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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第3章 >3 王仁三郎一行の足どりよみ(新仮名遣い)
文献名3蒙古へ出発よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-02-27 18:17:54
ページ734 目次メモ
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本文  王仁三郎の一行は、三月三日に奉天をたって洮南にむかった。自動車にのりこんだ一行の旅は、「護照」(通行証)なしの冒険的旅行であった。同八日、東蒙古への拠点である洮南に到着し、松村・名田・井上は奉天から列車で着洮した。
 三月一二日、一行は城内の医師猪野敏夫宅と、日本人会会長平野慎太郎方とに分宿し、中国人の家屋を王元棋の名儀でかりうけ、貿易商長栄号の看板をかかげて、糧食輸送の中継点にあてた。この日井上兼吉が、さきの楊成業の回答文をたずさえ帰命した。こえて同二二日には奉天から矢野が到着し、また公爺府から盧占魁の副官であった温長興に案内されて、協理老印君と蒙古の馬賊頭目マンダハン(張桂林)がやってきた。そして索倫入りの計画がすすめられたが、公爺府から索倫にかけてはマンダハンの勢力下だから、行旅は安心してよいということであった。
 同二五日、温の護衛で王仁三郎はラマ法服をつけ轎車にのって公爺府にむかつだ。トール(洮児)河をわたり、途中三十戸村をへて、七十戸村につき、牛馬宿に宿泊、翌二六日には王爺府についた。一行はラマ僧三〇〇人や里人にでむかえられて老印君の館にはいった。
 二八日、公爺府の王公である鎮国公が来訪した。この地に滞在している間に、各地から救世の大活仏きたるの報をきいた人々があいついでたずねてきたので、王仁三郎は植芝を助手として人々に鎮魂をほどこした。その結果、眼病・皮膚病・梅毒などの病者が、つぎつぎと神徳をいただいて治癒したと『王仁蒙古入記』はのべている。人々は「ナラヌオロスン、イホエミトポロハナ」ととなえて、王仁三郎を思慕したという。翌三一日には、張作霖から盧占魁にあてて、つぎのような示達があった。
(一)東三省側と連絡のあることは極秘とすること、張作霖側も楊参議、李副官そのほか二、三以外これをしらないこと。
(二)三特別区で旧部下をあつめるのが第一の任務であって、これを自治軍として編成するのを主眼とし、たたかいを主としてはならないこと。
(三)盧占魁が挙兵したという報がつたわるなら、直隷派はあるいは三個師団位の討伐軍をむけるかもしれない。こういう場合でも兵火をまじえず、敵の虚をつき自治軍編成をむねとすること。
(四)掠奪強姦を厳禁すること。
 こうした命令をだした張作霖の意図はどこにあったのだろうか。『王仁蒙古入記』はこれについて、

張作霖は最近の奉直戦によって、自分の兵々の足らない事を非常に憂慮してゐた。万々一再び奉直戦が始まらうものなら、市備の整はない東三省は忽ち敗北の運命に陥り、満州王として東三省に君臨する事の不可能なるを知ってゐた。……そこで彼は盧占魁を利用して、内外蒙古に進出せしめ、アワよくば内外蒙古を完全に我手に入れて見たいと思ふ野心を持ってゐた。

 これは他の資料とも総合してうなづける見解である。張作霖が盧にたいして、とくに軍編成をむねとすることを任務としてあたえていることが、これを裏がきしている。しかも、三特別区でこれをおこなえと限定している。だから、ウランパートルまでゆこうという王仁三郎の計画に反するだけでなく、盧占魁の内外蒙古に覇をとなえようとする意図とも対立する。要するに奉天軍閥は、せまりつつある第二次奉直戦にそなえ、直隷派のきりくずしと(盧の軍兵は直隷派正規軍からきたものもおおい)、編成した軍を利用しようとしたことはあきらかである。
 四月にはいると、四日には洮南から松村・名田・猪野敏夫が轎車に衣料と食物を満載してやってきた。一四日には、盧占魁が奉天における五建制の工作をすませ、兵二〇〇をつれて公爺府に到着した。日程の当時の地位は西北自治軍総司令・上将である。盧は王仁三郎にあって涙を出してよろこんだ。
 こうして、四月一六日には西北自治軍軍旗、各旅団旗が制定された。軍の規模は盧の手兵二〇〇・馮占元のそれが一〇〇・マンダハンのそれが一〇〇、その他計五〇〇の軍兵が基幹部隊であり、これに三特別区から参加するであろう兵をもって、十個旅団編成の可能性がみえてきた。王仁三郎は盧に、全将兵に「神軍証」としてつけるよう、大本宇宙紋章二〇〇〇をさずけた。
 四月一七日には、坂本広一と井上兼吉がきた。坂本は満州に日蓮宗の布教を目的としていたが、入蒙の一行に参加するため、この日矢野の連絡をもってきた。また、馬賊頭目の賈孟郷もやってきた。
 王仁三郎はこの夜から、「和蒙作歌辞典」の著述をはじめた。また周囲の蒙古人におしえを蒙古語でとき、病者をいやした。これがたいへん評判になって喧伝されだした。王仁三郎の蒙古名は源日出雄・那爾薩林喀斉拉額都(ナルザリンカチラオト)であり、また弥勒下生達頼喇嘛・素尊汗である。
 二四日には奉天軍洮南府第二七師長張海鵬の副官が、二二人の騎馬隊とともに武器をおくってきた。張作霖が武器をおくってきたのではなくて、盧が購入したものを奉天軍が輸送したものである。
 入蒙の計画が実行にうつされてから約二ヵ月、その努力がみのって、武器もととのい志気もおおいにあがった。翌日、西北自治軍本営を索倫山におくために、マンダハンの指揮で本軍は進発した。二六日、何全孝を団長に、馮虎臣を護衛長として、二〇〇の兵とともに王仁三郎一行も公爺府をたった。

〔写真〕
○奉天で王仁三郎が染筆した色紙 p735
○糧食輸送の中継点 洮南の長栄号 p736
○帰国直後に作成された入蒙進路要図 送還は鉄路パインタラ→鄭家屯→四平街→奉天をへて大連から乗船した p737
○宇宙紋章を染めぬいた熱・察・綏自治軍軍旗 のち西北自治軍に統ーされた 地模様は四色上部の藍色は蒙古をあらわし 中央の宇宙紋は日月地星をかたどり 両者を結合して軍旗は制定されている p738
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