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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第1章 >2 検挙への準備よみ(新仮名遣い)
文献名3検挙の理由よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ354 目次メモ
OBC B195402c6121
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本文  このようにみてくると、当局が昭和神聖会の活発なうごきに恐怖し、「放置し得ざる」ものがあると断定して弾圧を決意した事情がほぼあきらかとなる。右翼団体を専門に調査していた内務省警保局の古賀強は「昭和神聖会の活動状況を見ていると一面軍部と手をにぎる気配が見えるのですね。現役将校の出入りが多い。……最初私達が調べなければならないと思ったのは、軍部とこうした右冀団体が結合してクーデターをやったらかなわない。二・二六事件や、五・一五事件のような非常事態が起きた場合、国家主義団体が呼応して立つということになると治安維持が困難になってくる。そこで軍部のクーデター計画を未然に防止するために、神聖会がどの程度まで軍部と連絡があるかを調査することになった」(「古賀談話」)と当時を回想して語っている。さきにのべた警保局長唐沢の手記といい、この古賀の談話といい、そのねらっていたものは同一である。ところがここに謎のような問題がある。第二次大本事件の真相が今日まであいまいもことして一般にのみこめないというのは、つぎのような理由もまたよこたわっているからである。
 第二次大本事件がおきた一九三五(昭和一〇)年一二月八日、唐沢は談話を発表し、「今度の検挙は大本教の教義中に不敬にわたるものありといふ断定に基づいてやつたもので、出口王仁三郎が最近大分政治的に乗り出してゐるとか、政界方面で押し出してゐるものがあるとかいふことをキツカケにやつたものではない。そんな政策的の意味は毫も含んでゐない。大正十年の検挙によつても有罪と処断されたのであるが、大赦の恩命に浴してゐる。然るにその後の出口一派のやり口をみるに、少しも第一次検挙当時と変らぬ不敬の言動を敢てしてゐるので、昨年あたりからひそかに内偵を進めて今回の検挙となつたのである。教義のうちに不敬の箇所ありといふので、未だ教義全体が然るか、その一部か、何とも言明できかねる。したがつて大本教そのものを禁止するか否かも言明の限りでない。昭和神聖会をやつたのは中心人物が相通じているからやつたまでで、神聖会そのものに手を下したのでない。あくまでも教義自体宗教そのものの剔抉が中心点だ。他の類似の大衆的宗教団体にまで及ぶか否かは今のところ考へてゐない」(「東京日日新聞」昭和10・12・8)といっている。この談話と、さきにのべた唐沢の手記とは全くことなっている。これでは検挙の理由は、昭和神聖会の「政治的行動と軍部の動きを封じこめるため」というのではなく、大本の教義そのものにたいする手入れであって、前掲の『唐沢手記』で「軍部の右翼による武力革命のまさにおこらんとするときに、大本は軍部の右翼と、内田良平などの率いている右翼と結託して、神聖会の活発なる活動を始めたから」とか、「大本教そのものを弾圧しようなどという考えは毛頭なかつたことを明言するものである」といっていることと矛盾する。しかし唐沢は、大本検挙直後の昭和一〇年一二月一三日、原田熊雄をたずねて、大本検挙につき「昭和神聖会の方は大日本生産党と関係があり、……政治家で少しでも色気があるやうなところには、さかんに手紙をやりとりしてをつて、その手紙が相当に出て来た」と語り、昭和神聖会活動にたいする関心のふかさをしめしているのである。
 このような唐沢の矛盾した言葉をあえてなさしめた理由はどこにあったのか。問題はその点からもみきわめられなければならない。唐沢はその手記のなかに、「世論の反撃や軍部の思惑」ということをのべているのが注意される。つまりそこでは資金源にしろ、運動上にしろ、大本と軍部及び右翼団体との間には、満州事変以来数年間の連携が現実に存在しており、治安上危険と見たから検挙したということになれば、軍部及び右翼団体は共同して政府にたいし猛烈な攻撃をはじめるのは必然となるので、その反撃のほこ先きをかわす必要が感ぜられていた。ことに岡田内閣は成立以来、軍部および民間右翼の攻撃にさらされ、昭和一〇年は天皇機関説問題で苦境にたたされていたのである。大本検挙が軍部および右翼にたいする政府の反動的政策であるとうけとられる結果となれば、反政府勢力は軍部・民間一体となって政府に迫るのはあきらかなことである。これでは治安維持の上から大問題であって、わるくすれば革新軍人の決起をうながすことになるかもしれない。そこでそういうおおきな摩擦を回避するためには、大本を擁護する口述をあたえないような理由をつくりあげなくてはならない。そのこともあって、大本の教義に不敬があり、第一次大本事件このかた査察をつづけていたが、確証をにぎったので教団そのものを検挙し、出口王仁三郎が統管として統率していた昭和神聖会をも弾圧するという方針にきりかえていった。すなわち大本は国体変革の意図を内蔵して、その手段として昭和神聖会をつくったのであるというように、検挙の理由をすりかえたのである。こうして軍部及び右翼団体の反撃のほこ先きを加わし、そのうえ「崇高無比ナル我ガ国体ト相容レザル言説」(昭和一〇年三月二三日衆議院での決議)を排除することが国家の任務となっているので、不敬不逞の教義をもつ大本を潰滅することは、当局としてはもっとも正当な行為であるとして、その検挙の目的を正当化し、軍部および右翼団体の反撃を封鎖したのである。
