文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第7章 >2 会長の研鑽と綾部の苦況よみ(新仮名遣い)
文献名3御嶽教に勤務よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ281
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会長は建勲神社を去ってほどなく、その年の一二月一八日、伏見稲荷山の御嶽教西部教庁の主事となった。会長の治病活動と説教の評判はいつともなく御嶽教の知るところとなって、御嶽教の方から会長を招き入れたのである。会長としては、御嶽教の祭神が「国常立尊」であるし、ここに勤務することで教派神道の実体を知り、そのうえ、かねて研鑽してきた「皇道霊学」を大いにひろめようという目的があった。会長は、御嶽教で中教正に任ぜられ、さらに一九〇八(明治四一)年三月一〇日には、大阪大教会長として生玉の御嶽教大教会詰となった。だが、当時の湯浅斎次郎にあてた書簡をみても明らかなように、「神明の企て給ひし大功業」にたいする準備は、たえず会長の念頭にあって、そのため、こころある大本の信者との連絡をたもっている。
会長は御嶽教で教団組織や教会経営の技術を身につけ、その社会的視野も拡大した。この間に、同年六月四日には大成教とも連絡をとり、綾部に直霊教会本院を設置するため規約を作り、同教管長の承認をうけた。それから四日後の六月八日には、大成教直轄直霊教会本院の開院式が綾部でおこなわれ、東京からは大教正・井上信義が来院し、柴田・藤井の随員も同行して、綾部の亀甲屋旅館に投宿している。
さらに六月二一日には、御嶽教の大本教会を設立し、御嶽教の理事に任ぜられた。このさい、京都の中村保次郎を、大本教会の受持教師とした。こうして大本は、稲荷講社・御嶽教・大成教などと、公認教団に関連所属し、着々と公認教としての法人組織化をすすめた。しかも、大成教に所属しながら御嶽教にも同時に所属するというように、名称も組織も二本立て三本立ての複雑な構造をとっていたことは、非公認宗教にたいする政府の干渉のなかで、会長が、その合法化をかちとろうとして努力し、なんとかして、教線を拡大しようとしていた苦心のほどを示すものとして、極めて興味深いものがある。
〔写真〕
○御嶽教のころの上田会長 p281
○湯浅斎次郎にあてた書状 p282