文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第1章 >2 教線の拡充よみ(新仮名遣い)
文献名3海外の宣教よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日2017-08-21 20:32:59
ページ42
目次メモ
OBC B195402c5123
本文のヒット件数全 0 件
本文の文字数10434
その他の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい
霊界物語ネット
本文
ヨーロッパ宣教がどのようにして軌道にのっていったかについては、すでに上巻の四編四章でのべたので、ここではその他の海外各地域の宣教状況からみてみよう。
〈満州〉 満州(中国の東北)において、はじめて大本運動が展開されたのは一九二三(大正一二)年のことである。二月一日に吉田平吉が支部長となり、撫順に支部が設置された。
大正一三年の五月四日には、同支部の西島佐一(宣道)が奉天に支部を新設し、北村隆光が本部から派遣されてその鎮座祭に参列した。この年に聖師入蒙の挙がくわだてられたので、この奉天支部が大本側との連絡のための一拠点となり、西島が奔走することになるのである(上巻四編三章)。
一九二七(昭和二)年の一一月に筧守蔵(清澄)は満鮮方向の宣教を命ぜられ、朝鮮を経由して入満した。この当時、長春には西村秀太郎が満鉄にいて一二月一日長春支部を設置し、ついでハルビンで中山長蔵が支部を設置した。大連(旅大)では昭和三年四月三〇日村山盛吉が支部を設置し、長春駅長蓼沼泰一、ハイラルの高木万次郎らがあいついで入信した。また東支鉄道支線の奥地に活動していた南が、一面坡・海林方面に活躍し、高木は沿海方面に中山と協力して活動した。一九二八(昭和三)年二月には安東の岡田士之衛が、八月には開原の脇田としが、さらに一九二九(昭和四)年二月には鉄嶺の中路才助が、三月には四平街の斎藤トクらがそれぞれ大本の支部を新設した。五月には宇城省向が特派され、各地で講演会をひらいてチチハルまで北上している。七月には高木によってハイラル支部が設置され、鈴木六一郎が特派として満州里方面へも活動した。この月の一四日に人類愛善会の支部代表者と世界紅卍字会の東北四省の主部代表者か大本奉天支部に集会して祭典をおこなって提携をふかめた。そして二五日には壇訓によって聖師を弥勒仏として崇敬することとなり、聖師の写真を道院に奉斎することになった。九月に世界紅卍字会赴日団の渡日があり、聖師・二代教主らが一行の帰国に同行して一〇月に渡満巡教したことは前述したとおりである。
同年一〇月一二日には満鉄地方事務所長の発意によって、各教化団体と宗教団体をもって教化連盟を組織することになり、長春においてその発会式があった。その結果、大本側から西村秀太郎、人類愛善会からは浜田豊樹がその委員に選出されている。
一九三〇(昭和五)年には本部との連絡機関として分会組織がつくられ、分会長には西村秀太郎が就任し、次長には西島宣道が任命された。そして道院および世界紅卍字会の奉天の東北主院を介して、済南および北京の本部と連絡をとった。
〈朝鮮〉 大本と普天教のつながりについては前述したところであるが、安藤唯夫は普天教に駐在していたことがある。一九二六(大正一五)年の六月には、平壌の川田兵太郎・鎮南浦の児島宏が本部から吉原亨をまねいて映画と講演の会を数ヵ所で開催し、多大の共鳴者をえた。一九二七(昭和二)年の一一月には、筧守蔵が派遣され、川村釜山支部長をたずねて講演と病気お取次をし、さらに京城・仁川をへて春川の川崎勇宅におもむいて、平壌と鎮南浦などで宣教し、さらに入満した。
一九二八(昭和三)年には奥村孝国、一九二九(昭和四)年のはじめには江崎浪平・宇城省向らも宣教した。同年の一〇月には、聖師・二代教主の一行が満州巡教の途次、釜山・京城・平壌・鎮南浦などにたちよったが、一九三〇(昭和五)年に深水静か駐在してからは、新義州・蔚山に支部が新設され、平壌に分院がおかれて松並高義がその管事に就任している。九月には、鴨緑江をはさんで安東県と新義州の大本と人類愛善会が中心となり、これに一般有志の婦人がくわわって月星婦人会が結成された。相互の修養と信仰の向上を目的とし、委員には各宗教団体や修養団体の人々も名をつらねていた。一九三一(昭和六)年はじめに宇城特派は、平壌・鎮南浦・仁川・釜山・清津・木浦・元山などで聖師の作品展を開催している。その後、石丸順太郎が特派され、奉仕機関としては鶏林会がつくられて、井町吉三が会長として活躍した。
