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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第1章 >3 教団発展への動きよみ(新仮名遣い)
文献名3宗教と芸術よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-02-08 23:37:44
ページ57 目次メモ
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本文  宗教と芸術との関係については、一九二三(大正一二)年の七月に、聖師によって、『霊界物語』(65巻・総説)につぎのようにのべられている。「芸術と宗教とは兄弟姉妹のごとく、親子のごとく、夫婦のごときもので、二つながら、人心の至情に根底をかため、ともに霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ちうつらしむる人生の大導師である。地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる嚮導者である。故に吾々は左手を芸術にひかせ、右手を宗教にゆだねて、人生の逆旅を楽しく幸多く、たどり行かしめんと欲するのである。……しかしながら、芸術はひたすらに美の門より人間を天国にみちびかんとするもの、宗教は真と善との門より人間を神のみもとにいたらしめんとする点において、少しくその立場に相違があるのである」。このように「真の芸術と宗教とを一致せしめ」たいというのが、聖師の年来のねがいであった。
 聖師は青年のころから、狂歌・狂句・冠句・川柳などに趣味をもち、さらに岡田惟平に師事して和歌の素養もふかかったし、浄瑠璃や浄瑠璃くずしの音頭なども得意であった。『霊界物語』が小説のような文体で口述されたり、そのなかに長歌や短歌がかなり多く、また『霊界物語』を朗読させ、神劇として上演させたりしたのも、芸術にたいする聖師のふかい関心とけっして無関係ではない。
 数年前から、もとめられるままに書画の揮毫が聖師によってなされていたが、一九二六(大正一五)年の一月には、はじめて油絵がかかれた。そしてこれは穴太の小幡神社に奉納された。この油絵は蒙古の原野にあそぶ八頭の馬をえがいた雄壮なものである。ついで二月には楽焼がつくられはじめた。四月からは日記がすべて歌でよまれることになり、「真如の光」に毎号発表されるようになった。
 八月一〇日には、聖師の提唱によって月光会という和歌と冠句の会がつくられ、月刊誌として「月光」が発行されることになった。これによって信者の文芸的情操をそだて、冠句・和歌の入選者には、聖師から自筆の色紙や短冊が賞品として渡された。
 第一回に募集された月次冠句は、八月三日に大祥殿で開巻したが、集句は一三五〇句・抜句は二〇六句で、聖師(安閑坊喜楽宗匠)の選となっている。その後和歌については月明会がつくられ、第一回は「上静波」の題で募集された。
 そして一二月一九日に大祥殿で開巻、総集歌二六〇首・抜歌一三一首で、やはり聖師(月の家和歌麿)によって選がなされた。
 一九二七(昭和二)年の一月一八日には、月光会と月明会とを併合して明光社ができ、二月四日には冠句会の「月光」の姉妹雑誌として、和歌の雑誌「月明」が発刊された。その創刊の辞は聖師によってつぎのようにかかれている。

畏くも神素盞嗚尊は千座の置戸を負はせ玉ひて、八雲立つ出雲の国は肥の川上に八岐大蛇を退治し賜ひ、手撫槌、足撫槌の末女奇稲田姫の危難を救ひ、翁媼より姫を貰ひ受け、須賀の宮居を造営し玉ひて、『八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を』と三十一文字を読み玉ひしを以て和歌の濫觴となす。尊の亦の御名を月読命と尊称し奉る。尊は高天原の変より八百万の神々たちに神退はれ、普天率土を愛生愛民の大志を起して遍歴し玉ひし神代の大英雄に坐しませり。爰に明光社は尊の御名に因める雑誌「月明」を発刊し、以つて敷島の大道乃ち惟神の妙地を開拓すべく生れ出でたるものなれば、大にしては愛神愛民の基礎となり、小にしては修身斎家の基本ともなる可く一大抱負を以つて将にここの声を挙ぐる事となりました。……神務多端の折りをも顧みず、神業の一部として爰に月明誌を発刊し、斯道奨励のために資せんとするのであります。

