文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第3章 >2 満蒙をめぐる政治情勢よみ(新仮名遣い)
文献名3中国の政治情勢よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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第一次世界大戦をさかいにして、それまで中国に最大の利権を獲得していたイギリスにくわえて、すでに南満にも根拠地をもっていた日本、さらにアメリカが大規模に中国大陸に進出しはじめた。そして英米日三国の利権をめぐるあらそいは、いちだんとはげしさをくわえ、諸列強の動向は、中国内部にただちに反映していった。日本は辛亥革命を利して政権についた哀世凱が、皇帝になるのを援助し、「対支二十一ヵ条」条約を承認させた。こののち、各地に諸軍閥の反哀戦争がおこり、その結果哀世凱政権は崩壊し、つづいて軍閥割拠の状勢がやってくる。
これらの軍閥のなかでもっとも力をもったものは直隷派と安徽派であった。このほか奉天の張作霖・雲南の唐継堯・山西の閻錫山らが各地に独裁をほしいままにしていた。これら諸軍閥が、いずれも諸列強の売弁的役割をはたしていたことは、中国現代史のいちじるしい特徴である。直隷派は、英米帝国主義の援助をうけ、安徽派は日本の手先となっていた。一九二〇年にいたり、直隷派軍閥は英米の援助で、日本にたよる安福派をやぶり、北京政府は直隷派ににぎられることとなった。この直隷派の権力に対抗するため、日本の代弁者となって強力に登場してきたのが張作霖である。張は東三省のみならず熱河・綏遠・チャハルの三特別区をも支配し、満蒙は奉天軍閥の支配下にはいった。さらに張は直隷派と提携し、段をたおし靳雲鵬内閣を支持していたが、日本の援助によって勢力を拡大し、のちに北京にはいって梁土詔をして新内閣を組織させた。
このことは直隷派のつよい反対をひきおこし、ここに奉天軍閥と直隷軍閥との、第一次奉直戦争がおこった。この戦争も、両者をあやつる英米両国と日本との対立を背景とするものであった。この戦争は奉天軍の敗北をもっておわり、奉天軍閥の北京政府にたいする発言権は完全に消滅してしまった。張は奉天にかえり、一九二二年の五月以降、中央政府からの離脱を宣言して、東三省の自治をうたった。こうして満蒙における張作霖支配はさらに強化されることになる。
王仁三郎が入蒙した一九二四年の前半期は、この年の秋におこる第二次奉直戦争をひかえた両軍閥のはげしいにらみあいのおこなわれていた時期で、張作霖は奉天軍をひきいて北京をねらっており、北京には直隷派の呉佩孚が張作霖を粉砕しようと計画していた。
当時、この方面の特務機関長であった貴志弥次郎少将(のち中将)の語る回顧談によると、盧占魁は蒙古の英雄といわれるぐらいの実力をもち、とくにチャハル・綏遠方面に勢力をもっていた。彼の命令によって黒竜江方面の馬賊はたちどころに動くとみられ、もし盧占魁が張家口方面から北京をうつなら、張作霖は山海関から進撃することが可能となる。こうして、盧の去就はきわめて戦局に重大な影響をおよぼすものとみられていた。そもそも張作霖が盧を自分のもとによんだのも、彼の勢力を考えてのことであり、それを工作したのが貴志特務機関長だったのである(貴志中将談「出口氏入蒙の思出」─「昭和」昭和9・5)。矢野・岡崎、そして入蒙に同行した大石良・佐々木弥一といった人々も貴志弥次郎としたしい人々であった。
このようにみてくると、盧占魁の行動の背後にあったものがはっきりしてくる。日本の特務機関や張作霖は、盧の武力を利用しようとしていたのである。盧にとっては、彼の勢力の挽回策としてこの計画に進んで参加して、蒙古・三特別区方面に覇をとなえることが、張の要請にこたえる所以のものであったであろう。そのために、日本人と手をくみ、そのことによって、日本軍部に気脈を通じ、張作霖を背後から動かそうとしたのではなかろうか。この方面で挙兵するのには、張作霖の許可が是非とも、必要であったからである。
王仁三郎と盧占魁の一行が出発するまでには、四者四様それぞれのねらいがかさなりあっている。まず満蒙に君臨する張作霖の側では、第二次奉直戦にそなえて盧の武力を利用しようとしている。一方、日本の特務機関や満州浪人らは、蒙古にはいってここに「独立国」をたてることを考え、そしてそれを「第三次満蒙独立運動」の口火としようとし、盧占魁は勢力挽回をはかる。そして、王仁三郎は「東亜の精神的統一の段階として入蒙を考えていたのである。