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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第1章 >1 現界的活動へよみ(新仮名遣い)
文献名3大祭後の動きよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-10-23 19:10:21
ページ13 目次メモ
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本文  みろく大祭後の本部は、宣教活動が活発となり、また教団の組織体制も軌道にのって、聖師の統制のもとに順調な発展をみるにいたった。そこで一九二八(昭和三)年の八月には、聖師の誕生祭を機として、総裁を井上留五郎・瑞祥会長に東尾吉雄・天恩郷主事に御田村竜吉を任命し、綾部の第一天声社(本社)社長には岩田久太郎、亀岡の第二天声社(支社)社長には御田村竜吉をすえて運営にあたらせた。

〈月宮殿の造営〉 天恩郷の建設はいよいよ本格化し、四月上旬に起工した明光殿が七月二日に完成し、一一月一六日には、信者から待望されていた月宮殿の完成式がおこなわれた。
 月宮殿の建設は、天恩郷を買収したときから計画されていたものであったが、第一次大本事件によって中止のやむなきにいたり、聖師が入蒙後天恩郷の建設に着手してから、ふたたび計画されていたものである。大正一五年一一月二二日には、「国魂石」として全国各地の生石をあつめるようにと発表され、地方の信者はけがれない生石をさがし求め、各地からすでに大小さまざまの石が献納されていた。天恩郷の奉仕者は、亀岡駅に着いた石を郷内に運搬するため毎日総がかりであった。ことに一万貫にも近い巨石は、交通の妨害となるので夜間を利用し、在住信者も総出で綱を曳き、ウインチを巻くという状態であった。こうした「国魂石」のなかにはブラジルやメキシコ、そのほか海外からも送られてきて、さしもに広い郷内は石でうすめられた。
 月宮殿の敷地は、高熊山辺りからつらなっているチャート(Chert)質の岩磐で、天恩郷のなかでもっとも高く盛りあがったところである。その頂点が亀のかたちをしていたから、古くより亀岩とよび、その上に月宮殿が建てられることになったのである。
 聖師は、一九二七(昭和二)年の七月九日から、月宮殿建設の高台に「国魂石」を引きあげさせ、自ら作業衣をまとうて一石一石を配置し、月宮殿を中心にした八字型の国魂宝座がつくられた。まったく昼夜をわかたぬ緊張した作業であって、一三〇〇個の石が四〇日間で積みおかったのである。これについては、『水鏡』の「月宮殿の宝座」の章に、大要つぎのようにのべられている。

月宮殿の設計は月の面である。私は月面の、くま(隈)をこの宝座に移写したのである。見よ、右の細くなって居る所は東の登り囗、左の細い所は、西の登り口、中央の広い所が正面の上り囗、高天閣前の上り囗も、艮の隅の細い上り口も、ハツキリと現はれて居るであろう。中央の平な所が御神殿に当るので、そこに十字形の神殿が建設されるのである。…日本の位置にあたる所に二基の燈籠が立ててある。二本の燈籠は日本の光明を意味する。その光明か全世界の暗を照破する時こそは、真の文明が世界的に建設せらるる時なのである。光は日本からといふ事になる。此宝座は又蓮華台とも呼ばるるので、蓮の花に似て居り、所々に立ててあるチョンマツは蓮の実を型どつてある。…後方に据えられたる火袋のない燈籠は、又一名多宝塔と呼ばるるのであって、竜宮様の宝庫である。此多宝塔が出来上れば物質が豊になる。兎が餅を搗くといふ月の面のあの隈は、実に四十八宝座の形なのであって、築いた宝座は月の形其儘であるから月宮殿の名も出て来る……。明治三十六七年の頃私は今の大本神苑(綾部)の別荘の北手にあつた三坪ばかりの小さい庭に、和知川から小石を拾ふて来ては、積んで楽しんで居たものであるが、それがこの宝座の模型であって、ちっとも違って居ないのである。

