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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第2章 >1 満州事変と大本よみ(新仮名遣い)
文献名3人類愛善と青年の動きよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-03-10 11:58:17
ページ89 目次メモ
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本文  一九三一(昭和六)年五月一八日、東京の日本青年館で、日本宗教平和会議が開催された。この会議は翌年ワシントンで開かれる世界宗教平和会議にたいする日本の提案議題を決定するためのものであった。その議案は、「如何にせば宗教が人類に奉仕し得べきか。如何にせば人類社会から悲惨な戦争を絶滅せしめて、この地上に永遠の平和が招来されるであらうか」であった。大本は栗原白嶺を派遣して、大本のステートメントを発表させた。その内容を要約するとつぎのとおりである。「五ヶ年にわたる欧州の大戦乱─愛と無抵抗をモットーとする基督教国に於て─各国が疲弊困憊の極、闘争ができなくなるまで、戦争を阻止しえなかったことは宗教の無力と不権威とを暴露したものである。吾々宗教家としての当面の問題は、人類世界の闘争を阻止し、永遠の平和を招来せしむるにある。そのためには、人類に消極的小善を勧むるにあくせくするよりも、宗教家が団結して、この地上からサタン及びその使徒たる闘争主義者並びに不正主義の徒を一掃せしむるにある。その方法の第一手段として、国際連盟、ことに軍縮会議の徹底的促進、非人道的野望をとげんためにするミリタリズムを人類の圏外に放逐せしむるにある」。以上の主張に立って、「一、宗教的障壁の撤廃 二、惟神の大道(天理人道の真理)帰一 三、世界各宗教の提携連盟 四、経世家および為政者に対する宗教的リード 五、国際連盟への鞭撻」の五項目を提案した。
 ところが日本神道側の代表であった筧克彦や沢田五郎らは、「戦争は原則的に罪悪である」という大本の主張にまっこうから反対して激論となった。彼等の反対理由は、「日本の天皇が宣戦をおこなった場合は、それは正義の戦争である。したがって日本の戦争行為は罪悪ではない」という立場に立つものであった。日本の戦争行為は正義であり神聖であるという思想は、当時の国体観にもとづく天皇神聖の神道思想であって、軍部はもちろん右翼団体、また一般国民のなかにも相当に浸透していた観念であった。しかし他方、人種・宗教などの差別を超越し、人類は神のもとに平等で、戦争は罪悪であるという人類愛善の世界性に同調するものもあった。日本宗教平和会議では、大本の主張はついにいれられなかったが、その後、人類愛善の主張に共鳴するものがしだいに増加し、人類愛善運動は全国的に伸びていった。
 国内における人類愛善会の活動は、「人類愛善新聞」によってつづけられた。そして購読者も社会の各階層にのびていった。昭和六年六月七日、人類愛善新聞京都支社の主催で、一二輛連結の臨時列車をしたて、一〇〇〇余人の年ぎめ購読者を亀岡天恩郷へ招待した。購読者たちは聖師に面会したのち、大道場で愛善講話をきき、読者大会を開いて愛善運動をもりあげる決議をおこなって気勢をあげた。一方外では、ドイツのフランクフルト大学に、日本文化講座が開設されることとなり、大本および人類愛善会の出版物を寄贈してほしいとの依頼があり、四月一四日には、ロシア(現在のソ連)の全露新神霊協会(一九二五─大正一四年創立)の会員約五〇〇〇人が人類愛善会に集団入会するとの申込みがきた。これよりさき、キエフ市の市立博物館に、大本・人類愛善会の資料展示室がつくられて、人類愛善会関係の資料が保存されることになった。
 このようにソ連からも大本・人類愛善会が注目されはじめたころ、六月の七日には、京都の岡崎公会堂で、「中外日報」の後援、亀岡昭和青年会の主催によって反宗教運動批判講演会が開催され、二〇〇〇余人の聴衆が集まった。講師は大谷大学の山辺習学・臨済宗大学の奥江順徳・大本宣伝使の筧清澄・日本基督教会の日高善一らが宗教者の側にたち、反宗教の側からは大原社会問題研究所の越智道順が出席した。司会をつとめたのは大本の成瀬言彦である。越智は「……募財によって存在する宗教、プロ解放の障害をなす宗教なるものは地上より一掃すべし」と講演したが、これにたいし宗教側は、それぞれの立場から反論した。この催しは既成宗教にたいする反省と警告の一矢でもあったが、これを主催した昭和青年会の存在は、この会合によって大いに注目されることとなった。
 亀岡昭和青年会が成立したのは一九二九(昭和四)年初めのことで、伊藤栄蔵・林英春・大崎勝夫・瀬尾晶彦・佐藤美知・塩見勇治らが創立に加わり、聖師によって「昭和青年会」と命名された。当初は、青年奉仕者の親睦と奉仕活動に力をそそぎ、教義の研鑚と、信仰の向上を目標とした性格のものであった。組織としては統務部・雑誌部・弁論部などがあり、一応の組織体制が整えられたが、まだ実際には青年雄弁会を開催するくらいのものであった。亀岡に青年の組織が生れたのをきっかけに、松江・東京・綾部・松山・京都など、つぎつぎとその地名を冠した青年会が誕生した。そして一九三〇(昭和五)年一一月二五日の大本秋季大祭を期して初の全国大会がもたれ、地方の青年会からは五〇人が出席した。それからは大本の大祭ごとに全国的な青年雄弁大会が開かれるようになり、また地方でも地域の青年団と合同して雄弁大会がもよおされるようになった。こうして全国的にしだいに昭和青年会の名が喧伝されだした。昭和青年会としての雑誌の発行は昭和五年五月からで、最初はガリ版刷りの粗末なものであったが、三号目から聖師の資金補助で「昭和青年」という題名で印刷出版されるようになった。その内容は文化的なもので、「宗教とマルキシズム・私の離脱に対する批難に答へて」(今東光)のような論文もあれば、創作詩歌や「文壇内輪話」のようなものもあって、当時さかんであった明光運動の影響を、たぶんにうけていたのである。
 ちょうどそのころ、ジュネーブの国際連盟において「改暦」の問題がおこり、欧州各国においてさかんに改暦案が発表された。改暦については聖師はつぎのような意見を発表していた(『月鏡』)。

