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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第1章 >2 大正の初期よみ(新仮名遣い)
文献名3「敷島新報」と直霊軍部隊よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2019-08-18 01:30:46
ページ329 目次メモ
OBC B195401c2122
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本文  一九一四(大正三)年七月二八日、オーストリヤ・ハンガリー国はセルビヤ国に宣戦を布告し、これに端を発した第一次世界大戦が勃発した。八月三日には日本はドイツ国と国交断絶し、宣戦の詔書がだされて、この大戦に参加することになった。大本院では、戦勝と世界平和の到来を朝夕祈願するように、祈願詞を一定して、各分所・支部などにこれを指示した。
 このようななかで、八月一五日には、「敷島新報」という機関誌が創刊された。「敷島新報」は、はじめB4版の月刊であったが、のちこれをB5版で月二回とし、さらに旬刊とした。これは、さきに廃刊された「直霊軍」にかわるものである。開祖の筆先には、すでに一九〇〇(明治三三)年ころから、世の立替えについて早く「新聞」をださねばならぬと示されていたが、時節の切迫感により、機関誌の再刊が実現したわけである。ことに王仁三郎は、印刷文書による宣教ということに前々から着眼し、すでに一九〇八(明治四一)年一月御獄教大本庁に勤めているころ、周山(京北町)の吉田竜治郎にあて、「茲に看過すべからざるは印刷部の設置に侯が」とのべて、「まず活字を用意するため七、八百円融資をうけたい」との信書をだしている。とのときには実現しなかったが、それから五年後の一九一三(大正二)年四月には、綾部の本宮町一七番地に印刷所を設け、印刷事業がいち早く開始されていた。主任には藤本薫がなり、四方熊太郎(平蔵の長男)が専属となったが、その後は四方が主任となった。この印刷所を活用するときがきた。その具体化が「敷島新報」発刊の運びにほかならない。当時はまだささやかなものであったが、その後に印刷設備が次第に充実して、大本の文献一切を印刷刊行する「天声社」へと発展した。
 これらの事実によっても、王仁三郎がいかに文書宣伝の重要性と、時代の傾向を洞察していたかが明らかとなる。大本はたんなる神信心のための人集めの宗教ではなく「世の立替え立直し」という大きな教義内容をもっている。したがって読書能力をもつ階層への布教が、社会を動かし、大本の教義を理解させるうえに役立つと達見されていたのである。
 一九一三~四(大正二~三)年におよび、大本院近隣の土地を、数回にわたり一六筆買収して神苑をつぎつぎに拡張し、建物も四軒あらたに購入した。そのうちには本宮山西ふもとの二一〇〇余坪がふくまれている。一九一四(大正三)年一月には、神饌のための供田をさだめ、また綾部の上野には、約三五〇〇坪を植樹園として、各種の苗木を植えることとなった。
 同年二月、節分の翌日に金竜殿と統務閣の斧始式がおこなわれた。そのときの頭梁は近松光二郎である。九月二二日にはそれらが竣工したので、まず統務閣(教祖殿ともいわれていた)に大神様の遷座をねがい、九月二五日に金竜殿の竣成式を挙行した。金竜殿は建坪五五坪の瓦葺平家で、神床を正面にした四八畳の広間である。統務閣は建坪三〇坪でこれを八畳の四室に仕切り、その一室に神床をもうけ、開祖は晩年までその部屋で筆先を書き次の間を居室とされた。