 すなわち聖師にあっては、高熊山修業以来約三〇年のあいだ、月宮宝座を築造する日が待望されていたのである。月宮殿は、聖師によって霊界において見分されたものを基本としてつくられたところの、わが国建築史上に類例のない建造物であった。その用材は「信真」に相応させて全部石材で、棟は十字形の構造である。屋根の構造や窓・天井などのつくりかたについては、東西文明の合流点てあるイラン、イラク地方の古代建築物を研究し、アジア古代の伝説的絵画を参考にした独得な構想からなるもので、家でもなければまた塔や堂宇でも神道的な神殿でもない。まことに創造的な建物であったといえよう。したがってその構造工作には多大の苦心がはらわれた。使用されたおもな石材は、力石・本小松石・月の出石・日の出石・更沙石・旭石・黄竜石・桜花崗石・曙石・班糲石・白大理石・蒼竜石・那智黒石・月石などで、それらの石の色によって立体的な色彩をあらわし、合計九〇〇〇個の石材がこれに使用された。なお月宮殿・国魂宝座の周囲は、青・白・黄の石材を粉砕して三色に色別したコンクリート塀でかこみ、正面の入口には欅で門がつくられた。この門を瑞月門とよんでいる。これらの工事は、一九二八(昭和三)年一一月一二日に完了したもので、着手から約一ヵ年の歳月がついやされた。
 聖師の歌には、〝霊界の姿をそのまま築きたる月宮殿の崇厳なる哉〟〝久方の天津神国の石宮を地にうつしたる月宮殿哉〟とよまれているが、月宮殿のたたずまいは、天恩郷の高台にそそり立ち一大偉観を呈していた。したがって完成後は、地元はもとより全国から拝観にくるものがおおかった。
 一一月一二日の真夜中、午前一時に綾部の教祖殿で祭典がおこなわれ、秘蔵してあった月宮殿のご神体を唐櫃におさめ、聖師・二代教主は駕籠でその前後につきそい、他のものは徒歩で一行三六人が綾部から亀岡までの遷座に随行した。このときに使用された唐櫃は、一九〇九(明治四二)年の一一月、弥仙山から神霊をむかえたときに使用されたもので、それに十曜の神紋のおおいをかけたものであった。唐櫃の捧持者は出口慶太郎ら八人であって、一行は一二日の夕方六時に亀岡に到着した。そして、聖師が祭主になり、ご神体のみろく石を出口宇知麿、月照石を御田村竜吉、日照石を井上留五郎、三光石を東尾吉雄、暁の明星石を大国以都雄、宵の明星石を出口寿賀麿が捧持して月宮殿に入殿し、遷座鎮祭の式をすまし、一一月一六日には月宮殿完成式が盛大におこなわれた。
 この月宮殿は、瑞霊たる月の大神を主祭神とする地上霊国での最高最貴の神殿である。この神殿の完成は、すべての信者が待望していて、それだけに完成は今後の神業発展にたいする大きなねがいをこめたものであった。
 天恩郷の建設工事は、一九二五(大正一四)年以来、やすむことなくつづけられており、宣教活動の中心である地上霊国の建設のかけ声は、よろこびと希望をあたえて、信者の気持ちを積極的にひきたて、活動的なムードをかもしだした。なお、これらの諸建設工事についての直接責任者には天恩郷主事補の大国以都雄があたり、月宮殿の石材加工は田口清吉が担当したものである。

〈人類愛善運動〉 人類愛善会(上巻四編四章)の活動もその後ますます発展していった。みろく大祭直後の三月五日には、大阪の朝日会舘で人類愛善会の大講演会がひらかれ、聴衆は一〇〇〇人をこえるという盛況ぶりを示した。このときの講師は、出口宇知麿・栗原白嶺・公文直太郎・古屋登代子(古屋英語塾長)らであった。その後、栗原白嶺・梅田寛一らの講師は全国的な遊説をこころみ、文部の増設とともに「人類愛善新聞」一〇〇万部の発行をめざして活動をつづけた。最初の発行部数は約一万部であったが、昭和三年末には新聞の発行部数も二万六〇〇〇部に増加している。それにくわえてパンフレット『人類愛善運動』が活用され、これもまた増版をかさねた。地方における活動の一例として、岡山県下の場合をあげておこう。栗原は連日活動して二五ヵ所で講演会をおこない、七〇〇余人の新聞購読者をつくったばかりでなく、稲倉・大江の両村では全村がこぞって集団入会している。
 運動の展開は、対外的にもひろげられてゆく。聖師入蒙の意図に感銘した笹目恒雄・荒木秀雄は、一九二七(昭和二)年の八月以来内蒙古の洮南を中心に活動していたが、蒙古人子弟の日本内地での教育を委託されて、一三才より二六才までの蒙古の青少年七人をともない、翌昭和三年の二月二四日に亀岡に到着した。そして聖師に面接して今後の指導をうけた。一行は横浜の大本関東別院に止宿し、日本の教育をうけることとなったが、四月上旬にはさらに三人の蒙古青年がこれにくわえられた。この蒙古青年教育については日蒙親善のたちばから、田中義一・頭山満・小川平吉・望月圭介・鈴木喜三郎・平沼騏一郎・勝田主計・阪谷芳郎・久原房之助・三土忠造・高橋是清・浜口雄幸・渋沢栄一・清浦奎吾・床次竹二郎など一〇〇人にもおよぶ政治家・軍人・財閥の人々が後援している。
 その年の三月七日には、福岡の志賀島に建設中の蒙古軍大供養塔の落成式がおこなわれたので、聖師は井上留五郎を代理として出席させ、供養塔の霊前に祝祭文をささげた。
 また三月一三日には、北村隆光は道院・世界紅卍字会本部の宗壇落成式に参列するために、綾部を出発して中国の済南にかかい、親善をふかめて四月一〇日に帰綾している。
 この年に外人としては、四月九日にアフガニスタンのプラタップ、五月一一日に羅福葆、一一月一〇日に印度のホース、その他が来訪している。

〔写真〕
○国魂石が全国からおくられてきた 富山 p14
○完成した月宮殿 天恩郷の高台にそそりたち一大偉観を呈していた p15
○大本にきた蒙古の青少年留学生 p18
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