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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第3章 >3 王仁三郎一行の足どり
文献名3奉天での準備
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
OBC B195401c4331
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本文  一九二四(大正一三)年の二月一二日、天空に楕円形の月と太白星が白昼さんぜんとかがやいた。それは第一次大本事件突発の日にかがやいたものと同じであった。王仁三郎は「満三ヵ年を経た同月同日の白昼に同様の異変あるは、決して只事ではあるまい。愈々自分が神命を奉じ万民救済のため、人類愛実行のため、天より我にその実行を促すもの」と決意し、翌一三日ひそかに綾部を出発した。一行は王仁三郎・松村真澄・植芝盛平・名田音吉の四人である。関釜連絡船にのって朝鮮にわたり、朝鮮鉄道をへて、一五日には奉天についた。このたびの行動は極秘をむねとしたためにわずか数人がみおくったにすぎなかった。
 奉天についた一行は、三也商会で、準備のために先着していた北村隆光・萩原敏明にむかえられ、さらに岡崎鉄首・大石良・佐々木弥市と会見した。ほかに、盧占魁の代理として揚萃廷がたずねてきた。
 北村隆光は、まえにも若干ふれたように前年の末に来日した紅卍字会代表の侯・鮑の両人とともに中国にわたり、各道院を訪問していたのである。
 この日、王仁三郎と盧占魁との最初の会見がおこなわれたのは、夜の八時三〇分から奉天城小南辺門外の盧占魁公館においてであった。この会見では、こまかなとりきめはなされなかったが、いよいよここに両者の提携が現実となった。
 一六日、盧公館で軍建制についての会談がおこなわれた。このときの出席者は盧占魁側は、彼のほか、そのおもだった部下である温長興・何全英・秦宣・盧重廷であり、日本側は、岡崎鉄首・佐々木弥市・大石良・矢野祐太郎であった。ここでつぎのようなとりきめがなされている。

(一)まず張作霖の諒解をとり、東三省総司令である彼の軍建制委任状をとること。
(二)十箇旅団を編成すること。
(三)奉天軍に武器の供給を申請すること。万一、軍の現状から提供困難な場合は自費をもって購入すること。
(四)軍兵をあつめるには、綏遠ほか三特別区の哥老会楊成業にあたること。
(五)軍旗、司令旗には、宇宙紋章、(大本更始会章)をもって、そのシンボルとすること。

 こうした決定にもとづいて、ただちに盧は張作霖と交渉にあたった。盧占魁と張作霖との間には、一説によると熱・察・綏自治軍(西北自治軍)をたてる黙契があったといわれる(『王仁蒙古入記』)。盧は張に軍建制委任状と、武器・弾薬・軍費の下付を交渉した。
 これにたいして張作霖は、直隷派との対立がきびしくなっているときなのだから、委任状は自分からではなく広東の孫文にたのんでみよう。しかし、内外蒙古の匪賊討伐委任状をだすからこれを使用するのが良い。武器は奉天軍じたいが欠之しているおりからであるので供給できないが、自費購入なら保安司令部の公送あつかいにしようと回答した。この回答は、盧や王仁三郎一行を満足せしめるものではなかった。張作霖の意向は、これでもわかるように、盧の計画に反対はしないが、かならずしも好意的ではなかった。
 そこで、張作霖を計画に協力せしめるためには、日本軍部を動かすことが有効であると考えられて、大石良が軍部と交渉し、特務機関貴志少将が張作霖にたいする斡旋につとめた結果、二月二八日、張作霖から盧占魁にたいして、西北自治軍総司令に任命し、外蒙古への出動をうながす命令がだされた。

盧占魁中将ハ東三省西北自治軍総司令トナリ、外蒙古ニ出動セヨ、タダシ索倫山ニ司令部ヲ設ケ、シカル後ニ募兵ヲオコナウコト

というのがその令旨であった。盧はただちにモーゼル銃二〇〇・弾丸三〇〇〇・機関銃三・軽機関銃二を購入した
 その一方、募兵工作は、張作霖の諒解をうるにさきだって、三特別区を招撫の中心におき、各地に密使が派遣されて、軍兵を招集しようとした。それは、この地域が盧の出身地であり反直隷派が多数をしめ、第一次奉直戦に盧が奉天軍に加担し、敗北したときの部下がすくなくなかったからである。すでに二月二二日には、井上兼吉がこの目的で出発した。かれは綏遠をへて包頭にゆき、直隷軍第五旅長代理副官楊成業に盧の密書を手わたした。楊は、奉直戦のときに奉天軍閥に参加した宗社党(哥老会)の残党であり、いまは直隷軍閥正規軍に編入されていた。そしてその回答は、盧の再挙を支持するものであった。このほか、旧知の蒙古諸王公・馬賊頭目にことの旨がつたえられた。
 かくて、いよいよ蒙古にむかう準備ができ、日本人側の人々もすべて中国名に変名し、中国服を着用した。王仁三郎は王文祥、松村は王文真、植芝は王守高、名田は超徹、岡崎は侯成勲、大石良は石大良、萩原は王敏明、佐々木は王昌輝、そして矢野は王天海をそれぞれに名のったのである。また王仁三郎はみずからダライラマを称し、松村をパンチェンラマとなのらせて、「大本ラマ教」がつくりあげられた。盧公館で神示によって執筆したという大本ラマ経文というのは、

弥勒如来の精霊、印度霊鷲山に下生し、成長して東誠天教山に顕現す。将に五拾二才、衆生に対し苦集滅道を説明し、道法礼節を開示し、再臨して仏縁深き蒙古に顕現し、達頼喇嘛として普く一切衆生を済度す、年まさに五拾四才なり。

というものである
 なお盧がつれてきた観相師が王仁三郎の相を観じて、王仁三郎の掌中は四天紋、指頭に皆流紋があり、三十三相具備の菩薩相だといったので、盧占魁は随喜の一涙をこぼしたといわれている。そのうえ盧は、掌中の釘形の聖痕や背のオリオン星形の黒子をみて驚喜し、これを彼の部下や他の頭目連にもつたえて、王仁三郎こそ救世主の再来と信じたという。

〔写真〕
○一行 左より佐々木 王仁 岡崎 大石 松村 名田 植芝 洮南にて p731
○従軍の総司令旗 p732
○王仁三郎の名刺 p733
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