたが、柿の木の下に蚯蚓が一匹這っているだけで、別になにも変わったことはなかった。そのとき殿様蛙がでてきて蚯蚓をのむと、つぎに黒い蛇がでてきて蛙を呑む。こんどは会長が日ごろ寵愛していた雌猫が蛇をかみ殺し、その猫は別の黒い大猫に追われて柿の木にかけ登る。会長はこれを助けるために追いかけねばならぬことになった。三人はこの出来事で、上には上があるものと驚いておると、開祖は「これで何事もわかったでしょう」とみんなにさとされたのであったが、だれもその真の意味は悟れないでいた。
開祖は会長・すみ・四方春三の三人とともに旅立ったが、「八木の福島をさして行って下されよ。つぎに差図をいたすぞよ」と示されていただけで、行先もわからぬままに、ござと笠をもち、開祖は梅の杖をつき、会長は雄松、すみは雌松、四方春三は竹の杖をついて、深夜の一時に綾部を出発した。あとに残る役員らは心配したが、今回は一さいの供を許さなかった。枯木峠を越え榎木峠にさしかかると、頂上で福林安之助がたき火をしながら一行を待ちうけて、供にくわえてほしいと歎願した。開祖は福林の決心をみぬき、会長の口ぞえもあって、人足ということで許された。福林は四人の荷物を肩にかついで供に加わることになった。桧山の坂原味之助方に小憩ののち、木崎の川原町上仲方に休息していると、田中仙吉・辻ふでらが開祖をたずねてきた。その人らが上仲をののしったので、上仲は大いに怒った。この争いも、結局旧金光教側と会長派との対立にねざすものであった。上仲は数少い会長の支持者であり、田中・辻は四方春三らと通じて会長排斥の立場にあった。かれらがその時もなお金光教に正式に所属していたかどうかは明らかでないが、田中も辻もかつては金光教の布教師であり、会長と結びついた上仲が、かれらが組織した信者を奪うことをいきどおっていたのである。夕方ともなったので「田中の宅に一泊を」と願いでる者もあったが、開祖は上仲の見送りをうけて八木の福島へ向った。
その晩八木会合所は神床を新造し遷座祭を執行することになっていたので、さいわい開祖に祭主をお願いし、お話をきいて一同感激し、深更になって散会した。翌朝会長は神前で祈願をこめ、行先とご用のおもむきをうかがうと、〝世の中の人の心はくらま山 神の霊火に開くこの道〟と歌で神示があり、目的地が鞍馬山であることがわかった。八木から花園まで汽車に乗り、あとは徒歩で鞍馬山に登ることになったが、途中北野天満宮にさしかかると、おりから天神の祭日だったので、開祖は歩を止めて礼拝し、管公の故事を思いあわせて、国祖のながい御苦労をしのび一日も早く冤罪がそそがれ、表の守護となられるよう努力して、仮宮なりと造営せなばならん、と一行の人々にかたった。
鞍馬山(五七〇メートル)は京都市の北郊にある。七七〇(宝亀元)年、奈良唐提寺の開基鑑真の高弟・鑑禎が庵をむすんで毘沙門天をまつり、七九六(延暦一五)年、藤原伊勢人が堂宇を建てて、それを鞍馬寺となづけたという。鞍馬寺は、毘沙門天・千手観世音菩薩と、昔からこの山に住むという魔王尊(サラト・クラマ)を、三尊一体三身を宇宙の大霊大光明大活動体の「尊天」として尊崇したものといい、洛北の護国の霊場で仏教の修行道場としてさかえ、いまでも近江摂丹地方からの参拝者が多い。その奥には牛若丸が得剣道を学んだと伝える僧正谷がある。
鞍馬に到着して堂の前で夜を明かすことになり、春三は神前でみくじを引くと悪い番号がでた。その夜福林は旅のつかれで寝入り、ふと眼をさますと「起きて下さい、起きて下さい」とよぶ春三の声がするので、外へでてみると、堂の前を火の玉がゆききして、その火の玉の尾に春三が乗っていた。福林は火の玉のあとを追って、その方角にいってみると、春三がたき火をしていた。どうしたのか様子がわからぬので尋ねてみると、春三は青白い顔色で「おお恐い、今のを見てくれたのなら、何もいうことはない」と少しも打ち明けず、ただ泣いていた。福林は春三を連れもどり、翌朝たずねてみてもなにも知らぬというだけであった。たき火あとを探してみたが、これも見当たらないので福林は不思議におもい、開祖にうかがうと「さきになったらわかります」とのことであった。