 これと並行して、神苑内には「金竜」を掘ることとし、八月八日には、地鎮祭をおこない、各地から奉仕の人々が参集して、池の開掘がはじめられた。王仁三郎はその陣頭指揮にあたり、朝早くから日暮れにいたるまで、いさましく作業がすすめられて、九月二六日には、金竜のなかの沓島・冠島ができ、小さいながらもお宮が竣工したので.鎮座式をおこなった。しかし、池は掘っても水は溜まらない。さらに作業を強行し、一一月一六日作業のおわると同時に、ちょうど町の通水路ができ、その最初の水が流入して池に満水した。それは、水も出ないのに池など掘ってと町の人から笑われながら、作業にあたった役員・信者にとって、非常な喜びと感激であった。神苑は、こうした役員・信者の力の結集によって、だんだんと整備されていく。
 出雲大社の千家尊福宮司が来綾したのは、ちょうどそのころ、一一月二〇日のことであった。千家尊福は、金竜殿で国民道徳鼓吹の講演をし、揮毫・記念植樹などをして、二泊ののちに新舞鶴にむかった。
 一九一五(大正四)年の一月には、二八日から一週間にわたり、本部において祭式の講習会を開催された。神前礼拝用ののりと「善言美詞」が、すでに前年刊行されていたが、この講習によって、地方における祭式の一定化がはかられることになった。
 二月四日には、盛大な節分祭が執行された。「敷島新報」によれば、午後二時より節分の式典がおこなわれ、深夜から厄払いの祭事が執行されている。「大祓奏上のまにまに鎮魂厄払いを執行し、其数殆ど六千余」と記されている。
 これまで、金竜殿の近くに設けられていた祖霊社もまた、当時の綾部町役場前(上野)の元金光教教会の建物をゆずりうけて、設備を拡張し、あらたに造営して、四月一六日には遷座祭をとりおこなった。この時から祖霊社祭式・規則などが決められたが、これも、大神様奉斎についで祖需の祭祀を重んじた大本信仰にもとづくものであった。
 四月二九日には、大日本修斎会の事業として「興国合名会社」が設立され、即日登記の手続きをおわった。「敷島新報」(11号)によれば、「大日本修斎会事業拡張に伴ひ、施設事項益多きを加ふるに至り、近き将来において鞏固なる基礎の下に、財団組織により基金を増殖し、事業に充当すべき計画として、会長(王仁三郎)其他有力なる会員社員となり、無限責任を負ひ」とあって、一種の金融事業をおこし資金を確保しようとしたものであったことがわかるが、その後の運営や成果については明らかでない。「大本年表」では、この合名会社は「大正七(一九一八)年一二月三一日解散した」と記されている。
 また、大日本修斎会には農林部を設け、樹木苗木などを育成し、これを頒布する事業もはじめているが、これもまた農事を重んじ、あわせて教団の財政に寄与しようとする意図によるものであった。このように、事業にたいしては、一九〇八(明治四一)年大日本修斎会発足以来諸種の企画がなされている。
 一九一五(大正四)年においては近隣の土地を数回にわたり一三筆買収し、五月一〇日には金竜の第二期工事を竣工した。そして、九月一五日にその竣工式をおこない、一一月には第三期工事に着工した。神苑もまた、しだいに美化されていく。
 前年の九月二五日には布教部隊の直霊軍が結成され、大本院に本営がおかれた。「敷島新報」の報ずるところによれば、一九一五(大正四)年一月八日には「京都分営直霊軍初出陣」とあり、九月二五日には本部で旗上式をし、ただちに綾部附近の大道布教にのりだした。ついで同月二八日には、直霊軍は大江山に向かい、さらに播但地方、府下の園部・菟原・北桑方面へも進出した。京阪地方にたいしては、支部を設けて活動する企画がすすめられ、一〇月二四日には京都分営の旗上式、一一月五日には大阪、六日には肝川、一二月八日には兵庫分隊の旗上式がおこなわれている。ついで一二月五日には、直霊軍の軍規・軍則・軍歌・進軍歌・産土神社歌などが発表され、「猛烈なる活動を開始す」と「敷島新報」はのべている。軍規というのはつぎの条文よりなる。