 和歌の道の由来がとかれ、神業の一環としても重視されていたことがよくわかる。「月明」は六号、「月光」は一一号まで刊行されたが、その後これを併合して「明光」と改題され、一二号を八月三〇日に発行し、一一二号まで継続刊行された。一九二八(昭和三)年の七月二日には芸術の府として明光殿がたてられて、ここに明光本社をおいた。そして、和歌・冠句の天巻一〇冊をえたものは、宣伝使の級位一級ずつ昇任すると、聖師から発表された。なお、この新築を記念してあらたに三代直日(木の花暁丸)・教主補日出麿(へちま、昭和四年一月より天品坊極楽にあらためられた)が選者にくわわって、木の花短歌と俳句の選をすることとなった。またこれまで設置されていた地方の冠句会を、支社としてとりあつかうことにした。昭和三年の一一月一六日には、明光社長に出口寿賀麿(秋の家玲月)が任命され、副社長には井上荘三郎(瑞の家荘月)が任命をうけた。当時全国にすでに支社五〇ヵ所が設置されており、社友も増加してきたので、一九二九(昭和四)年の二月の節分祭には明光社の規約が制定されている。
 一九三〇(昭和五)年の九月、聖師みずからがその総裁となって、「明光」誌の倍加運動かおこされた。翌年の二月、この明光運動について、大要つぎのような聖師の言葉がある。「(八雲立つ……の歌は)素盞嗚尊が稲田姫を娶って須賀の宮に住まれた時の喜びの歌のやうに思って居るが、これは言霊学上非常に深い意味があり、現代を予言された歌である。歌の大意は日本の国は仁慈の国、平和の国でなければならぬのに、唐国にならって村々も個人も八重垣を作ってゐる。その八重垣をどうしやうか、再び世に現はれて取払ふことにすると詠んだもので、下の句『八重垣造るその八重垣を』と『を』の一字に凡ての経綸を預けてあるのだ。明光運動はその神素盞嗚尊の精神を奉戴して実行するのである。神様の道を宣伝するとともに、明光運動を忘れないやうに願ひたい」と。また「神業の片棒になふ明光社」という句もつくられた。
 聖師の歌風は、一般の歌壇のそれとはことなって、日常の生活・道歌・諷刺・情歌そのほか姓名をよみこむなどというように、新旧にとらわれず、さらさらと楽天的によまれたものがおおかった。また俳句を随意句と称して、季節や句切りにとらわれず、自由に思いのままを一七文字によんだり、冠短句として「明光」誌に短詩を創作したりしている。
 聖師の現代歌壇への進出は、一九三〇(昭和五)年の五月に、前田夕暮が天恩郷をおとずれたときからで、その結社へ入会し、雑誌「詩歌」に聖師の歌が投稿されたりしたのがはじまりであった。八月には、自然社の米倉章吾や「短歌月刊」の楠田敏郎らが天恩郷をたずねてきたのを機縁として、自然社にも入社した。その後、全国の五〇余の歌壇に入社し、二〇首ないし四〇首くらいずつ毎月投稿された。
 とにかく、当時有名無名の全歌誌に投稿されたのであるから、その意欲的な創作ぶりにびっくりする人や、あきれる人も少なくなかった。聖師によって「歌人の中には自分の多作・多入社にたいして、芸術的道徳に欠けてはおらぬかと評する人もあるか、自分としては所謂、歌壇の趨勢を観望して歌魂を練り、真の歌人として生きたいと思ふて精進して居る次第である」といわれているのも面白い。なお、各歌誌への投稿はそれぞれ雅号をことにし、たとえば「あけび」には堅田落雁。「アララギ」には玉川清風といったぐおいで投稿されたのである。これらの歌は、合計すると何万首になるかわからないが、外部の雑誌のみでなく、大本の各種機関誌にも聖師の詩歌が毎号掲載されていたのであるから、その創作力はまことに驚嘆すべきものがあったといえるだろう。