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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第1章 >1 弾圧の動機よみ(新仮名遣い)
文献名3弾圧の背景よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-07-25 18:52:34
ページ317 目次メモ
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本文  一九二七(昭和二)年五月一七日、六年余にわたった第一次大本事件は免訴になった。しかしながらこれによって、神諭のなかに不敬な個所があるという当局の疑惑が一掃されたのではない。京都府警察部が、依然として大本にたいする疑惑の念をいだいていたことはいなめない。免訴になったのちも、「官憲が殊更らに大本教を弾圧せんがために無根の事実を捏造したものであると吹聴、逆宣伝して教勢拡張の具に供してきたのである」(『古賀手記』)とする警察側の見方もあった。また一九二五(大正一四)年の第五十議会では、普通選挙法が通過するのと併行して治安維持法を定めて、「国体ヲ変革シ又私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的」とするいっさいの結社および運動を厳罰に処する態度をあきらかにした。一九二三(大正一二)年には全国一〇府県に特高警察がおかれて、思想問題にたいする取締りもいちだんときびしくなっていたが、昭和三年には全国に特高網がはりめぐらされて、政府の新興宗教にたいする弾圧政策もますます強化されてきた。第一次大本事件以後、いわゆる類似宗教にたいする取締りがはげしくなってきたのである。
 一九二八(昭和三)年四月四日には天理研究会が不敬罪で検挙されて、検挙者三八五人、うち起訴されたものは一九〇人におよんだ。一九三〇(昭和五)年には生長の家・創価教育学会(一九四六─昭和二一年創価学会と改称)ができたが、人道徳光教は、ひとのみちと名をあらためて教線を拡大し、霊友会(一九二三─大正一二年開教)の布教活動もだんだん活発となった。経済恐慌と社会不安を背景とする新興宗教のこうした活動が世人の関心をあつめていった。治安当局はあらだな対策を迫られつつあったのである。このような状況下に大本にたいする監視がゆるめられるはずはない。
 大本は第一次大本事件後は神諭の発表とはげしい立替え立直しの宣伝をさしひかえ、『霊界物語』を教典として、霊魂の向上改善に重点をおき、内面的な宗教活動をはじめていた。そのため当局は類似宗教として厄介視しながらも直接に弾圧することはできなかった。だが一九三一(昭和六)年、満州事変が勃発すると、にわかに大本および人類愛善会が満州において脚光をあび、時局に即応した活動が内外で展開されはじめた。ついで昭和青年会が皇道精神にたつ愛国団体として広汎にうごいた。当局の監視の眼がますます大本にむけられるようになる。この間の事情については、「警察協会雑誌」大本特輯号(昭和11・7、第四三四号)に掲載された内務省警保局保安課事務官補古賀強の手記『大本事件の真相に就て』(『古賀手記』)の中に見出すことができる。

昭和五、六年頃より我が国の社会情勢は急廻転して、国家主義思想擡頭の気運起るや、機を見るに敏なる王仁三郎は、直ちに従来の左翼的、社会主義的傾向を一擲して、皇道主義の仮面を掲げ、昭和青年会、昭和坤生会等を組織して国家主義運動の時流に投じ、更に昭和九年七月には昭和神聖会を組織して、旺に皇道政治、皇道外交を主張し、建替、建直の標語を「昭和維新の断行」に塗替へて、教勢拡張と大逆陰謀の煙幕たらしめたのである。然し乍ら彼が国家主義運動の波に乗じた事は、一面非常に巧智有効な手段ではあったが、他面に於ては今日の破滅を招く端緒とも為ったのである。即ち昭和青年会員等が集合して得意気に部隊教練、軍隊教練を行ひ始めた昭和七、八年頃より、京都府当局の警察眼は再び大本教の上に輝き始めたのである。宗教団体と軍隊教練……先づ容疑の第一点であらう。斯くて昭和青年会の行動調査方が秘かに各庁府県特高課宛に通報され、昭和神聖会の組織された当時に於ては、早くも今次の検挙を断行すべき大方針が内務省及京都府当局との間に確立したのである。「雉子も鳴かずば云云」と謂ふことがあるが、若し大本が穏しく京教の分野に留つてゐたならば、未だ特高警察の注意を引くこともなく、彼王仁三郎は当分聖師様でおさまつて居れたかも判らない。

