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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第4章 >1 巡教よみ(新仮名遣い)
文献名3日出麿師の宣教と教化よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ波の上主会(波上主会) データ凡例 データ最終更新日2024-06-03 12:02:41
ページ220 目次メモ
OBC B195402c5412
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本文  一九三二(昭和七)年一月三一日、総統補の日出麿師は丹波の口大野・峰山支部等を巡教し、三月二日からは東京を拠点として豊玉・芝・大成・麹町、福島県の白河・郡山・平、千葉県の瑞月各支部などを巡教した。四月二四日、出水・長野両特派宣伝使を随行として九州別院春季大祭にのぞんだ。それより佐賀県に入り鹿島分所・武雄支部をへて五丁田村の大本筑紫分社ならびに瑞雲大竜神の鎮座祭に臨席しこの分社の山を瑞雲山と命名した。ついで真明支部・三六分院や佐世保から多比良支部をへて筑紫別院につき英彦神社に参拝した。ひきつづき五月六日には石田特派を随行として壱岐にわたり、壱岐南部・坪・香椎・有安の各支部をへて、一〇日壱岐南部支部にかえり信者大会にのぞんだ。ついで同日対馬にわたって、対州分所につき、一一日南室の別院敷地を検分した。一七日まで洲藻・鶏鳴・根緒・三根・佐賀の各支部を巡教したが、この間モーター船と駕籠による強行軍であった。一九日福岡にかえり宗像神社に参拝後、二二日筑紫別院の開院式に参列した。五月二三日には山県猛彦を随行として関釜連絡船で釜山にむかい、二五日に奉天の満州別院にはいった。そして八月六日綾部へ帰着するまでの間は、満鉄沿線の各地を巡教した。その間にラマ教と人類愛善会の正式提携をおこない、六月一八日奉天でラマ各寺の代表四〇余人と懇談した。
 八月二〇日には竹田町愛善郷の視察をおこなって同町主催の時局講演会で講演をした。二二日東京に入り、「人類愛善新聞」に寄稿している加藤朝鳥・室伏高信・倉田百三・小川未明・布利秋等との座談会に出席、二七日に紫雲郷別院における更生会信者総会および昭和青年会愛信連合総会で訓話し、さらに満蒙時局座談会にのぞんだ。二八日、総統補は直日夫人・直美・麻子の家族を同伴し、田中特派を随行として北海道に出発、三〇日に北海別院につき、三一日より九月二日まで別院で講話がなされた。五日聖師の神生歌碑除幕式には直日夫人と列席した。一一日から総統補は釧路・根室・幌内地方における霜害・水害などによる凶作地域を視察し、窮民児童に就学資金をおくったり、あるいは信者の有志にはかって物資を調達しトラックで急送して慰問をおこなったりした。また田中特派に命じて軍隊の慰問袋募集を中止させ、凶作地や水害地の救済に努力させるよう指示をし東奔西走した。その間各支部を巡教して信者に教説し、九月四日には北海道を辞して一〇日に亀岡に帰着した。
 一〇月一一日総統補は東京につき、一五日に日本エスペラント大会に出席し、二四日には大日本武道宣揚会の幹事会に出席して植芝道煬のけいこ始めをおこない、二七日には亀岡にかえった。ついで一一月七日より一二日まで奥丹地方の各支部を巡教した。二〇日栃木県岩間の瑞雲郷分院の開院式にのぞみ、ひきつづき県下の各支部を巡教した。一二月一日直日夫人・直美・麻子をともない岡山県瀬戸支部に入り、一一日には倉敷の生家にたちより、一二日に亀岡にかえった。
