文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第2章 >1 昇天よみ(新仮名遣い)
文献名3葬儀よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-11-04 07:20:29
ページ379
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本文
昇天後のあわただしいさなか、深夜の一二時、金竜殿で厳粛な昇天奉告祭が執行された。翌七日には、産土神の熊野新宮社へ昇天奏上の使いがだされた。葬儀については牧寛仁が葬祭長に任じられ、墓地(奥都城)は天王平一の瀬と決記した。八日深更に舟入式があり、九日の午後二時から金竜殿へ遷柩し、「神政開祖(惟神真道弥広)大出口国直霊主命」の諡名がおくられた。
舟入式調度品として、鏡・太刀・曲玉・唐櫃・針鋏類・紙・墨・筆その他の手回り品が納められ、衣装は、うちかけ平袖(表は空色・裏地は白)・上着は空色・裏は白)・下着(表裏とも白)・長襦袢(表裏とも白)・帯(白丸)・帯〆(空水色)・足袋(白)・扇中啓(白)・褥(赤どんす・裏は白絹)・肌付布団(白木綿丸綿)などにて、柩は三重とし内側は桧八分板を用い、中・外は一寸二分板で、その間の外側には木炭一二俵、内側には塩と生灰をつめた。
奥都城は、神苑を西南にさる約二粁のところにあり、綾部市田野町才ヶ首九番地の二・拾番地の二および三、通称「天王平一の瀬」とよんでいた山腹の地点がそれである。開祖と因縁の深い弥仙山を真正面はるかにあおぎ、本宮山と相対する崇高静寂の場所である。
一一月一二日、役員・信者の手によって山開きをなし、玉砂利を敷きつめて奥都城を築城した。同月二七日には、金竜殿で遷柩の式をとりおこない、すみ(二代)・直日(三代)・教主王仁三郎・出口家の親族・信者総代浅野和三郎らの玉串奉呈があった。式がはじまるころから雨となっていたが、午後五時半、神苑を出柩するころはまったく雨もやんでいた。行列をととのえた一同は、天王平で埋葬の儀を執行して、夕やみのせまるころ、とどこおりなく埋葬をおわった。
本葬は、開祖昇天一ヵ月後の一二月六日(旧一一月三日)盛大に執行された。神葬は斎主梅田信之・副斎主田中善吉ほか一三人の祭員によって奉仕され、午後〇時半、金竜殿にて奏楽の音もさえるうちに荘厳に式典がすすめられた。一時半霊璽は天王平にむかった。行列順序は「神霊界」の「教祖号」に詳細にのべられているが、役員のものは三百数十人にのぼり、親族・役職員・地方の信者・一般会葬者などは苑内にあふれ、二粁の道程は、ほとんど会葬者でうずまるほどであった。
一の瀬の斎場では、本葬の祝詞奏上についで、親族総代出口慶太郎・参列者長沢雄楯の弔詞、何鹿郡神職代表の献歌、福知山一宮神社社司の弔詞などがあった。開祖の昇天をいたみ、大いなる開祖の足どりをしのぶ人々の胸には、ありし日の開祖の清々しい姿がくっきりと想いおこされた。本葬をおわって、このときまで消されずに燃えつづけていた霊前の灯の神火が持ち帰えられ、教主王仁三郎とすみに、古式にのっとった道統継承の「火継の神事」がおこなわれた。
〔写真〕
○奥都城から本宮山(中央)と弥仙山(右前方のとがった山)をのぞむ p379
○本葬式 霊璽は金竜殿から天王平へ 松明 箒 大本十曜旗 大榊 松明 赤白旗 唐櫃 楽人 斎部 p380
○梅花 小榊 大榊 大梅花 弓矢 矛 長刀 太刀 p381
○はじめの奥都城 1920-大正9年に改築された p381
○大蝋燭 絹傘 霊輿 霊輿 大梅花 大真榊 喪主王仁三郎 喪婦すみ 直日 親族 p382
○霊輿天王平に到着 本葬式 p383