文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第4章 >1 各宗教との提携よみ(新仮名遣い)
文献名3普天教と回教徒との関係よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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蒙古の旅は、雄大な構想と冒険にみちみちていたが、そのくわだては、大本が世界へ雄飛してゆくおおきな第一歩であった。王仁三郎が、責付をとりけされて、しばらく獄中にあった間においても、各宗教との提携はすすめられていった。それは一九二四(大正二二)年の九月三日に、朝鮮の普天教幹部金勝玟が大本を訪問したのにも見出される。
普天教は朝鮮慶尚南道井邑郡に本部をもつ、あたらしい宗教団体である。この金勝玟が大本にきたのを契機として、大本との関係はしだいに密接となり、松村真澄・安藤唯夫の両人が普天教に派遣される一方、金勝玟らも再三大本をおとずれて、両教の提携が成立した。普天教の教主は、これまで世にかくれていたが、神助によって出世するむねを宣示し、その教祖甑山大法天師の正式の葬祭式典とあわせて、一九二五年には教主出世の祭典が盛大におこなわれることとなり、これとともに、同教は積極的な活動にのりだした。それまで普天教は、朝鮮総督府から朝鮮独立をはかる団体であるとみなされて、その注視をうけていた。朝鮮にあっては、キリスト教や天道教をはじめとして、各宗教団体のうごきの背後に、日本からの独立をさけぷ民論がやどされていたからである。このころ同教では時局大同団という組織をつくり、日鮮融和運動をおこなっていた。その理由とするところは、同教の教義である「一心相生、去病解怨」の精神を実行するというにあった。朝鮮は日本の植民地であり、独立をもとめる朝鮮民族は日本の支配にうらみをもっているが、同教は教義にしたがい、万民は一心であり、相生つまり共存共栄し、そのうらみをといてゆくのが宗教本来の立場であることを主張したものである。これはたんに、日鮮が融和することのみを終極の目的とするものではなく、世界人類の融和を宗教的にはかることにつながるものと、同教は理解していたのである。しかし、普天教がこの運動を開始すると大々的な反対運動がおこった。すなわち一九二五(大正一四)年の三月三日には、釜山青年会の主催で普天教反対の市民大会がもよおされた。このときの集会にあつまった約八〇〇〇の大衆は、普天教釜山正教部をおそい、「普天教は親日派なれば、われわれの仇敵である」として、聖殿を破壊し、器具をこわし、投石した。当日普天教釜山の聖殿に参拝した六二人のうち五八人までが殴打されたり、あるいは投石されたために重軽傷をうけたと、当時の新聞は報道している。
このさわぎがあって間もない同年の五月二四日に、普天教の幹部であった金烱郁・崔宗鎬・金勝玟の三人が亀岡に参拝して、数日滞在した。このとき王仁三郎とあい、提携はさらに密接となったようである。金烱郁は、同教の最高幹部四柱の一人であって、役名を「西交」といい、外交監督にあたっていた人である。翌一九二六(大正一五)年の八月一二日には、崇礼士・尹張守の両人が要件をおびて来訪し、二代教主に面接して普天教の近況を報告した。ついで一五日には、尹張守は亀岡の大祥殿で講演をなし、ひきつづき天恩郷に滞在して、二〇日に天恩郷を辞去した。
このように大本と普天教との間には深いつながりができたのであるが、朝鮮総督府などからの圧迫がはげしいので、普天教に関する記事は大本の発行している新聞や雑誌に掲載しないようにとの普天教側からの要望があり、それ以来同教に関する記事は掲載されなくなった。
普天教につづいて、回教徒との関係がはじまった。大本と回教との関係ができたのは、王仁三郎の保釈出獄後の大正一三年一一月一七日からである。すなわちその日に、回教徒の公文直太郎が綾部へ参拝のためにやってきた。公文は二〇年前に日本を出発し、その後満州・蒙古・西蔵・新彊・トルコ・インド・中央アジアなどの各地を回教の信者として旅行してきた人である。このたび二〇年ぶりに日本に帰国した機会に、谷村真友が知人であった関係から王仁三郎に面会することになったものである。インドで使用していためずらしい竹杖を公文は王仁三郎に贈呈したが、この杖は王仁三郎によって「三五杖」と命名された。
公文はひきつづき綾部に滞在し、一九日には、タ拝後に祖霊社で各地における旅行体験の講話をした。王仁三郎もその会合に臨席し、在住信者も多数が参加した。かれは「大本の友へ」と題して、マホメット・クモン生という名で、大正一四年の「神の国」新年号につぎのように記している。
あらゆる宗教を併兼する事は既倒に狂澗を廻らす所の結果を生ずるのであります。実に大本の在る処、日月地星旗は神風に翻りまして、信徒の行きて為す事は総て常山蛇勢を以て成就すると信じます。
不肖マホメッ卜は個人として同教の半月星旗に倚りまして大本と帯属の誓ひを結びます。云々
同年の一月二〇日には、中国研究家であった石山福治と、その友人の回教徒の田中逸平が公文直太郎とともに参綾した。タ拝後に祖霊社で三人の講演がなされている。田中は来綾できたことを非常によろこび、「イスレアムと大亜細亜主義」と題して雄弁をふるい、「大本の教と回教とは霊犀相通ずるものがあり、今後とも共々に世界平和のためアジアの経綸に任じ、神の光を宇宙に輝かすために微力を尽したい」と語った。
このようにして、道院や普天教との提携、回教徒との交流が進展していったのであるが、それでは、各宗教と〝大本が積極的に手をむすんだその目的〟とは、いったいなんであったのだろうか。前章にもふれたように、入蒙の挙は、『霊界物語』に示された経綸を、王仁三郎が地上においておこなう一例だと信者たちはうけとめていた。王仁三郎の入蒙にさいし洮南で、大正一三年三月一八日よまれた歌に〝スサノヲの神の踏みてし足跡を辿りて世人を治め行くかな〟というのがあるが、側近の人々は、まず蒙古におもむき、そこから新彊へ、さらにエルサレムに足をのばして、いずれは中国の五台山で世界宗教会議をひらいて、各宗教の連合を結成するのだと聞かされていた。それは『霊界物語』にある素盞嗚尊の世界遍歴のくだりとも符合するものであった。つまり、王仁三郎の意図においては、万教同根の基本思想にもとづき、宗教的な世界連合をつくりあげることが、各宗教との提携にも、そしてまた入蒙の精神にもつらぬかれていたのである。その具体化として、一九二五(大正一四)年五月の世界宗教連合会の成立をみるのである。
〔写真〕
○人類愛善運動の展開 〝愛の善信の真をば真向にかざして進め海の外まで〟 1930─昭和5年 英国オックスフォード 第22回万国エスペラン卜大会に世界からあつまった代表者たち p762
○左より3人目 三代直日 釈顕蔭 公文直太郎 王仁三郎 石山福治 田中逸平 二代すみ子 p765