 一二月一三日、伊藤・上村照彦を随行として波の上主会の巡教に旅だち、奄美大島で昭和八年の新年をむかえ一月九日まで奄美大島や沖縄各島をもれなく宣教した。交通の便がわるいため、船・馬・徒歩による難行軍であったが、この間にたちよった分所・支部は三〇、おこなった公開講演会は三〇回にもたっしている。未信者を対象にした座談会を毎夜のごとくおこない、大神奉斎者が続出したため、一〇〇体のご神号を指書してさげたほどである。また一九日には喜界島の宮原山にたてられた聖師の歌碑除幕式に参列し、帰途種子島や鹿児島・熊本・福岡各県下を巡教して一月一九日亀岡にかえった。さらに二月八日には京都の各支部を巡教して、九日大阪分院に入り、一二日帰亀し、ついで三月六日に埼玉県下の巡教にたち、一七日亀岡にかえった。
 一九三三(昭和八)年四月一七日、総統補は伊藤・深水静を随行として上海に出発した。上海では「上海日日新聞」・「上海毎日新聞」などが大きく報道した。二四日までは世界紅卍字会の歓迎会に出席したり、領事館・警察・居留民団本部・各新聞社の訪問や招待会などのためその日程は多忙をきわめた。上海はエスペラントがさかんであったので、伊藤が中心となって定期的に講習会をおこなった結果、エスペランチストとの交流が非常におおくなった。五月七日上海別院に大神の鎮祭をし、多数の来賓参列して開院式をおこなった。この機会に毎週二日の定期大本講座を別院でおこなうことにした。二一日に別院で上海事変日華両国犠牲者慰霊祭を執行し、出席した多数の官民・軍人・有志に感銘をあたえた。六月一六日に帰国の途につき、一八日佐世保分所についたが、二〇日には聖師の生母上田よね刀自の訃報にせっし二二日亀岡にかえった。七月五日、東京の人類愛善会亜細亜本部に入り、一三日には山梨県の巡教にたち、各支部をまわって一九日亀岡へかえった。なお一〇月二七日には聖師の代理として神島に参拝し祭典をおこなったのち神域に藤を手植した。一二月には神刕別院・島根別院・由良分院・昭和分院の各秋季大祭に参列している。
 一九三四(昭和九)年一月二五日から兵庫県の各支部を巡教し、三一日帰着した。三月一一日から一五日まで名古屋へ、同月一八日から二五日まで和歌山県下を、ついで四月二三日から二六日まで但馬地区を巡教した。二八日岡山県倉敷市の生家に入り、三〇日聖師・二代教主を同家にむかえ、五月一日には中国別院開院式にのぞんでいる。同月六日神刕別院、七日には島根別院の各春季大祭に出席し、それより県下の各支部を巡教して一八日綾部へかえった。
 五月三〇日総統補は伊藤・藤原を随行にして満支巡教の旅にたち、六月二日に満州別院にはいった。いずれの地にいっても、大本の支部はもちろん世界紅卍字会の支部、在理・在家裡などの公所やラマ寺などからも歓迎され、道教・回教・仏教等の代表との会談、満州国政府の要人や有力者の面接で多忙をきわめた。三〇日には聖師がパインタラで遭難した満十周年目にあたるので、同地に入った。鴻賓館はすでになく世界紅卍字会に宿泊、騎兵旅団跡で遭難慰霊祭を執行した。また愛善県とまで称される法庫県では、総統補の宿舎に昼夜護衛のため歩哨か立ち、警備隊はラッパ吹奏や捧げ銃の敬礼をおこなうなど、全県あげての歡送迎ぶりであった。七月一五日まで満鉄沿線をはじめ、北満から奉吉線・東辺道一帯、さらに錦県などあますところなく巡教し、一六日に天津にはいった。天津でも人類愛善会・世界紅卍字会および一心天道竜華聖道会の会員ら多数と面談した。二六日には大連につき、満鉄本社をおとずれて八田副総裁などと面談し、八月一日に奉天にひきかえした。四日には万国道徳会奉天総分会の総会および歓迎会にのぞんだ。ちょうど同会創立者王善人が奉天に巡教してきていたので、このさい両会提携の基礎をつくりたいというので臨時に総会が開催されたのである。万国道徳会は、清の末山東省におこり、儒教・道教・回教・仏教・耶蘇教の五教の教をもととして人類愛を根本義とし、東洋の精神文明をもって西洋の物質文明の欠陥をおぎなうという目的をもつものである。