これらの歌はあつめられて、一一冊もの歌集として出版されている。それらは、主として一九三〇年から三三年までによまれたものを集録したもので、第一集として『花明山』が一九三一(昭和六)年の五月に刊行された。それには前田夕暮と楠田敏郎が序文を記し、飯田兼次郎が跋文をかいている。前田は序文のなかで「量の上からいへば恐らく独歩であらう。また其自由にして捉はれざる点、東西南北、天地玄黄的なところ、これは他の人の追従を許さざるところだ。が、今直ちに氏の歌に対して批評の筆をくだすべく、まだ早いやうな気がする。と同時に私にはつかまへどころがないほどその境地は曠野のやうによいのである。さうだ、王仁三郎出口瑞月氏の本態は容易に捕捉出来ぬほどにまた未来があり、茫漠としている。氏は現代のスフヰンクスである」とのべ、また飯田は「プロレタリヤイデオロギーの歌があり、自由律があり、アララギズムがあり、定型律があり、大本イデオロギーがあり、古今調があり、と、全短歌のもつ、あらゆるものを包容してゐて、スケールの大きさは、歌壇第一と言ってよいと思ふ」とその特異性を記している。
 一九三〇(昭和五)年の七月には、蓮月亭の窯びらきがなされて、聖師による楽焼づくりも多忙のなかをさいて熱心におこなわれた。

〈作品展と宗教博〉 宣教のうえにおいても、芸術運動を中心に新生面がひらかれていった。そのひとつに作品展と宗教博覧会とがある。これは聖師の書や画(神像・観音・だるま・山水・諷刺画・戯画)ならびに楽焼、さらに大本出版物その他を陳列して、聖師の一面を紹介したものである。
 一九二九(昭和四)年の四月三日から五日間、金沢市で最初の作品展がひらかれた。これには、美術工芸の専門家をふくめて二〇〇〇人ばかりの入場者があった。この作品展はきわめて好評であり、その作品によって聖師の偉大さにふれ、参綾を約する人もあらわれてきた。ついで五月一一日から三日間、名古屋市でも開催され、八〇〇人が入場した。翌一九三〇(昭和五)年の一月には、大阪の白木屋百貨店で作品展がひらかれて、大場者は一万七〇〇〇人にもたっした。これについては、「昭和五年新春の大都市へ進出の第一歩として、まことに劃期的の大成功であった」と記されている。さらに二月一一日から一週間にわたって、東京の上野美術館で作品展が開催された。期間中の四日間だけでも入場者は一万六八〇〇人であった。
 人類愛善会でも、運動推進のためにこの作品展を採用した。また「人類愛善新聞」の付録として、「総裁紹介号」本紙二頁大のものが発行され、一九二九(昭和四)年の一〇月一五日から約二ヵ月間にわたって、作品展が全国の各都市で開催されることになった。そしてあわせて講演会または座談会もひらかれていった。その主要な開催地は、京都・豊橋・名古屋・浜松・見附・静岡・清水・藤枝・焼津・伊豆・甲府・上田・姫路・岡山・津山・倉敷・福山・広島・園部・八木の二〇ヵ所であった。その開催日数は延五七日におよび、入場者の総計は二万九八六三人にたっしている。
 一九三〇(昭和五)年の三月八日から五月六日までの二ヵ月間には、京都市岡崎公園で宗教博覧会が開催された。京都を中心とする文化団体の日本歴史会(理事長里見新三郎―京都市議)が主催し、後援には京都市が、協賛には知恩院がそれぞれ名をつらねている。この宗教博覧会には、日本歴史会理事永末明・知恩院庶務部長寺西聴学から懇請があり、大本も参加出品することになったのである。
 この博覧会は参加各宗教の力量の示しどころでもあった。大本を異色の宗教とみていた既成宗教は場所の割当てに相当の圧力を加えてきた。そのため主催者側は、もっとも人目を引く本館入口に敷地を提供したので、「大本館」を特設することになった。会期にまにあわすため昼夜兼行の工作となったが、京都在住の信者などの献身協力によって、みごとに完成された。開催準備については出口宇知麿が委員長、補に御田村と岩田があたり、大国が連絡交渉と建設の主任となった。会場の説明などには地方から上洛してきた信者の青年・女子が奉仕した。多忙のなかを聖師はたびたび会場を巡覧して指図し、期間中にもつぎつぎと数多くの染筆をして書画のかけかえを指示したり、模様がえなどについてもいろいろと配慮された。