帰路は八木で一泊し、途中まで役員・信者の出迎えをうけ、九月四日帰綾したが、その後開祖は百日間六畳の別荘にこもって筆先を書いた。
筆先によって、鞍馬山まいりの出修の意味がしだいに明らかにされていった。出発まえの筆先では、「三人(会長・すみ・四方春三)はこういえば気に障るなれど、出口の小指の苦労も出来ておらん」(8・30)から「我」を出して対立し、まだ大本の神を世にだす能力を持ちえないと示され、「人民では行かれん所」へ連れて行って、「現世の衣を脱がせて、身体に徳を付け」(閏8・2)さす修業をさせようというのが、今度の出修の目的とされた。そこは普通の人間ではゆけぬ「実地」のところであり、根本的な修業をするところであることが強調された。出発直前の筆先にも「今度正真の所へ連れ参るから、みな行ないを変えて下されよ。変えさすぞよ」(明治33・閏8・4)とあり、鞍馬より帰ってからも、「鞍馬山なんでもないように思うておるが、結構な恐い所ざぞよ。よしあしがわかるところざ」(明治33・旧10・19)と人々の「慢心」をせめて、改心を強調された。ここで強調されているのは、世の人一般の改心の問題ではなく大本内部の問題であり、四方春三をはじめとする役員・信者たちこそ、まず改心すべきであり、これが「広前の立替えの初発」(旧9・6)であるとされた。鞍馬山参りは、神々(精霊)にたいして警告をあたえ、きびしい修業と役員の改心を求めるところの神事であった。
その後の筆先にも「この中は皆化物……会長をはじめ、すみ、一の番頭から、この中から立直さんと、世界の元になるところを、あまりずんだらでは神が不足なぞよ。これから世の立替えにかかるから、大本の立替えいたすぞよ」(9・16)とあって、大本内部の立替えがくりかえし強調された。
鞍馬参りの後にあっても、会長とその他の役員たちとの対立は解消はしなかったが、反会長派の中心人物の一人である四方春三は、鞍馬山でのおそろしい体験からのちはすっかりしょげこみ、帰途園部の友人をたずね暇乞いして、今度は死ぬかも知れぬといったので、開祖からしかられた。まもなく上谷の自宅から迎えがきて帰宅し、一ヵ月ほどしてわずか一八才で帰幽した。
春三はその死にのぞんで、会長にお詫びをせねば死ねない、とそのおこないを反省していたという。会長は、心のひろい人であったから、その罪をゆるし春三の霊をまつらせた。
春三が帰幽してから、反会長派の役員らの会長排斥運動は一時下火となった。
のちの筆先(明治36・旧10・10)には「出口の神の因縁を知らずに、もう一つ世を盗みて世を持とうと思うて春三に生まれ、大将になろうと仕組みておるから、鞍馬へご苦労になりたのは、なかなか大もうな事でありたのざぞよ」と示されている。また鞍馬山については、「鞍馬山はこれまで仏の行場としてあったが、良い神はおらず、大分見苦しくなりたから、仏の方で守護しておれた守護神も、間に合う神は綾部の大本に引寄せるから」(明治33・閏8・21)とあって、鞍馬から帰って二、三日後の大風の夜、開祖は「本宮山へ鞍馬の大僧正がしずまり、天神馬場の大杉へその眷族がきた」と語ったともいう。
〔写真〕
○出修のころの上田会長 p218
○もと八木会合所(船井郡八木町) p219
○鞍馬山の山門 p220
○梅花祭でにぎわう北野天満宮(京都市) p221