〈華北と上海〉 一九二一(大正一〇)年の夏、吉見清子が聖師から染筆の半切七枚を手わたされ、「二、三ヶ月支那へ宣伝にゆき、誰か適当な人とおもふ者に渡してくるやう」と命じられた。吉見は、当時朝鮮の亀浦向島から本部へ修業にきたことのある楢崎貢宅にたちよって、宣伝にしたがったのち、北京へ直行して無事にその任務をはたすことができた。
北村隆光は一九二三(大正一二)年以来、世界紅卍字会との関係でたびたび中国へおもむいて交流をかさねていたが、一九二七(昭和二)年の一一月に、第二回亜細亜民族会議(第一回は長崎で開催)が上海で開催されたとき、北村がこの会合にオブザーバーとして出席して、ついで世界紅卍字会・道院を訪問した。当時海洋社の宮田信一と富士公司の前沢次三郎は、かねて大本の出版物を読んでおり、宮田は人類愛善会支部を設置したいとの意向であった。その後、北村は世界紅卍字会をとおしてひきつづき大本の宣教をおこたった。
一九二八(昭和三)年の一一月一五日にいたって昆明路二三号に上海支部が設置され、河野さみが支部長に、石田謙一が相談役にそれぞれ就任し、瀬浪専平が宣伝使に任命されて上海における活動も活発化していった。
〈ブラジル〉 大本沼津分所長近藤貞二(勝美)は、親族の大本信者石戸次夫(義成)と相談し、ブラジルにおもむいて大本の宣教をしようとこころざした。一九二六(大正一五)年七月、加藤明子を通じて聖師にうかがったところ「ブラジルは、霊界物語に口述してあるハルの国で、誰か行かねばならぬところだ。農業をしながら宣伝してくれると結構だ」という返事だったので、ブラジル行きを決意した。さっそく渡伯の準備をおえた近藤・石戸の二家族は一〇月一五日そろって綾部に参拝した。このとき聖師は渡伯後のことをこまごまと注意し、「霊界物語の三十巻から三十四、五巻にわたり、くわしく書いてある因縁の深いところじゃ……アンデス山脈は物語に高照山と書いてある」など説明した。そして、近藤らに特製の楽焼の茶盌が渡され「ブラジルにはいろいろの病気かおるから、これでお水をいただかしてやれば治る」、ついで家族のものには楽焼の猪口が渡されて「風邪くらいの病にはこれでお水をいただかせば治る」との指示かあり、「しまひには、大将かぶにお取次ぎするやうになって、ずっと拡がる」とのことであった。大正一五年一〇月一三日付で大本ブラジル分所の設置が許可され、近藤勝美には「南米全州における大本宣伝事務を委任す」、石戸次夫には「南米諸州における大本人類愛善会の宣伝事務を委仟す」との、聖師直筆の辞令が渡され、勝美の長男真弓は宣伝使に補された。さらに二二日亀岡天恩郷に参拝すると、聖師から「これは眼病の場合に、これは腫物などの場合に、撫でてやれば治る」と両人に二個づつの霊石が渡された。両人は勇躍して多数の信者に見送られ、神戸よりラプラタ丸に乗船、喜望峰を迂回して、一二月サントスに上陸した。
ブラジルには、一九二四(大正一三)年一月、広島県出身の信者尾山照吉がすでに移住していた。尾山が出発にさいして綾部に参拝したとき、聖師から「わしが守ってやるから心配するな。あとから行くから支部をつくって膳立てをしておけ」との言葉があった。二代教主にしたしく見送られて渡伯したが、生業に専念し、近藤らが渡伯するまでには二、三の信者ができていたにすぎなかった。したがって大本ならびに人類愛善会は近藤・石戸によって本格的に宣伝されてゆくことになる。