 これは事件の性格を考えるのに有力な一つの資料である。すなわち満州事変を契機とし、日本国内外の情勢が急転して、国家主義の運動が台頭しだしたとき、大本の昭和青年会が組織を拡大して愛国団体の様相をととのえ、団体的訓練をはじめだしたため、当局は宗教の分野を逸脱した一種の国家主義団体とみなすようになった。そしてさらに昭和神聖会へと発展したころには、昭和青年会・昭和坤生会は、軍部と関係をふかめており、各種右翼団体と協力するもっとも有力な団体とみなされるにいたった。「昭和維新」の目標をかかげる軍部の革新派と結び、全国の諸団体を統一的にうごかすにたる潜在勢力をもつ団体と考えられてきたのである。
 このことは「大本教手入れの前後─右翼革命の資金ルート遮断─」(「信濃往来」昭和30・2)と題した当時の警保局長唐沢俊樹の手記(『唐沢手記』)によってもうかがうことができる。

その後、ひとのみち教を始めとして幾つかの所謂新興宗教が弾圧を食ったので大本教の手入れは宗教弾圧の皮切りをなすものであると信じこんでいるものが多いようだが、大本教の場合は決して宗教弾圧のためになされた手入れではなかったのである。当時私は警保局長として、当面の責任の地位にあり、直接采配を振っていたので、その間の事情には最も精通してきているわけであるが、新興宗教たる大本教そのものを弾圧しようなどという考えは毛頭なかったことを明言するものである。二・二六事件勃発の前夜ともいうべき時代的背景のなかで、京都綾部の大本教本部というよりも、出口王仁三郎が右翼と気脈を通じて果たした役割は蓋し想像を絶するものがあった。澎湃たる右翼革命の蠢動が露骨化し、どうにも手におえぬ情勢になっており、大本教を通じて広く全国の信者からすくいあげた浄財の巨額が、出口の手から右翼に流れ、これが軍資金になって、右翼の勢力は燎原の火のように延びて、やがて手のつけようがなくなることはかかりきっている。そこで右翼弾圧のために大本教手入れを断行することになったのである。……統帥権の蔭にかくれてわれ等の手の及ばぬ所で勝手気侭に振舞い、武力革命を呼号する右翼軍人と王仁三郎とが結びついて、大本教の豊かな資金が右翼に流れ、その陽動暗躍が重大事態を予想させるに充分なものがあったので、ついに意を決して起たざるを得なかったわけである。

 唐沢警保局長の手記は回想録であってその時の史料ではないが、そこではくどいほど出口王仁三郎と軍人・右翼の結びつきについてのべられていることか注意をひく。

当時満州には紅卍字教という一種の新興宗教が勢力を占めていた。その紅卍字教と連絡をつけて、満州進出を策したのが出口王仁三郎であった。国内では右翼並びに軍人と手を握って国家革命の機を醸しつつ大陸進出の野望を燃やして徐々に布石を固めていることが手にとるように私にはわかっていた。王仁三郎は、自ら統監(昭和神聖会統管)となって右翼思想中心の昭和神聖会を組織し、当時泣く子を黙らせるほどに羽振りをきかせていた黒龍会首領内田良平と王仁三郎の伜(出口伊佐男)を副統監に据え、九段の軍人会館で挙げたその発会式には多数の現役軍人も列席して盛大を極めたものだった。……具さに大本教と教主出口王仁三郎の動向を探り、右翼や軍部との接触情況を調査するにつれて、もはや一刻も放置できぬことが判ってきた。それというのも軍人右翼の動きは刻一刻尖鋭の度を増し、いつ重大事が突発を見るかわからぬまでに機の熟しきったことがよくわかるからである。事を企てる場合に先立つものは軍資金である。統帥権に立籠る現役軍人の行動については、いかに目に余るものがあるにしても、系統に属する上部が手を下さぬ限り、文官たる我等は一指も染めるわけには行かぬが、軍資金の迸出口をつきとめたからには、この面から軍人の暴挙を制約することは可能であるし、世論の反撃や、軍部の思惑などを気にしているべきときでないとの結論に達して……こうして大本教団からする右翼革命の軍資金ルートは一応遮断したのであるが、そのこと一つで軍人右翼の旺盛な革命意欲を抑圧する事など思いもよらぬほど、既に事態は急迫していた。……大本教の手入れも大体一段落ついたので、忘れもしない昭和十一年二月二十五日、大本教本部のある京都に全国の警察部長会議(特高課長会議)を招集し、私は大本教事件の全貌を説明するとともに、単なる不敬事件や宗教弾圧でない点を強調して、国家革命につながる重大事犯であることを示唆し、一般の誤解を解くよう善処すべき旨を訓示して翌日帰京したわけだが、すでにこの時は、二・二六事件が勃発していたのである。

