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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第4章 >2 教団の充実
文献名3文書宣伝
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2017-10-15 16:50:55
OBC B195402c5423
本文の文字数7207
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本文  大本の文書宣伝においてもっとも重要な機関となったのは天声社である。一九三一(昭和六)年の六月四日亀岡天恩郷にあらたに建設工事をはじめた天声社工場は、一二月二二日に完成式をあげ、翌七年二月二日綾部第二工場の移転を完了した。この工場はその設備において山陰随一としようせられ、印刷工業組合からは、一般工場を圧迫するものとして組合の調査委員が視察にきたほどである。昭和八年八月には、明光社に所属していた智照館(写真部)および明鏡館(銅版部)が天声社に移管された。天声社の建物は建坪約四〇〇坪で、印刷工場四棟・倉庫二棟・智照館一棟・明鏡館一棟、機械設備としては、菊判(A5判)三二頁掛輪転機一台、活版印刷機として、菊判一六頁掛三台・四六判(B6判)一六頁掛三台・菊判八頁掛一台・四六判八頁掛三台・四六判四頁掛三台、ビクトリヤ型一台、四六全断截機三台、製本針金綴機二台・製本糸綴機一台、活字鋳造機五台、紙型機一台、・鉛版機二台、自動研磨機一台で、従業員は一〇七人(昭和一〇年現在)であった。
 定期刊行物のうち「真如の光」は、昭和八年五月より旬刊を週刊にし、A5判をB5判に変更した。「昭和青年」(月刊)は昭和七年一二月号より「昭和」と改題し、昭和坤生会が発会してからは女性向きの記事をかなり掲載することになった。エス文「国際大本」(月刊)は欧州本部で発刊されていたが、西村特派の帰国後、国内で発行していたエス文「OOMOTO」と合併し、内容を充実して増頁しB5判とした。ローマ字「言葉の光」(月刊)は昭和六年七月より「日本とアメリカ」と改題、B5判四四頁建てとして発行したが、昭和八年四月号から「日本」と改題した。その他月刊誌の「神の国」「瑞祥新聞」「明光」エス文「緑の世界」は順調に拡張されていた。とくに注目すべきことは、「神の国」「瑞祥新聞」には、昭和七、八年ごろから時局を反映して、しだいに神諭の掲載分量がおおくなってゆくことであった。
 不定期刊行物としては『霊界物語』がひきつづき再版されていたが、一九三三(昭和八)年一一月からは『天祥地瑞』の九巻までが出版された(五編三章)。昭和九年五月六日には『出口王仁三郎全集』が東京の万有社から出版された。それは全八巻でB6判一冊六〇〇余頁のものである。時局を反映して再び皇道論がさかんになってきたので、平凡社の下中弥三郎が企画し、日出麿総統補が責任編集の衝にあたった。万有社が実際に発行したのは第四巻までで、その後は天声社が万有社の名義で印刷し発行している。予約による第一回の配本は一万二六〇〇部であった。『王仁文庫』は大正年代に出版されて以来絶版になっていたが、これもまた時局の関係から要望されて、『随感録』『皇道大意』『記紀解説』が再刊され、また別に聖師の教説をあつめて『惟抻の道』が発行された。
 一九二八(昭和三)年三月以降、おもにもちいられていた出版物を左にあげておこう。

―、書籍・パンフレット
○ 出口王仁三郎著─霊界物語(霊主体従第一巻~一二・如意宝珠一三~二四・洋万里二五~三六・舎身活躍三七~四八・真善美愛四九~六〇・山河草木六一~七二・天祥地瑞七三~八一巻)、出口王仁三郎全集(皇道編・宗教教育編・霊界物語編上・霊界物語編下・言霊解・入蒙記・歌集・我が半生の記)、王仁文庫(皇道我観・国教論集・瑞能神歌・記紀真解・道の大原・多満の礎・記紀真釈・八面鉾・道の大本・五色草・随感録・皇道大意・記紀解説)、歌集(花明山・彗星・故山の夢・霞の奥・東の光・霧の・白童子・青嵐・公孫樹・浪の音・山と)、歌日記(二名日記一巻・東北日記八巻・日月日記一三巻・庚午日記一一巻・更生日記一二巻・壬申日記八巻)、如是我聞(水鏡・月鏡・玉鏡)、霊の礎、道の茱、道の大本、大本宣伝歌、祝詞略解、惟神の道、エス和作歌辞典
○ 出口日出麿著─ひとかかし、信仰雑話、信仰叢話
○ 昭和青年会編─神聖運動、神示の国防、挙国制空、皇道の栞、皇道宣揚、神示と世相
○ 昭和神聖会編─祭政一致の大道、皇道経済我観、華府条約を即時廃棄せよ、軍縮問題と米国の対日策戦、万人が心から喜ぶ政治、統管随筆─二巻、皇道維新と経綸、愛善陸稲耕作法
○ 人類愛善会編─我等の運動、人類最高の理想運動、愛善の世界へ、人類愛善運動、挙国更生運動
○ エス文─大本の大要、大本及び人類愛善会の概要、実用エスペラント会話、基本エスペラント講座、日本エスペラント住所録
○ ローマ字文─四季詩鴿、へちまのねごと、大本祝詞
○ その他─皇道大本祭式、善言美詞、おかげばなし、讃美歌、大本略史、大本開祖伝、大本の出現とそのあかし、道院世界紅卍字会について、救世と皇道大本、信教宣伝使心得、大本概要、大本の話、皇道大本大要