 入場者は開催中順次増加して、開花時の四月一日には一万三三四一人、六日の日曜日には一万八三七八人となり、そして二万をこえる日も少なくなかった。入場者の多数が、これによって大本を再認識し、聖師の偉大さにふれて、七回、八回と観覧にやってくる人もあった。大本館は、既成宗教に伍してすこしの遜色がなかったばかりでなく、他の宗教は極楽館や地獄館をおいて大衆の目をひいたりしたが、教義上あるいは歴史上に独自の特異点を充分に発揮したものはまれで、一般的にもの足らなさがあったにひきかえ、大本館では、大本の沿革・教義をはじめ、国境をこえた人類愛善会の活動や、中国道院・世界紅卍字会との提携を示して、当時最大の問題であった「日支親善」を指示するとともに、他方、聖師揮毫の風景・神像・戯画などの作品を陳列し、さらに明光運動を紹介し、即席楽焼所をもうけたりしたことなど、多彩で新鮮さがあって、参観者に多大の感銘をあたえた。
 「中外日報」は「宗博で既成宗教を蹴とはした大本」とか「宗教博で羽を拡げる大本教」とかのみだしをつけて、宗教博で大本教はひとり舞台の勝利をおさめたとも評している。
 また主催者か編纂した『宗教博覧会誌』にもつぎのように評されている。「大本教の外進出の状況は一般世人の夢想せざりしところたるが、足一歩本館へ踏入れて英、仏、独、支那語及びエスペラント語に飜訳せられたる夥しきパンフレットを見れば、同教教義は既に世界的に宣揚せられつつあるを知る。加之その宣伝使の分布活躍の状況、及び相提携の世界各派団体の状勢を眼前に展示せられて、更に一驚を禁じ得ざるものあり」といい、「開会六十日の間に於ける大本館の活躍は実に目覚しきものありたり。当初大本教は宗教界の惑星として斯界に於ても、宗教的存在を拒否せられ、又一般社会よりは邪教と推断せられ、之を信ずる者は異端者の群の如く思惟憶測せらるるの状況なりき、……この六十日間の努力はやがて莫大なる収穫となり、大本の道を広め深むる淵源となるべし」とのべているほどである。
 宗教溥への参加によって予想以上の成果がおさめられたので、このあとはさらに作品展に力をいれることとなり、この年の九月から一〇班を編成して、台湾・沖縄・朝鮮にいたるまで作品展による巡回がつづけられた。なお翌一九三一(昭和六)年には、二月二九日より四月七日まで、作品展とあわせて大本講演会が、台湾の各地でおこなわれ好評であったが、とくに台北では一万人、台南では一万六〇〇〇人の入場者があった。また五月二六日から七日間、戸畑の公会堂でも作品展が開催され、九三六四人にのぼる入場者をみるなど、多大の反響をよんでいった。
 宗教博や作品展によって、講演会にはあつまらない人々や、かねて大本をきらっていた人々なども会場にのぞみ、そのほかあらゆる階層や年令層の人々が参観して、聖師や大本にたいする認識をあらたにしたことはいうまでもない。と同時に信者としても、社会のこうした反応にますます自信をふかめ、宣教意欲がいちだんともりあがっていった。また開催にあたって、その地域ごとに全信者が動員されて、協力したことも、これ以後における団体的活動をうながしてゆく訓練の場ともなり、隣接地域との交流もふかめられて、その成果は内外ともにおおきなものがあった。

〔写真〕
○聖師筆 p57
○月光と月明とをあわせて明光と改題された p58
○明光社 〝文芸の都を開き万民和楽の天国を建設す〟規約第3条 p61
○全国各俎でひらかれた聖師の作品展は社会の注目をあつめた 松江 p63
○宗教博での大本館は他宗教のなかにあって異彩をはなった 京都 p65
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