 これを見ると、革新的思想をもつ軍人を極度に恐怖し、それら軍人と出口王仁三郎とは密接な関係があり、軍人らの資金のルートが大本であるとみなしていたことがわかる。その資金源を断つためにも大本を弾圧する必要があったというのである。
 この唐沢の手記は、第二次大本事件の性格を考えるうえでみのがせない文献である。「具さに大本教と教主出口王仁三郎の動向を探り、右翼や軍部との接触情況を調査するにつれて、もはや一刻も放置できぬことが判ってきた……軍人右翼の動きは刻一刻尖鋭の度を増し、いつ重大事が突発を見るかわがらぬまでに機が熟しきった」ため、その機先を制し、大本を弾圧することによって重大事を未然に防止しようとしたという。そして「大本教の場合決して宗教弾圧のためになされた手入れではなかった」ともいわれている。
 当時唐沢は、重臣・財閥および軍の統制派と内務新官僚らがつくっていた会(国維会─朝飯会)のメンバーであった。この会は天皇機関説を擁護し、国家革新の勢力を抑圧する人々の集まりであって、伊沢多喜男を中心に原田熊雄・木戸幸一・岡部長景・黒田長和・後藤文夫・唐沢俊樹・永田鉄山らと財閥らがくわわっていた会である。軍の統制には陸軍軍務局長永田鉄山があたり、民間団体の弾圧には唐沢があたって現状打破のうごきを封じこめる役割をになった。一九三四(昭和九)年七月八日に成立した岡田内閣の性格については、「支配層の勢力関係については現状維持をめざしながら、人民のあらゆる運動と思想に弾圧をくわえ、やがてファッショ体制をつくりだすための前提条件をつくりあげた点にあった」(信夫清三郎『現代政治史年表』)と評されているが、岡田内閣の内務大臣は後藤文夫であり、後藤直系の唐沢が警保局長、相川勝六が警保局保安課長になっている。その唐沢は、大本検挙直後の昭和一〇年一二月一三日、当時、元老西園寺公望の秘書役であった原田熊雄と内府秘書官長であった木戸幸一をたずね、大本検挙について報告をしているのである。そのことは、のちに引用する原田熊雄述の『西園寺公と政局』(いわゆる『原田日記』)にあきらかであり、また『木戸幸一日記』にも、「十二月十三日(金)晴……四時半、大臣官邸に於て大本教検挙の話を唐沢警保局長等より聴く。(なお、次の行には、「六時参内、天皇陛下御晩餐の御相伴を為す」の記事がある)」と記されている。大本弾圧の「政治的要請」が、元老・重臣など政界上層部とのふかいつながりのもとにおこなわれていることはあきらかであった。
 また内田良平が、昭和一二年七月一五日「おれの命も最後の日が迫った」として遺言したという記録には、「おれは先頃某大官に突き込んだところが、出口さんか宗教的力をもって昭和神聖会を起し、その力で政治を乗りとらうとした。宗教の力を利用して政治をやられては困る。これは何とかして滅さなければ大きな弊害が起るからと……これが本音だ、これが楽屋裏の叫びだ」とのべられているのも参考になる。第二次大本事件が、当時における国家権力の動揺とそれにもとづく政治的な弾圧として具体化してきた事情が、これらの記録からもよみとれるのである。

〔写真〕
○弾圧を予想した新聞紙面 p317
○完備した思想弾圧の体制 昭和10年 p318
○まず左翼系団体が治安維持法の犠牲にされた p319
○唐沢俊樹 p320
○弾圧にそなえ警察ではつねに決死隊を待機させていた p321
○大本の弾圧を強行した岡田内閣 p323
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