第一条 旭日の大守護神として顕れたまへる国祖国常立之尊の大誓旨を体得し、大地幽顕を革正するを以て任とす
第二条 勇信智愛の霊力を以て進撃し省悔覚畏の神律を以て防守す
第三条 一心協力、相互信愛、服従奉仕を以て生活の本義とす
第四条 心身及其生産は上に奉献す
第五条 労作及衣食住は上より賦与す
第六条 労作及衣食住に関する誓願は上に稟申す
第七条 日本綾部本宮に永住す
第八条 言霊に基き常に善言美詞を使用す
第九条 相互に合掌礼拝し、カムナガラタマチハヘマセと口唱す
第十条 相互の称呼には職位名を使用す
第十一条 軍功を調査し以て進級免剥す
第十二条 労作、衣食住、賞罰其他軍の行動は之を記録す
第十三条 大本教規に拠り祭祀、礼典、宣教、治病、鎮災、救急、警戒等の要務を遂行す
第十四条 根本学社に於て皇道を学修す
第十五条 出征中は金銭を携帯す
第十六条 神令神律を以て軍の律令とす

   直霊軍制

第一条 直霊軍を組織する男女を軍霊と称す
第二条 軍霊の位を分ちて左の十階とす
 守、権守、介、権介、大據、権大據、少據、権少據、大目、小目(権介以上には国名、大據以下には氏名を冠す)
第三条 軍職を分ちて左の十種とす
 将軍(一名)副将軍(数名)軍監(数名)軍曹(数名)中務(数名)縫司(数名)饌司(数名)工司(数名)図書司(数名)主計司(数名)
 時宜に依り権介以上の軍監をして副将軍又は将軍の職務を執らしむることを得
第四条 将軍は大本教教主の旨を奉じて軍を統括し労作の賦謀、衣食住の配給、軍霊の進級免剥、軍職の補任、其他軍の行動一切を指揮す
第五条 副将軍は将軍を補佐し、軍規を振粛し、軍政を整理す
第六条 軍監は将軍副将軍の命を受け、軍霊の労作を監督す
第七条 軍曹は将軍副将軍の命を受け、軍霊の衣食住を監査す
第八条 中務は命令の布達、文書の受理起案、印刷出版、其他軍の庶務整理に任ず
第九条 縫司は衣服の縫織整理に任ず
第十条 饌司は飲食物の調弁整理に任ず
第十一条 工司は住宅の建築修繕、家具日用品の製作整理に任ず
第十二条 図書司は図書の整理に任ず
第十三条 主計司は金銭の出納、物品の購入販売整理に任ず
第十四条 軍霊は一般に祭典、耕作、宣教、舞楽、演芸、記録に従事し、軍監以下交番日直として警戒、炊事、洗濯、掃除、其他の雑務に服す
第十五条 将軍副将軍の所在を本営、軍監以下軍霊の駐在する所を分営、所在上位者を営長とし、地名を冠して称呼す
第十六条 軍霊の席次を位階順とし、位等しきときは年長者、年令同じときは男を先とす

 直霊軍の軍規が公表された一ヵ月ばかり前の一一月一〇日には、大本教関係の重要人事が発表された。それには、大本教教統兼根本学社社長 梅田信之、大日本修斎会会長兼根本学社学長 飯森正芳、敷島新報社社長兼興国合名会社社長 羽室向尊・顧問 福中鉄三郎・金田小太郎・吉田竜治郎・牧寛次郎らの役職と氏名があげられている。
 ここに根本学社とあるのは、前年八月一五日「敷島新報」創刊と同時に設置されたもので、大本教の教学・教育などの研讃を目的としたもので、その学長飯森正芳(軍予備機関中佐)は、顧問の福中鉄三郎(同中佐)を介して大本に入信した人である。
 福中は京都の知人から大本の話を聞いて一九一三(大正二)年五月はじめて参綾し、長男の病気が縁となって入信しだ。都市的知識人の入信としては、福中がこのころの最初の一人といえる。一九一五(大正四)年の春、突然来訪した友人の飯森中佐に、福中が大本の話をしたのが動機となって、飯森は綾部にきて入信した。八月二八日には新舞鶴に出向き、軍艦「香取」の乗組員二五〇余人に飯森が大本の講演をしている。ついで但馬方面へ布教にゆき、さらりに直霊軍の旗上式がはじまると、福島ひさ(開祖の三女)とともに各地に出張し、年末には横須賀方面へ出発して、浅野和三郎を訪問することになるのである。飯森は福中にかりた古い陣笠をかぶり、「直霊軍」とかいたタスキをかけ、異様な風体で出張したので人目をひいたという。
 これよりさきのことであるが、五月一六日には、王仁三郎は梅田教統をともない、滋賀県近江八幡から行程二時間を要して琵琶湖畔の岡山につき、湖面の水茎文字「ア、オ、イ、エ」の四文字をみて帰綾した。この水茎文字は、王仁三郎が二七才の秋、大石凝真素美にともなわれ、これを実見したのがはじめてだったという(「敷島新報」12号)。

〔写真〕
○弥仙山参拝のとき開祖の使用された人力車 p329
○敷島新報 第5号 p330
○吉田竜治郎にあてた書簡 一九〇八-明治四一年 p331
○感謝状 p332
○新築工事中の金竜殿正面と統務閣(右) p332
○金竜第一期工事竣成 冠島・沓島の鎮座祭 p333
○祖霊社の遷座祭 綾部上野町の元金光教会あと p334
○興国合名会社創立記念の手拭 p334
○直霊軍 (上)本営・司令部 (下)京都分営旗上式 京都八坂神社前 p335
○出張命令書 p336
○直霊軍の辞令 p337
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