文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第2章 >2 あらたな胎動よみ(新仮名遣い)
文献名3道院・世界紅卍字会よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ702
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他方、あらたな展開をみせたものに、中国の新宗教団体(信仰修養団体)といわれる道院(その慈善事業の活動団体を世界紅卍字会という)との提携がある。道院では「扶乩」による壇訓(神示)にしたがって活動していたが、関東大震災がおこると、壇訓にもとづいて世界紅卍字会中華総会は、ただちに幹部の侯延爽ほか二人の一行を東京に派遣して、白米二千石と銀二万元をおくった。
壇訓には「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」とあり、かねて南京駐在の日本領事林出賢次郎からの紹介もあったので、侯は東京の震災見舞をすますと、一一月三日に綾部をたずねて、まず二代教主と面会し、さらに翌四日、王仁三郎と会見して、ここに二つの団体がたがいに交流することとなった。そのため王仁三郎の意を体した北村隆光は、侯延爽の帰国をおくって渡支した。
山東省の首府済南から東北約三余里のところに浜県という地がある。一九一六(大正五)年ころ、その浜県知事であった呉福林と、当時浜県の駐防営長であった劉紹基との二人が、県暑の尚真人をまつる大仙嗣に神壇を設け、仙聖賢仏の降臨をあおいで神託をうけていた。尚真人というのは唐の紀元後第一の甲子八月朔日にうまれ、のち宋の天佑二年二月二日化身し、宋が南にうつってから、第一甲子の年八月朔日に成道して仙籍にはいったといいつたえられている。ある日、尚真人が神壇にくだって左のような神示があった。
老祖久しからずして世にくだり劫を救い給う。まことに数万年あい難きの機縁なり。汝ら壇を設けてこれを求めよ。
道院では、この老祖を至尊至貴の神として「至聖先天老祖」ととなえ、その下に五教同組の精神にもとづき、老子(道教)・釈迦(仏教)・キリスト(基教)・マホメット(回教)・項先師橐(一儒教)の五大宗祖をまつっている。
道院の設立は一九二一(大正一〇)年旧二月九日で、済南道院は各道院の母体として母院と称し、北京の道院を総院とよんでいた。扶乩は昔から中国につたわるという神示の形式で、道院の人々は、この扶乩に示された壇訓を神示として信じるのである。
こうした内容をもつ宗教団体が道院であったが、創立してからしばらくの間にめざましい発展をみせ、その後華北から満洲および中国全土にかけて会員が増加した。その信奉者は主として、富裕な層が多数をしめた。
一九二四(大正一三)年三月六日には、神戸市にまず神戸道院が設立され、大本との関係が密接になっていった。
〔写真〕
○開設当日の神戸道院 p703
○扶乩の実況 1929─昭和4年 p703