近藤・石戸らは配耕地サンタテレーザ・ド・ヤルフイン耕地コロニヤに一応おちつき、大本のブラジル分所を設置した。そこではコーヒーの栽培に従事しながら、お取次と宣伝につとめたので多数の人々が支部をたずねてくるようになった。しかし、第一次大本事件の悪評がつたわっていたので、最初は同地区の日本人から宣伝を妨害された。また日本人は労働にのみ専念して信仰的なものはうけつけなかった(「近藤手記」)。そこで宣伝はむしろブラジル人におこなったので日本人よりもブラジル人の入信者がえられやすかった。近藤真弓は、風俗や習慣・言語などが日本人とよくにているブーギレ族がミナス方面に住んでいることを聞いて、一九二七(昭和二)年六月、単身ミナス方面への旅をこころみた。途中お取次をして松本梅雄のリョウマチが全快し、このことを機縁に六戸の大信者ができたが、ブーギレ族にはめぐりあうことができなかった。
ゴイアス州では、北海道出身の信者須貝洽右衛門との連絡がつき、その後昭和五年三月には、北海道出身の信者干種増吉とも連絡ができ、それより益子・加藤が入信している。
二年の移民契約をすました近藤らは、サンパウロの日本人集団地の農耕に従事しながら、土地をかりうけて家屋建築にとりかかったが、雨期の出水で被害をうけ、せっかくの計画も水の泡となった。一九二九(昭和四)年一月に分散して、石戸はサンタナ果樹園に働くことになり、近藤はサンパウロ市の旅館の支配人となった。そして五月、独立のみこみがついたので近藤はペンヤ区に移転して宣教活動をつづけ、真弓は大本の宣伝と「人類愛善新聞」の拡張に専念し、一九三〇(昭和五)年九月に人類愛善新聞社南米支社を設置してその主任となった。
同年の一月、モンロビーの信者らと協議して愛善農園をひらくことになった。しかし計画なかばにして地主からことわられ、山下国雄の開墾地に変更された。ちょうどそのころ、サンパウロに支部を設置して活動していた志村巳代治がブラジル分所をたずねて連絡ができ、三月にはサンミグェールの中村重太郎夫人に病気お取次をしたことから、親族の田力常信・源川春雄・大塚清蔵・犬塚三郎らが入信、順次信者は増加していった。間もなく同地のブラジル人ルイス・アソンより土地一アルケールを献納するという申し出かあり、これを契機に万教共通の神殿を建設することが計画された。七月には建設地の調査をすまし、信者の奉仕によって一九三一(昭和六)年八月には間口七・五メートル、奥行一七メートルの神殿が完成し、その後、聖師によって「人類愛善堂」と命名された。同年三月には、近藤は愛善事業としてサンバウロ市に愛善倶楽部を開設し、宿泊部・職業紹介部・講演部・医療部などをつくって社会奉仕を積極的におこなった。医学博士高岡博太郎は愛善事業に共鳴して医療部の主治医となり、警察・領事館からも病人や職を失った者が送りこまれるようになった。また官営・私営の病院に入院する手続きをあっせんし慰問などをはじめたので、愛善事業は大いに発展した。その結果多数の入信かおり、「人類愛善新聞」の購読者も1000人に達した。セッテパラスにも西武次を中心として大本の支部ができ、サンタアデリヤには尾山照吉、モルンビーには山下喜内がそれぞれ支部長となって宣伝につとめ、松尾義雄・安田明・山下国雄らは人類愛善会の支部を設置して活動した。
一九三一(昭和六)年二月九日、加藤一志郎がビリグイ・ジョニヨに支部を開き、また大本ブラジル分会が設置されると、近藤勝美は分会長・石戸次夫は次長に任命されて、ブラジルにおける教線もしだいに拡大された。
一方、人類愛善会の活動を使命としていた石戸次夫は、一九二九(昭和四)年五月一九日には人類愛善会ブラジル本部長となり、同年九月二五日にビャード耕地に移った。石戸は農耕のかたわら、み手代によってお取次をなし、聖師から渡されていた楽焼でお水を病人にあたえると奇蹟的におかげをいただくものが多く、ブラジル人たちが毎日くるようになった。最初のころは、お取次は週一回日曜日としていたが、難病の人が全快してゆくので、平常の日にもおしかけてくる人が多くなり、なかには政治家・実業家・地主らも入信するまでになった。そのため、農作物の収穫がおくれ、コーヒ園の除草もできず、ブラジル人の謝恩奉仕できりぬけることがたびたびであった。ことに日曜日には未明から参拝者・難病人が二、三百人もつめかけ、妻の敦子・娘の英子らもお取次を分担したが、それでもなお、おいつかなかった。こうした努力がたちまち一般に大きく喧伝された。そこで薬剤士・医師らが共謀し、お取次は国法に違反するものとして、石戸の投獄運動がひそかにくわだてられた。しかしこのことを信者が前知し、石戸に注意したので、それからしばらくはお取次を自粛してことなきをえた。
