文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第3章 >2 満蒙をめぐる政治情勢よみ(新仮名遣い)
文献名3蒙古の政治情勢よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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普通、蒙古とよばれる地域は、内蒙と外蒙にわかれる。前者は現在中華人民共和国の自治区であり、後者はモンゴル人民共和国となっている。一八世紀の最後半以後、この地は清朝が支配していた。
一九二四(大正一三)年、つまり王仁三郎の入蒙の挙がなされたその年に、モンゴル人民共和国が成立するまでは、牧畜を基礎にした封建制度がつづき、宗教的支配(ラマ教)とふかくむすびついていた。
一九一一(明治四四)年の辛亥革命は、こうした蒙古にもかなりの影響をあたえている。辛亥革命がおこると、同年の一〇月に、ウランパートル(当時庫倫・モンゴル人民共和国の首都)にも独立のうごきがおこり、その結果清朝守備軍と官吏とが放逐され、ハン卜王侯が独立を宣言し活仏が帝位についた。このうごきは、帝政ロシアのあとおしによるところがおおい。一九一三年には蒙古にかんする露中共同宣言、一九一五年にはキャフタで自治蒙古に関する三国(露・中・蒙)協定がむすばれたが、蒙古はなお旧露ならびに当時の中国政府のくびきを脱していなかった。
一九一七年ロシア革命によって帝政ロシアがだおれ、ソビエト政権が成立すると、帝政ロシアのむすんだ条約を破棄し、蒙古の完全な独立権を承認した。しかし、中国政府は、蒙古政府にたいして封建的諸特権の保証を条件に自治放棄を勧告し、さらに安福派(段棋瑞)が北京政権をにぎると、その巨頭であった徐樹鍔軍がウランパートルにきて、一九一九年の末に自治撤廃を宣言した。こうした軍事的支配にたいして、王侯やラマ・・テラートをふくむ全国的対抗の潮流があらわとなって、一九二〇年のはじめにはスへ・パートル、チョイパルサンらは蒙古人民革命党を結成し、封建的神権制度の打破と民族独立をうたった。
一九二一年にはロシア反革命軍が日本のあとおしで、蒙古・ソビエトをくつがえす前堡とするために、ウンゲルンの軍隊が進入してきた。
そして全蒙古を軍事的に支配し、ここに臨時政府をつくりだした。駐蒙赤軍と蒙古人民革命党にひきいられた蒙古の民は、この傀儡政府をたおし、活仏やラマ僧をあわせてあらたな統一政権をつくりあげ、ウンゲルン軍は一九二二年完全においはらわれた。
ボドを首班とする人民革命政府は、王侯やラマにたいする貢税を廃止し、活仏は元首ではあるが、ただ宗教についてのみ力をもつものとされた。こうした革命権力をたおそうとする反革命的企図は何回となくおこなわれた。それらはこのあたらしい国をとりまく国際的条件──つまり列強諸国や中国軍閥とふかく関係していた。一九二四年五月にいたって蒙古人民共和国憲法が制定され、遊牧と野蛮が支配するこの沃野に、民族独立国がうまれた一九二九年までソビエト軍が駐蒙していたごとく、それはソ連の援助によるところがおおいのである。
このようにみてくると、王仁三郎が入蒙した当時の外蒙は、大動乱からあらたな国家が誕生するころにあたっており、そこにはソビエト・ロシア軍もいたのだから、外蒙にはいってゆくことは非常な困難をともなっていた。まして、盧占魁軍と同行してでは冒険というのほかはない。
〔写真〕
○蒙古平原 p724