2、写真・作品集
○ 皇道大本写真大観、王仁書画集、大本の面影、出口総裁歌碑集(一)、天恩郷修行記念写真集、かるた「百鏡」

3、雑誌・新聞
○ 雑誌─神の国、真如の光、瑞祥新聞、昭和、明光、神聖、エス文国際大本、エス文緑の世界、ローマ字日本
○ 新聞─旬刊人類愛善新聞、日刊北国夕刊新聞、日刊丹州特報、日刊東京毎夕新聞

〈新聞の経営〉 金沢市において発行していた「北国夕刊新聞」は一九二九(昭和四)年一一月以降直接大本の経営となり、一九三一(昭和六)年一一月からは「春は呼びかける」「空にとけ入る」の題名で聖師伝が連載され、また「天恩郷だより」「満州だより」等大本諸団体の活動を毎号掲載し大本色を強めていった。
 舞鶴市で発行されていた「丹州時報」が経営困難におちいったので、昭和六年一二月二九日臨時株主総会で解散を決議し、大株主の大本に経営を移譲した。翌七年二月八日、聖師が社主、出口宇知麿が社長となり、土井三郎を副社長としてひきつづき発行、地方新聞としては相当に拡張された。一九三五(昭和一〇)年四月一三日、宇知麿のあとをうけて萩原敏明が社長に就任し、経営を「人類愛善新聞」の傘下におさめた。
 「東京毎夕新聞」は一九三三(昭和八)年八月二九日、聖師が名誉社長に推挙され、出口宇知麿が最高顧問、御田村竜吉が理事として経営に参画し、人類愛善新聞記者が編集にたずさわるようになったので、事実上大本の機関新聞となった。同年一二月、御田村が副社長、河津雄が主幹に就任し、一九三五(昭和一〇)年五月には、完全に大本の経営になったので、人類愛善新聞社は東京毎夕社内に移転した。内務省の『出版警察概況』によると昭和一〇年に、「大阪朝日新聞」六三万五〇〇〇部、「読売新聞」五二万九〇〇〇部、「東京毎夕新聞」三六万部となっている。なお「東京毎夕新聞」は一八九九(明治三二)年に創刊され、当時「毎夕新聞」と称していたが、のち「千代田日報」と合流し、一九一〇(明治四三)年「東京毎夕新聞」と改題し、特色ある夕刊新聞として知られていた。
 一九二〇(大正九)年九月二五日以来、大本は「大正日日新聞」を発刊していたが(上巻二編三章)、第一次大本事件によって頓挫したため、聖師は一九二三(大正一二)年三月一日一切の権限を池沢原治郎に委任した。池沢は「大正日日新聞」の名義および設備・備品等の使用料を納めることなどの契約で米田誠夫に貸した。米田は大正一二年三月二八日より同紙を発行していたが契約を履行しなかったため、昭和七年二月に上野音次郎が委任をうけ、池沢への委任を解いた。上野は昭和七年四月一日、「大正日日新聞」の休刊の手続をとり、あらためて復刊する準備をすすめた。
 人類愛参会の機関紙である「人類愛善新聞」は旬刊として発行されていたが、ここにも時局の動向が反映されて昭和七年八月中旬号から皇道精神の啓発につとめる記事が掲載されるようになる。昭和九年三月には一〇〇万部発行を達成し、以後ひきつづき一〇〇万部維持のための活動がおこなわれた。昭和神聖会が創立してからは、同会の機関紙としての役割をもつようになり、昭和一〇年一〇月一日の創立十周年には世界二二ヵ国に頒布され、支社取扱所も三八五ヵ所にたっした。なお同年五月二二日には本社を、日本橋区人形町一ノ一四(東京毎夕新聞社屋)にうつした。
 大本の出版による文書宣伝活動は、つねに積極的でありまた活発であった。多方面にわたって企画され、つぎつぎに出版されたのでその反響もおおきかった。しかし、当時は出版法・新聞紙法によってその活動が法的に制約され、内務省警保局からはきびしい検閲をうけたのはいうまでもない。一例をあげれば、一九三二(昭和七)年二月には『瑞能神歌』が発禁処分をうけた。昭和九年一二月には『統管随筆』第二編と「真如の光」第三五〇号が発売禁止され、翌一〇年の一月「人類愛善新聞」二月上旬号の発売禁止(交渉の結果記事を削除し改訂版を発行)、六月の『皇道宣揚神聖編』の記事削除、同月『出口王仁三郎全集』の「言霊解」の記事削除とあいついでいる。その活動がいかに困難であったかが推察される。