一九三一(昭和六)年九月、石戸はウベルランディア市に移転することになったので、人類愛善会ブラジル連合会(本部を改称)も同市に移った。ここではすでに大本支部を森静雄・人類愛善会支部を加藤由一が設置しており、信者西村熊次郎らも活動していたので、これらが石戸に協力して通訳兼お取次の手伝いをしたが、週一回のお取次が多いときには三百五、六十人にものぼり、やむなく火・木・土の三回とすることにした。しかし参拝者は増加して、多いときは四五〇人にもたっし、門前にはいつみても四、五〇台の自動車が駐車している盛況となった。
一一月一四日、早朝より多数の人々が参拝しているとき、突然ウベルランディア警察署長は医師・薬剤士らに案内されてきて、参拝者に退散を命じ、神床を調査し、楽焼や目ぼしい物品・伯貨などを押収したうえ、石戸・森・加藤・西村の四人をアラグワリ市の警察署に留置した。そしてその日の午後八時ごろ法廷にひき出され、「ペンゼ(お取次)禁止のミナス州に於てこれを行ひたる行為は甚だ不都合なれば、ベーユ(老人・石戸)を死刑に処し大河へ投げ込む」と宣言したので、他の三人が抗議したところ「それなら全員同罪なるにより今夜一二時、リオダスベーヤ、バフラード、ポンチの上において死刑を執行、死体は河中に投ず」と一方的に宣告し、着用していた上衣をはぎとり、シャツ一枚にして獄屋に投じた。
四人のものが拘引されたことを知った信者や人類愛善会員は、大挙して警察におしかけ釈放を迫ったが拒否された。しかし集合した信者などは一歩も退かず、ついには警察を破壊すると叫び、鉄砲を持ちだすものもあって不穏の状態となった。このとき州一流の政治家マルコデフレークスは、人類愛善会員の裁判官フランシスコ、政治家メラーズ、実業家アントーニヨ・ロモアルド、同ジョアキン・バルボーサらと協力、石戸らの行為は「愛善の精神によって金品を要求せず、処方箋を出さず、薬品は一切用ひてゐない。ただ神霊に祈願し、お水を呑ますのみで、現行法令に違反してゐない」という理由で、放免運動を起して当局に迫った。このためか、一五日朝、突然釈放されることになり、「この市内に滞在中の日本人、人類愛善会ブラジル連合会本部は、願により、薬品の処方を用ひざる範囲に於て祈祷療法を許可す」との認可状をだし、押収した楽焼などをも返還した。ところが一八日、警察署長がふたたび訪ずれ「自宅に群衆を集めて取次せぬやう」にと懇請したので、それからは請わるるままに出張してお取次ぎするようになった。しかしこの事件があって以来、いよいよ声価をたかめ、多数の民衆が神徳に浴する盛況となった。
聖師はこのことを聞き、〝千重の波ふみて渡りし宣伝使の身を安かれと祈る朝夕〟〝千万の悩み苦しみ物とせず進みて行かな宣伝の旅〟など六首の歌をおくってその労と功をたたえた。
ブラジル新聞通信(昭和6・12・30)が「大本教の宣伝使、石戸次夫氏外三名がカトリック以外他宗教の布教を禁止している州で数千名の信徒を集め、日本式の祭壇に参拝させたとの理由で市警察署に強制引致の上投獄され、死刑に処し、深夜パラナイー河橋上にて刑を執行すると威圧された……」と報じているように、この事件は医療法違反のかたちで表面化したが、カトリックを国教とするブラジルでは他宗教の宣伝はきわめて困難な実情にあったのである。
このことを国交上重大と見た日本総領事館は、石戸に事件の真相を文書で提出させたので、詳細に報告し、さらに保護を要請したのにたいし「絶対権たる領土高権を有して領土内居住者に対しまする伯国の法令に違反する行為などに対しては、遺憾ながら、何等の支援をなし得ざるのみならず、在留邦人の行為が我が帝国の政策を阻害する場合は断乎たる措置を避け難いのであります。貴方に於かれても、帝国の移民政策を阻害する行為及び伯国の法令に背反する行動は今後絶対になさらぬ様せられたく、茲に前以て予め御警告申上ぐる次第」という公文の警告が回答であった。