 また一面、昭和神聖会を潰滅させるには、検挙の材料となるべき証拠がにぎられなくてはならないが、合法的に運動していたため、証拠とするにたる材料がなかった。ただ地方の会員から得た流言程度の材料では弾圧の証拠としてはまだ不十分であった。そこで当局者は、昭和神聖会・昭和青年会という団体が、他の右翼団体とことなり、宗教的母体から出発した特殊性をもった団体であるという点に着目してゆくのである。
 「一面考えていくと国家主義団体だけれども、普通の国家主義団体とは毛色がかわっている。宗教的な国家主義団体だし、国家主義を標榜した宗教団体だ。そこで宗教をつかまえなければ昭和神聖会なり青年会、坤生会なりの実体や指導理念をつかむことはできない」(「古賀談話」)として、内務省は最初昭和神聖会に注目していたが、その母体である大本教団そのもの、その行動理念である大本教義そのものの全面的検討へむかったというのである。また第二次大本事件の背後に、軍部・右翼と内務省の対立、あるいは権力内部の矛盾がまつわりついていたことを見失なうわけにはいかないのである。「昭和九年の秋頃には既に大本は放置し得ざる邪教なりとの見極めがついたので、愈々之が具体的対策を考究することになつたが、偖之を如何に措置すべきやは大問題である。各庁府県の御努力に依つて信者等の断片的不穏言動は時々蒐まつて来るが、何れも事件としては直ちに検挙に着手するに足るものはない。大正十年事件の結果すら今日の有様となつて居るのである。信者三十万と称する大教団になり了つた大本に、迂闊に手を着けたら夫れこそ却つて彼等に口実を与へ、教勢拡張の手伝」を為すの結果に終ることは明瞭な事である。検挙する以上は教団の核心を完全に剔抉して、同教団を再び起つ能はざらしむるの確信がなくてはならない。種々協議を重ねて遂に京都府の大事業たる「大本刊行物一切の読破・検討」が最重要案として決定されたのであった」と古賀は手記しているが、この刊行物検討に着手したのは、京都府特高課が独自の立場からはじめたのではなく、内務省の指示をえたうえでのことであった。
 こうして、昭和九年のおわりから昭和一〇年のはじめにかけて、大本弾圧への体制は明確な形をとりはじめ、特高課長・思想検事・警察部長があいついで更迭され、検挙に必要な陣容がととのえられてきた。まず、京都府特高課長の杭迫軍二が昭和九年一一月一日に愛知県特高課長から転出してきた。杭迫はそのさい、内務省警保局から「大本教を研究せよ」と命じられたといっている(「杭迫談話」)。ついで小野謙三が同年一二月二六日に、大阪から京都地方裁判所検事局思想検事に着任したが、小野も同様の内命をうけたと語っている」(「小野談話」)。そして翌昭和一〇年一月一九日に、京都府警察部長に着任した薄田美朝も、着任に際して検挙の話が「ある程度あった」(「薄田談話」)といっている。
 そのころ各府県特高課は、昭和青年会にひきつづき昭和神聖会の調査にあたっていたが、いよいよ昭和一〇年一月下旬から、大本の「根本思想を究め全貌を明かにするために図書、新聞、雑誌其の他苟くも大本関係の出版物と認むべきものを極力蒐集する」(『杭迫日記』)ことにつとめだした。三月上旬にはいって、『霊界物語』『出口王仁三郎全集』『大本日記』その他約三〇〇冊の単行本、さらに「真如の光」「神の国」「瑞祥新聞」「人類愛善新聞」「神霊界」など一切の大本刊行物をことごとく入手し、「苟くも犯罪容疑の個所は不敬、不穏、医師法違反、風俗壊乱たるとを問はず、凡て之を摘記して之を印刷に附する」(『杭迫日記』)こととして同時にその作業をおこなうために警部補一人・巡査二人を補充した。こうして京都府特高課は、昭和一〇年三月上旬から極秘裡に、杭迫を中心に一〇人たらずの陣容で、本格的な調査を開始した。内務省では三月下旬、「ことを機密裡にはこび省内の目をカモフラージュする」ため、従来担当させていた右翼関係事務官吉垣寿一郎のかわりに左翼担当の事務官永野若松を配置し、その助手として右翼担当の古賀強の二人を専任大本係として配置した。このことは内務省のこの問題にたいする熱意のほどを示している。また大本検挙の事案が左冀担当にうつされたことは、当局が治安維持法によって大本を断罪する意図をこのころからもっていたことを示すものとして、きわめて重要である。刊行物検討の方針が決定され、杭迫・小野・永野・古賀の四人が中心になって大本教義の検討に着手した昭和一〇年三月下旬からは、本格的調査の体制が確立したのである。そして四月中旬薄田京都府警察部長は綾部の大本本部を視察し、六月には府下警察署長の大異動をおこない、特高はえぬきの五十嵐定七を綾部署長に、木下和雄を亀岡署長に選抜して内偵を強化した。大本検挙の準備は昭和神聖会問題に出発して、やがて大本教義の検討へと移行してゆくのである。そしてついに宗教弾圧の形態をとるにいたった。

〔写真〕
○古賀強 p354
○国体の護持 そのために幾百万の生命がうばわれたことか p357
○杭迫軍二 p358
○長野若松 薄田美朝 小野謙三 p359
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