〈青年の雄弁と音楽〉 亀岡天恩郷に青年会が結成されてから、教修活動の一環として雄弁の練磨が組織的におこなわれた。一九三〇(昭和五)年四月には昭和青年会主催で第一回南桑青年雄弁大会を亀岡公会堂で開催し、その後毎年定期的に開催した。昭和六年一〇月より昭和青年会本部に弁論部が設けられ、毎週平松・大国らが指導講師となり、月次祭後には雄弁会を公開するなどして雄弁の練磨、思想発表の修練につとめ、将来の宣伝活動にそなえた。同年一一月一三日第一回昭和青年会全国雄弁大会を天恩郷大祥殿に開催し、それより毎年大本の大祭ごとに開催した。昭和八年からは昭和坤生会と合同しておこなわれるようになり、女性の弁論もさかんになった。昭和九年八月二三日には、青年雄弁大会とあわせて全国少年雄弁大会をも開催した。この大会には各地の少年隊からえらばれた一一才から一四才までの少年が参加した。これに関連してふれるべきことは、日出麿師が宣教活動のさなかに童話をつくって発表し、少年育成に力をつくしていることである。こうした青年男女たちの雄弁修練の結果、大本の宣教活動はもちろん、愛国運動・神聖運動に際しての地方遊説班のメンバーとなって活動し、また防空展・皇道展・映画の説明にもくわわるようになった。
 第六回全国雄弁大会には、聖師は「誠の言、心、行の一致でなければならぬ。魂を先につくつて、自分が必ず行へるといふ自信のあることでなくては口に出してはならぬ。もし自分のできないことを公衆の前でしゃべったときには、それは大言となり、広言となり、虚言となるのである。……言葉は下手でも行詰っても、ほんたうの魂がそなはり、本当に実行力のある人のいふことは公衆をして感動せしむる力がある」とさとしている。
 一九三二(昭和七)年一一月一〇日、昭和青年会は音楽部をもうけた。音楽部の中に、シンフォニー・オーケストラ部(神楽)、コンサート・オーケストラ部(聖地における諸会合のため)、ブラスバンド部、(ハーモニカ・バンド部(昭和青年会の諸行事)、声楽部、作曲・編曲部をおき、「昭和青年会歌」「昭和坤生会歌」から、「昭和青年行進曲」「青年の歌」「青年神軍歌」「青年愛国歌」などを、レコードにも吹き込み、諸行事には必ず演奏された。そのほか「昭和の女性」「月の宮(ワルツ、タンゴ)」「気をつけろ」などがあり、いずれも聖師の作歌で音楽部の作曲演奏になったものである。
 聖師によるレコードは『霊界物語』の吹き込みがもっとも古く(上巻四編一章)、ついで「天津祝詞」「神言」「講演」があるが、みろく踊の音頭として「花明山節」「一ノ谷嫩軍記」「基本宣伝歌」「大本宣伝歌」などがある。明光社では、聖師作歌・美木行雄朗吟の「草枕」「神苑」があり、そのほか『霊界物語』の自由節では、宇知麿の「綾の聖地行」「霊界の旅」、森松代の「言霊の花」「此の物語」等があって、レコードによる宣伝の効果も大きかった。

