文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第1章 >3 霊界物語発表の影響よみ(新仮名遣い)
文献名3発表の影響よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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『霊界物語』の発表に抵抗した一部の幹部は、その後つぎつぎに大本を去った。そのために、いよいよ王仁三郎の意図は教団の運営に強力に反映されることになった。これまでのいわゆる日本主義的思潮は、世界性に発展して「人類愛善」の強調となり、あわせて「万教同根」の宗教観が明確化されて、各宗教との協力提携が主張されだした。
天地惟神の大道・霊体一致の大道をあきらかにすることを主眼とし、天国を各自の霊魂中にうちたて、同時に「地上天国」を現実にこの世に具現しようとする『霊界物語』の理想と大本の基本的精神が、いよいよ具体化されてくるのである。
第一次大本事件までの信者の信仰には、立替え立直しは神の経綸であって、人間の力ではいかんともすることができないとされ、ただその「立替えをまつ」信者がなお多数をしめていた。ところが、『霊界物語』の発表以後は、立替え立直しは神の経綸に属するが、とくに立直しは神が人間を通じてなすところであり、したがって人間の努力ということが肝要だと、強く意識される信仰へとすすんでいった。そのため、どのようにすれば世の立替え立直しができるかという、人間の立場においての建設的な考え方や、いとなみが強調されるようになるのである。こうして一九二二~二三(大正一一~一二)年以後の大本のあゆみや活動は『霊界物語』の精神によって指導され、ひろく海外にも活動がひろがっていった。
一九二五(大正一四)年に、あらたに宣伝使制が設けられるようになったのも、『霊界物語』から出発したものであり、宣伝使の指導精神は、すべて『霊界物語』によることになった。
信者の間では『霊界物語』の拝読会などがつくられて、その音読や研讃がすすめられ、多数の聴衆のあるときは、対話的に声色をつかい、節をつけ、三味線までいれて楽しく聞かせる方法をとり、さらに後には、物語を脚色して神劇や神聖歌劇として演じられ、その一部は映画化がこころみられた。そのなかには、王仁三郎みずからが出演したほどである。
口述を筆録した原稿は文字の間違いをなおすだけで、文章などの訂正はほとんどすることもなく印刷にまわして出版されたが、一九三四~三五(昭和九~一〇)年にわたって王仁三郎は全巻に目を通して、その文章の一部の訂正をおこなっている。なお、「口述者出口瑞月」とあったのは後に「出口王仁三郎著」とあらためられている。『霊界物語』の刊行がすすむにしたがって、当局の注意もしだいにきびしくなってきた。出版前の検閲により注意をうけて一部の改訂をしたり、また、章を抹消して「……」にしたり、のちには旧第七一巻のように発売禁止となって、そのまま陽の目をみないものもあった。そして『霊界物語』全体のすじがきや内容が、第二次大本事件においては「国体変革」を意図するものだとして問題視され、治安維持法違反事件および不敬事件に附された。そこでは『霊界物語』が、やはり問題の核心となった。
一九三五(昭和一〇)年、第二次大本事件までの『霊界物語』の発行部数をしらべてみると、第一巻は一〇版をかさねているので、一万七〇〇〇部ないし二万部、第二巻は五版で一万部以上、第三巻以下ば四版ないし二版の刊行であるから八〇〇〇部ないし五〇〇〇部の発行と推定される(当時、初版はおおむね三〇〇〇部以上発行している)。なお第一巻の発行部数がとくにいちじるしいのは、口述者が第一巻の末尾に「第一巻のある一点を読めば、全巻の精神が判る筈である」と附記したことも影響しているとおもわれる。第二次大本事件が解決し、愛善苑として発足してから『霊界物語』再刊の要望がおこり、それにこたえて、一九四九(昭和二四年)年の五月に『霊界物語抄一』(第一巻~三巻)が刊行され、ついで「抄二」(第四巻~五巻)、「抄三」(第六巻~七巻)、「抄四」(第八巻)と『霊界物語』を抄出したものが刊行された。一九五三(昭和二八)年八月、かつて聖師によって訂正されたものを、第九巻からあいついで第二五巻まで刊行し、一九五八(昭和三三)年三月からは、普及版として第二六巻から第七二巻まで、さらに第一巻から第二五巻(昭和35・3)までが刊行されて現在にいたっている。普及版は聖師校訂のものを、現代かなづかいにあらためて発行されている。
〔写真〕
○蓄音機に吹込み中の口述者王仁三郎 p677
○当局の検閲はきびしく発売禁止・削除はあいついだ p678