文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第3編 >第2章 >1 検挙よみ(新仮名遣い)
文献名3検挙よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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本隊が本部を捜査している間に、同日の午前九時ごろ、石井判事代理・中田検事以下八の一隊が浅野和三郎の自宅をおそった。当日浅野は、舞子方面へ講演にゆく予定で準備をおえ、神前で礼拝している最中であった。ここでの捜査は厳重をきわめ、夜具、箪笥ほか火鉢の灰のなかや玩具箱までを点検し、神体・軸物(五~六本)ほか石笛・お土米・書簡全部・大本関係書類全部・原稿写真類全部・刀剣十口・印形三箇を押収した。そして浅野は綾部署に連行された。
この日綾部では、浅野のほかに湯川貫一・井上留五郎・石井弥四郎・外山豊二・深町泰資(泰仁)・牧寛次郎・四方平蔵・江上新五郎などの計九ヵ所の家宅捜査がなされ、それぞれ当局にとって証拠品と思われるものを押収した。
また、この捜査で現金が金貨その他で二万六〇〇〇余円発見されたが、これは押収されなかった。しかし、これはのちに内乱の軍資金であるとして攻撃の材料にされた。
第一回家宅捜査は午後三時ごろにやっと終了した。大本内外の交通がはじめて自由となった。この日の綾部の町が大本の噂でもちきりとなったことはいうまでもない。このようにして、山とつまれた押収物品は綾部署および公会堂にはこばれ、夜を徹して押収品の調査がなされた。捜査隊はその調査をおわって一三日の夜、貨車一台をかりきってひきあげた。
一二日午前九時半、捜査隊第一三斑に属する藤原刑事課長らの一隊は、大阪梅田の大正日日新聞社にむかった。藤原らは名刺を通じて王仁三郎に面会を求め、曽根崎署にたちより京都府警察部まで連行した。このときの王仁三郎は、「ちょっといってくるが、だれもこなくていいよ」とまわりの人々にいい残して、平然たる態度で出頭した。副社長であった高木鉄男は、さっそく駅頭にかけつけ、王仁三郎の護送される列車にのって、かげながら京都府警察部の入口まで見送ったという。王仁三郎は、藤沼警察部長室にとどめおかれたが、夕方の五時ごろ、綾部から帰ってきた藤沼から、「予審判事の命令で出頭を求めたものである」といわれた。王仁三郎は藤沼にたいして「藤沼さん、不敬罪ではないでしょうな」ときいたが、京都地方裁判所に護送された王仁三郎は、その予感のとおり、加藤予審判事から不敬罪ならびに新聞紙法違反の容疑で逮捕されたのである。そして、京都監獄の未決監に収容された。この日綾部暑から中川捜査主任に護送された浅野和三郎は、京都検事局で大阪控訴院から出張してきた三橋検事のとりしらべをうけたが、浅野が位階勲等をもっていたために、収監手続きの完了する間、附近の一旅館に宿泊を許され、翌一三日の午後五時半に石井予審判事の令状によって京都監獄の未決監に収監された。
また、機関誌「神霊界」発行兼編集人であった吉田祐定も、一二日綾部で検挙され、京都に設送された。そして検事局で兼松検事のとりしらべをうけ、一三日の午前二時に収監された。
〔写真〕
○押収品をはこびこんだ綾部警察署(上)公会堂(下) p572
○京都監獄 二条城北側にあったが今は住宅地となっている p573