〈メキシコ、ペルー〉 大塚良郎(利胤)は一九二七(昭和二)年の二月に入信した。メキシコにわたって歯科医を開業しながら神業に奉仕したいとの念願をいだき、一九二八(昭和三)年の三月一九日に横浜を出発し、日墨間の歯科医互恵条約が廃止になる前日の四月一九日に、マンサニーヨ港に到着した。すぐその足で日本公使館とメキシコ政府内務省にはせつけて、二〇日すれすれにその手続をすませることができた。
大塚はハリスコ州・グスマン州で開業し、大本メキシコ支部(設置番号五六七)の支部長となり、また人類愛善会支部(支部長二宮市二郎)をひらいて、一二月には家族をよびよせた。そしてこの年八月三一日には長谷川善録・門脇栄孝らも渡墨した。大塚は一九二九(昭和四)年にアメリカ国境近くのチワワ州に宣伝にでかけ、同市の日本人会長二田義勝を支部長として、大本と人類愛善会のチワワ支部を設置した。また五月一日に大塚は、増山源一郎とチワワ州バラール市へも宣伝におもむき、山崎喜三郎が入信して支部が設置された。
翌年の一〇月に住居を東海岸唯一の港であるマンサニーヨにうつして、開業のかたわら海陸両面への宣伝につとめた。ここでも順次入信者ができ、その年の暮には中村熊吉が支部長になって、ここにも支部が設置された。ついで碓井重憲や、コリマ州カレラスでバナナ園を経営していた山口杉二兄弟なども入信して、大本の支部が設置された。また昭和六年四月には、大塚の手引きで入信した宮本つね子が修業のため本部へ参拝し、日本への航海の途次船内で宣伝して、修業希望者を一〇数人もつくるということもあった。こうして大塚らの熱心な宣伝によって、はるばる亀岡の本部に修業にくる信者や、宣伝使に任命される人々も数をまし、道をもとめる人々もしだいに多くなっていった。
なお一九二九(昭和四)年の三月には、川上修爾がペルーのリマ市に支部を設置する承認をえて、農耕にしたがいながら宣伝につとめている。昭和四年六月、大塚はつぎのような通信を本部によせている。「メキシコは一国をあげてカトリックの熱烈な信仰に有之、他宗を目して邪宗なり、悪魔なりとまで思ひおり、……今まで僧侶は神の使ひと称し、また一般もかく信じて僧の為すところは絶対に従ひ、あたかもローマ法王の領土と少しも変るところなく候」。
メキシコやブラジル、ペルーなどの中南米諸国の多くは、カトリックを国教としているため、他の宗教の宣教はなかなか許されないのである。しかもブラジルなどでは、さきにもふれたように医療法による取締がきびしく、お取次も誤解されてその実践がおもうにまかせない。そうしたなかでの大本の宣教活動は、まことに困難なものがあったといえよう。そのために大本の名によらないで、人類愛善会の名によって、しだいに宣教のコースを開拓してゆくという方法がとられたのでもある。
〈その他〉 一九二九(昭和四)年の一月には、肥田野源蔵が宣伝使を拝命して、カナダのオーシャン・ホールスに大本のカナダ支部を設置した。
一九三〇(昭和五)年の六月一三日には、日沙商会サマラハン・ゴム園の西田忠蔵がボルネオ島サラワク国クチン市に大本の支部を設置した。ついで九月一五日にはフィリピンのマニラ市に筒井新が大本の支部、小越俊三郎が人類愛善会の支部を設置し、また翌年にはマライ半島バタンマラッカ市に鈴木喜久男が渡り、ゴム園に働くかたわらそれぞれ宣伝につとめていた。
一九三一(昭和六)年の七月二一日には、南洋ポナペ島コロニー町に支部長木田安次郎・相談役高塚忠俊らで大本のポナペ支部を設置し、開栄社を経営した。開栄社は同年人類愛善会が創立したもので、宣教のかたわら開拓事業をおこなうものとされていた。八月には、開発の先発隊一〇余人が派遣されている(二八四頁の地図参照)。
こうして昭和五、六年ころには、東南アジアから南洋方面へも大本宣教の基礎がきずかれつつあった。
〈ヨーロッパ〉 ここでヨーロッパにおける昭和三年以後の宣教状況をのべることにしよう。パリから一九二七(昭和二)年の一一月帰国した西村光月は、ヨーロッパ宣教の状況報告をかねて日本各地で講演をしていたが、ふたたび渡欧することとなり、一九二八(昭和二)年の七月八日、宣伝使小高英雄をともなって欧州へと旅だった。
シベリアを経由し、途中ポーランドのワルシャワ、ベルリンにたちよってエスペランチストらと交流をふかめ、オランダのパークでは世界宗教会議に出席したのち、八月四日からのベルギーのアントワープ(アンベルス)における第二〇回エスペラント大会に参加し、ここでも宣教につとめた。滞在中の一週間に、ペルシャ(イラン)のレシトとダブリーズに大本の支部を、アメリカのニューヨーク市に人類愛善会の支部をつくる連絡ができた。