六日帰途についたが、人類愛善会・世界紅卍字会連合の総会で、総統補は「初等教育の普及を図ること、官民協力して道路を改修し交通の便を拓くこと、戸籍を明かにすること、工業の発達を促し生活必需物資の自給流通を図ること」に力をそそぐよう希望している。七日南満の温泉郷五竜背の支部に泊り、二ヵ月余にわたる満支の巡教をおえ、安東をへて九日朝鮮にはいった。朝鮮では新義州・平壌・京城・春川・仁川・大田・釜山の各地をまわり一五日下関に上陸、一六日山口県の岡枝分院開院式に参列して一八日綾部にかえった。なお、九月二日には万国道徳会と、一〇月七日には世界大同仏教会と正式に人類愛善会との提携書が交換されている。
 一一月一三日、中国別院秋季大祭に出席した総統補の一行は、落合支部から中国山脈をこえ島根別院・地恩郷別院・神刕別院の各秋季大祭にのぞんで二四日綾部にかえった。ついで一二月一四日人類愛善会朝鮮本部発会式のため、高木・伊藤を随行として京城に入り、発会式をおわって二二日には亀岡にかえった。
 すでにこのころは昭和神聖会の運動が活発になっていた。そのため総統補は教団本部の用務にいそがしく、翌年四月中旬頃までは地方への出張は中止していた。
 一九三五(昭和一〇)年四月二〇日、中国別院春季大祭に参列して、二一日に熊山にのぼり、さらに静岡県にむかい、二四日有終分院開院式に参列し、各支部を巡教して五月二日に綾部へかえった。六月九日奥丹の巡教にたち一三日綾部へかえり、七月八日には四国巡教のため伊藤を随行として出発、高知・徳島・香川・愛媛各県の各分所支部四三ヵ所を巡教した。昭和五年以来五年ぶりであった。九月八日鳥取県下巡教のため伊藤をともない、一一日間にわたって因幡・東伯の二八支部をまわり、ひきつづき二二日から九州にわたって、福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・宮崎・大分県下三四ヵ所の別院・分所・支部を巡教、全九州を一周して一〇月二三日亀岡にかえった。この間二〇日には大分県速見郡中山香村にたちより聖師歌碑の除幕式に臨席している。
 一一月九日に神刕別院の秋季大祭に臨席したあと、別院を拠点として鳥取県西伯連合会管下の各支部を巡教した。一三日には法勝寺焼の窯元にたちよって作陶にもいそしんでいる。二〇日に綾部にかえったが、これが最後の巡教となった。
 日出麿師は巡教した先々の歴史や神縁のゆかりなどを例証として霊的現象をとき、「祈りつつ、為しつつ、省みつつ、覚りつつという四階梯をくり返すこと。祈らねば内流がない、為さねば力がつかぬ、省みなければ覚れない。今日の祈りは昨日のそれより徹底し向上してゐなければならぬ」と、人の内分の向上を社会事象と関連させて平易にしかも簡明にさとした。またみずから二六時中霊感に感応する諸霊を言向けやわして安定させた。したがって病気のお取次ぎをこうものがおおく、また書画の揮毫をもとめるものもすくなくなかった。真剣でものやさしい態度とすぐれた霊能者であるところから、行く先々で信者はもちろん一般の人々たちからもしたわれて、その宣教活動と教化の効果にはめざましいものがあった。

〔写真〕
○人類愛善新聞に寄稿の文芸家座談会 前列左2人目から布利秋 出口日出麿 小川未明 倉田百三 室伏高信 加藤朝鳥 p220
○出口日出麿総統補の巡教は精力的につづけられた 沖縄県那覇公会堂 222
○聖師入蒙の当時をしのび犠牲者の霊をなぐさめた 10年をへたパインタラは荒れはてていた p223
○出口日出麿師筆 p225
○信者にかこまれて 中央の・椅子姿は出口日出麿夫妻 北海道 函館分所 p226
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