〈映画・演劇・写真〉 昭和青年会では一九三二(昭和七)年三月から映画による積極的宣伝を採用し、本部に映画班を編成して地方を巡回させた。映画は教育文化に関するもの、愛国思想をもりこんだもの、国防・防空に関するもの、満州事変および満蒙における人類愛善会の活動に関するものなどであった。これにくわえて大本更生祭の実況、聖師の巡教、綾部・亀岡の聖地の実況等も紹介された。この映画班は三六班よりなっていたが、映画をみる機会にめぐまれない地方の農山村においては、小学校・青年団・婦人会等からの要望がおおかった。そのため大本の主会・連合会でもすすんで一六ミリ映写機を購入して、映画班を編成し管内を巡回するようになり、二〇数班が編成されて活動した。
 その後劇映画の制作にも本格的にとりくむこととなり、昭和神聖会は昭和一〇年六月一日東京多摩川に映画部玉川研究所を開設し、「皇軍と少女」を制作した。しかし八月に同所を閉鎖し、撮影については九月五日、亀岡天恩郷に映画神劇部が設置され、都制に大国・主事中山・映画部主任林英春・神劇部主任大国が担当した。
 一方聖師がみずから扮する「昭和の七福神」を八月二二日から撮影し、全二巻(約八〇〇呎)を完成した。七福神の蛭子は瑞泉郷、寿老人は光照殿、毘沙門天は明光殿、弁財天は月宮殿、福禄寿は春陽亭、大黒天は瑞月庵、布袋は透明殿で撮影したものである。映画部は神劇部と連携して聖師伝のうち「霊山修業」の撮影を一〇月八日から始め、曽我部村の法貴谷・犬飼で高熊山修業の場、天恩郷で神界旅行の場、小幡神社およびその附近で高熊山下山・生母との対面の場、小幡神社の裏山で十六神将の場、天恩郷透明殿で寺小屋の場、神島で冠島沓島開きの場、穴太や天恩郷で幼年時代のロケをおこない、一八〇〇呎のものを制作配給するまでに仕上げた。一一月九日には天恩郷東光苑国防館のとなりに映画撮影所を設置するため地鎮祭をおこなっている。
 『霊界物語』の神劇化は、一九二二(大正一一)年以降からなされ、本部の大祭や地方の大祭には信者の有志によって公演されていた。一九三二(昭和七)年一月七日には亀岡天恩郷に神劇研究会かつくられ、亀岡公会堂で「天国と地獄」を公演した。出演者はすべて天恩郷奉仕者で霊界物語拝読会の人々であった。その後、第二回公演として、「踏み違い」「恩愛の涙」、第三回公演として「春の光」などが大祭行事として上演されている。
 一九三五(昭和一〇)年八月一一日、神聖歌劇が公演された。聖師生誕祭の時であったので、大祥殿の外まで観衆があふれたほどである。上演されたのは『天祥地瑞』第一巻から脚色したもので三幕四場、第一景は「紫微天界」・第二景は「玉泉の月」・第三景は「神聖踊」となっており、聖師は天之峰火夫の神に扮して出演した。一〇月二八日皇道大本大祭行事の一つとして、第二回神聖歌劇が綾部の五六七殿で公演された。それは「紫微天界」(『天祥地瑞』子の巻第一章)・「竜の紫満」(午の巻第一~第六章)八場(湖中の怪・愛の追跡・救ひの船・離れ島・竜宮島・再会・相聞・池畔の遊び)である。聖師は「紫微天界」で天之峰火夫の神として出演し、「竜の紫満」では語部として全場面に出演した。二回とも聖師が脚色・演出したものであった。この神聖歌劇は地方としては一二月八日、松江の島根別院大祭にはじめて上演された。
 大本における写真頒布がさかんになったのは、一九二九(昭和四)年一〇月に智照館が完成してからである。大本参拝記念・大本行事の写真頒布はそれまでもおこなわれていたが、智照館の完成によって計画的におこなわれることになり、昭和六年二月二三日にはコロタイプ印刷工場が増設され、四月に大本時事写真頒布会がもうけられた。頒布会は会員制とし、大本の月々のできごと、開祖・聖師・教主の作品の複製、肖像の写真等が、毎月定期的に頒布され、昭和一〇年一〇月までには五六回におよんでいる。また聖師扮装の「昭和の七福神」は全国各支部にほとんど頒布された。昭和九年八月には『皇道大本写真大観』(コロタイプ印刷・写真二五七葉・一〇五頁・ヨコ三七×タテ二八センチ)、昭和一〇年八月には『王仁書画集』(コロタイプ印刷約七〇〇点・五〇〇余頁・タテ四二×ヨコ三〇センチ)が、それぞれ天声社で印刷のうえ発行された。これは信者以外の人々にも頒布されたが、限定出版であったので今日でも貴重な資料になっている。

〔写真〕
○大本大祭に10年ぶりで斎主をつとめられる出口王仁三郎聖師 綾部 鶴山 p239
○山陰随一を誇った天声社印刷工場の機械場 亀岡 天恩郷 p240
○東京日日新聞に掲載された全面広告 p241
○大本が経営した諸新聞 p243
○雄弁活動は宣教面に大きな成果をあげた 上は青年雄弁大会 下は全国少年雄弁大会 p245
○文書あり 雄弁あり 新聞あり そして映画が制作された 自作自演で現地ロケの上は神界旅行の場 下は十六神将の場 p247
○映画についで神聖歌劇が上演された p248
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