両宣伝使は八月一一日、パリの人類愛善会欧州本部事務所につき、シシコフ宣伝使から留守中の報告をうけて、ただちに宣教活動にはいった。西村らがパリに到着するまでに、四月二二日付で、ヨーロッパ在住の外人信者一三人が宣伝使に任命されていたので、欧州の宣教にはあらたな力がくわえられていた。その後両宣伝使の活動で、欧州宣教もますます活発となり、ブルガリアのヅブニカその他にも、つぎつぎに支部が設置されていった。
以前からの文通で連絡のあったブルガリアの新精神運動白色連盟は一九二八(昭和三)年の一一月に、ドイツの「白色旗団」と全国の各新聞や雑誌に大本の紹介記事を掲載した。またフランスの「ルヴユーコロニアル」、オーストリアのウイン発行のエスペラント雑誌「世界語」も大本の紹介記事をのせた。
一九二九(昭和四)年一一月二八日には、いよいよパリに大本瑞祥会欧州本部を設置することになった。当時のヨーロッパでは宣伝の中心はやはりエスペラントに関心を示す人々にむけられ、人類愛善主義がこれらの人々をとらえていったのであって、それ以上に前進することはなかなか困難な面があった。しかし、大本が宗教的本質をそなえたものであることはひろく知られていたので、なかには大本の教義をきわめようとする人々もあらわれてきた。そのために、まず仏文『新精神運動大本』二〇〇〇部があたらしく出版され、ついでハンガリー語訳や露語訳の準備もすすめられた。また『霊界物語』第一巻のはじめから第一二章「顕幽一致」までの仏訳もできあがり、「国際大本」の誌上には、「聖師伝」をはじめ『霊界物語』のエス訳が連続で掲載された。
一九二九(昭和四)年の七月には、エス文の機関誌「国際大本」の八月号に愛善堂建設についての宣言書が発表された。これにたいしては、カトリック僧らのなかに建設に反対するものもできてきたが、各地の大本や人類愛善会に共鳴する人々から、つぎつぎに建設基金かよせられてきた。
その後小高は、チェコスロバキアの国境にちかいニーメスに宣伝の旅にでた。その結果ブルガリア・ルーマニア・ユーゴスラビア・ギリシア・アルバニア・チェコスロバキア・ハンガリー・オランダ・スイス・オーストリア・ベルギー・スペインなどにも共鳴者がつくられていった。小高は、一九三〇(昭和五)年の七月二五日、本部からの召電によって急拠シベリア経由で帰国の途につき、八月一四日に天恩郷に帰着した。
八月一日、西村はイギリスのオクスフォード・エスペラント大会に人類愛善会員山本佐二・ゲユゲエフ宣伝使らとともに参加した。そのおり、四日にクライスト・チャーチ大学構内で、大本分科会をひらき、六日には小集会をもよおしている。このときの会合には一二ヵ国よりの参加者があった。一二月にはイギリス・リバプールの商学士ドクートが「国際大本」の副編集長となり、人類愛善会ならびに愛善堂建設に協力することとなった。「国際大本」には教授や詩人のほかエスペラント学界の有力者らが執筆しており、大本に関する記事や出版物を飜訳したり、エスペラントに関するものなどを掲載していて、各国でひろく購読されていた。
愛善堂建設については、一九三〇(昭和五)年の一〇月までに二〇ヵ国二二九人より、八一〇二フランの基金寄贈をうけ、翌昭和六年の六月にはベルギーのシンドヴット夫人ほか数人が建設委員となることを承諾した。もとよりその前途に障害がなかったわけではない。大本との提携団体になったブルガリアの白色連盟が正教会に迫害されたり、ルーマニヤのコルモス宣伝使が周囲の人々から圧迫されたりするようなこともあったが、愛善運動はそれらの障壁をのりこえてしだいに拡大されていった。
〔写真〕
○満州・朝鮮の関係地図 第1章第2章第4章の記事参照 p43
○中南米の関係地図 第1章第4章の記事参照 p46
○コーヒーの採集 石戸のスケッチ p47
○万教共通の神殿 人類愛善堂 サンミグエール郊外 p48
○〝玉の緒の命を的にブラジルの荒野に道を開く神使〟 p51
○日本総領事館の警告 p53
○欧州宣教の拠点 大本瑞祥会欧州本部 パリ p55