文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第2章 >3 道統の継承よみ(新仮名遣い)
文献名3信者への影響よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-11-21 23:01:46
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開祖の昇天の前日、梅田信之が京都へ帰ろうとしたとき、教主から、開祖の容態が気づかわれるので延期してほしいととめられたが、梅田は、開祖を生伸と信じ、世の立替えをせられるお役であるから、立替えがおわるまでは、万一のことは絶対にないと、その引きとめを振りきって帰ってしまった。翌日開祖の昇天を聞かされたが、最初は笑って信じなかったという。こういう信仰的な気持は、当時の役員・信者のほとんどが保持していたものであって、開祖を大神様と信じ、立替えのご用は開祖であって、教主は立直しの役であると固く信じていたのである。こうした動静のなかにおける開祖の昇天は、当時の役員・信者にとってはまことに大きな衝撃であった。
それまでの役員・信者は、「出口に実際を書かすから、それを上田海潮が写して、細こう説いて聞かせる御役なり……」(明治33・閏8・1)とある筆先によって、教主のご用を理解しており、また「神霊界」には、開祖の筆先を表の神諭とし、教主のものを裏の神諭として発表されていたから、教主のお役についてはある程度まで信仰的に了解していた。しかし、したしく開祖に接し、そのおしえを受けていたものにとっては、開祖を大神と信じてしたう心情が強く、教主にたいする心情との間にはひらきがあった。しかも、開祖の筆先と、教主の筆先とを比較して、その文体が同じように思われるところがあるので、一部には疑惑をいだいて、迷うものもあった。そのことに関して、教主は「開祖は立替えの筆先を書き、自分は立直しの筆先を書くと共に、開祖の書き残した立替えの筆先も書くのである」とことわけで説明している。そして、開祖が三年で世を立替えるといった、その三年はあと三ヵ年残っているが、この残る三ヵ年こそもっとも重要な時期であるから、肝心のときになっておかげをおとさぬようにと警告して、信者の動揺をしずめることにつとめた。
こうして、厳瑞二霊が並立した時代はすぎ、教主は開祖のあとをうけて、変性男子と変性女子のはたらきをかねそなえ、伊都能売の御魂として経緯の神業を遂行することになった。一九一八(大正七)年一二月二三日の神諭に「地の守護ばかりで天地が揃はぬと成就いたさぬから、撞の大神様ミロク様が肝心の世を治め遊ばす経綸となりたのを五六七の世と申すのであるぞよ」とみろくの世の意義についての教示があった。開祖は法身のみろく(善一すじ、まこと一すじのかがみ)であり、教主は応身のみろく(時所位によって千変万化、泥にまみれて世を救うまことのはたらき)であるとするのである。したがって、現在は応身のみろくの時代になったのであるから、そのつもりでこころえなくてはならないと教説されている。そして、さらに神諭に「変性男子の身魂は現世で百才の寿命が与へてありたなれど、余り仕組が後れるから、天へ上りて守護いたす為に早く上天して御苦労に成りて居るぞよ」とあったので、役員や信者たちも、開祖の昇天は神界の経綸のためであって、仕組が早められたのであるという信仰的なうけとり方にかたまり、やがて、生き神があらわれて世の立替えをするという信仰は、徐々に開祖から教主へとひきつがれていった。そのうえ開祖の昇天の日が、五年にわたった欧洲大戦の休戦の日と、ときを同じうしたところからも、神諭の意味と考えあわせ、神界の経綸であると理解がいちだんとたかまった。教団の発展にともなって、あたらしい信者も増大し、それらのあたらしい信者層の教主にたいする信頼のありかたが、旧信者の信仰的心境への転換をうながすおおきな要因となったこともみのがすことができない。一九一九(大正八)年二月二日には、天王平奥都城に稚姫神社を造営して、稚姫君命の神霊を鎮祭し、二月三日には金竜殿で開祖の百日祭が執行された。
前年の八月一四日に上棟式をおこなった貴賓館も、ようやく竣工したので、これを「教祖殿」と命名することになった。教祖殿は平家だてで瓦ぶきのそり屋根でおおわれ、建坪は三三坪、八畳じき四室と一〇畳じき二室とよりなり、西金竜海のなかにたてられた。百日祭をおわった二月三日、教祖殿の竣工祭がおこなわれ、深夜の一二時、開祖の神霊を金竜殿から教祖殿へうつし、厳粛に遷座祭がとりおこなわれた。
一一月二五日(旧一〇月三日)には、教祖殿でおごそかに開祖の一周年祭を執行した。そして王仁三郎は教主の地位を二代すみ子にゆずり、自分は教主輔の地位についた。王仁三郎は、当日付の「随筆」に「此大本は代々女の御世継、是を間違へたら治まらぬと、毎度御遺訓が出て居ります。併し昨年教祖の御上天と共に、二代の純子が教主と成る可き神約でありますなれども、過渡時代の大本の内外の状勢上、止むを得ず今日、即ち教祖の御一年祭の当日まで、私が教主の職を汚して居ましたが、弥々神諭を実行する時期が到来したる事を自覚しましたから、教祖の直系の二代に国譲りを致しました云々」(「神霊界」大正8・12・1)と記している。王仁三郎の教主輔は二代教主の後見であるが、事実上は代行役でもあって、大本では、教主輔とある「輔」は王仁三郎のみにかぎり、他の場合は「補」の字を用いることとなっている。
このようにして、開祖から王仁三郎へ、王仁三郎から二代すみ子へと、道統の継承は神定のままに移行していったのである。
〔写真〕
○伊都能売観音像 出口聖師作 聖師と等身大につくられている 昭和6年7月亀岡蓮月庵にて p393
○稚姫神社 開祖の奥都城の右うしろにあったが第一次大本事件のとき焼却された p394
○開祖の使用された行燈 p394
○教祖殿 (上)表正面 (下)内正面 p395