王仁はこの改暦についてはとうから一つの案をもつてゐるので、明治三十一年に其大意は既に発表しておいた国際連盟が持つ三案中、第一、第二は十ニケ月案にして、第三案は十三ヶ月案であるが、王仁のは全然これ等と異なる十ヶ月案である。先づ一ヶ月を三十五日と定める。之を週に割り当てると五週となる。第三案の如く之で曜日は永遠に確立する訳である。神の道から云ふと、三五即ちあななひ教に因縁をもつ。三五教は天地惟神の大道である。三十六日目はミロクの教であるから、此日は週に加へず祭日とする。隔月に三十七日目をもつ訳であるが、其日は閑日と称して言論自由の日とする。恰も霊界物語中にある「笑ひの座」の如く其日は如何なる人が如何なる言論をなすとも自由であって、何等の制裁をも受けない事にする。四年毎に一日の閑日をもつが、それは一年の終りに加ふる事にする。そして節分の翌日即ち立春の日を一月元旦とするのである。祭日は一月を第一祭日、二月を第二祭日と云ふが如く順次に称ふ。閑日も第一閑日、第二閑日と順に称ふるのである。十ヶ月に分けるのは十は数の上に於ても形の上に於ても神の象徴であり、緯度と経度の関係から見ても十字形である。

 改暦問題はその後国際紛争の問題がやかましくなり、そのまま立ち消えとなったが、聖師の改暦案は特異のものとしてかなり注目された。

〔写真〕
○昭和6年9月8日教碑が本宮山に建てられた p89
○日本宗教平和会議 東京 日本青年館 p90
○ソ連のキエフ市にも大本の展示室が設けられた p91
○昭和 昭和7年12月から改題された p92
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