文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第3章 >3 護教よみ(新仮名遣い)
文献名3宗教弾圧の強化よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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日中戦争の拡大とともに、宗教にたいする取締りもつぎつぎと強化されていった。宗教への弾圧は昭和一二年以降一段とはげしさをくわえるようになる。昭和一二年四月には、前年の九月に弾圧をうけたひとのみち教団がさらに神宮不敬罪で追起訴された。そして教団の設立許可を取消されたうえ、二八日には結社禁止を命令された。ついで一〇月二〇日には新興仏教青年同盟が検挙され、昭和一三年一一月二一日には大西愛治郎を中心とする天理本道(大阪府)・天理神之口明場所(根株天理教、名古屋)・三理三腹元(香川県)、翌一四年六月一日には天理三輪講(大阪府)などの天理教関係の各団体が、さらに六月二一日にはキリスト教系の日本燈台社(東京)がというように、つぎつぎと治安維持法違反で検挙された。第二次大本事件にはじまる宗教への弾圧は教派神道・仏教・キリスト教などへと波及してゆく。この間(昭和一〇-一五年)治安維持法違反で検挙された信仰者は、下表のように一四八〇人、起訴されたもの三七五人(新興仏教青年同盟関係はふくまない)のおおきをかぞえている(司法省刑事局『最近に於ける類似宗教運動に就て』、昭和18・8)。
しかし、これらは表面にあらわれた一部にすぎない。内務当局の目は既成の大教団へも鋭くむけられていたのである。元内務属古賀強の談話によると、「今一気に全部をこれはいかんといっておさえるとどうにも収拾がつかんようになる。それではいけない。……先ず極端なものというのでひっかかったのが日蓮宗等であったが、教団があまり大きすぎる。従ってこの反響が大きすぎる。それより他の小さなものから手をつけて、『自粛していきなさい』というわけで、自分から教義を変更していくような方向にもっていかねばならん。こういう指導方針をたてた。天理教団の教義についてもお筆先が問題になった。これなども天理教自体をおさえたのでは、八百万と称する信者にたいする反響が大きいという理由からこれをしばらくおいて、天理本道の方を検挙し、これによって反省を促す」(「古賀談話」)と語っているが、それが内務当局の態度であったろう。この方針にしたがって宗教界全体への重圧が急速に強化されていったのである。
一九三八(昭和一三)年一一月二六日、支部当局は天理教の管長中山正善を招致して「教義中の我国体と相容れざる諸点」を指摘し、数項にわたる「戒告」を発してすみやかに教義を改訂するよう指示した。天理教もやむなく、一二月二六日付管長諭達によって「教義儀式行事は総て教典に依拠し、泥海古記に関聯ある一切の教説は之を行はず」など三綱領を信者に指示せざるをえなかった。しかもなお内務当局は追及の手をゆるめず、「一応支部当局の監督又は教団自らの粛正工作の成果を俟つを至当と認め、其の経過を静観するに留めたるが、叙上刷新具体案の実践的効果如何に依つては根本的取締方針を樹立するの要あるべきを以て、その動向に対しては厳密なる注意を加」えたのである(『社会運動ノ状況』)。この間のいきさつについて元文部省宗務官村上俊雄はつぎのように回想している。「天理教は直接文部省が公認宗教として保護監督している。これがいきなり治安維持法に引っかかってたまるものか。じゃ何うするか。……一派独立の時には天理教教典というものを作って……そういうものであるとの擬制のもとに認可したのである。だから、曽つての独立の時の擬制をここでも再確認し強化するという道をとった。……これが教典の衍義を作らせた所以であります。……しかしこの衍義というのは作文で擬制の上に擬制を積み重ねたようなものです。……とにかくこうすることによって、本道についた火が、天理教全体に飛火するのを防いだのです」(村上俊雄『教派神道の運命』)。ここにも権力内部の矛盾抗争と、強権下における宗教団体の苦悶が如実に示されている。
こうした事例は天理教だけにはとどまらない。「日蓮各宗の御遺文問題、仏立講の大麻不受問題、真言宗の本地垂迹説、真宗の聖典改訂問題、さらに基督教界における神社不参拝問題、宗派神道界における教祖の言行、もしくは奉斎主神の神格問題」(前掲書)等があいつぎ、既成教団もつぎつぎと権力への順応をよぎなくされた。
そのころ、日中戦争は長期戦となり、支配層のあせりは、国家権力による宗教や思想統制の強化となってあらわれてきた。一九三九(昭和一四)年の三月、全国の思想検事や予審判事などを集めてひらかれた第一四回思想実務家会同において、司法省刑事局長は「……事変を利用して不逞の目的を遂げんとし、或は銃後の秩序に混乱を生ぜしむるが如き言動に出でる類似宗教団体も亦其の数少くないのでありまして、深憂に堪」えないとのべ、「事変下の人心を惑乱するものは狂信徒の言動に及ぶものはなく」、「重要な思想問題」として万全の取締りを指示した。
そして、戦時下の治安維持・戦意昂揚・銃後の護りがつよく要請され、「反戦的反軍的」とのレッテルをはられて軍刑法違反で検挙されるものが急速に増加した。さらに一九四〇(昭和一五)年の七月三一日には、救世軍日本地方軍団の幹部七人が「スパイ」の嫌疑で憲兵隊に検挙されるにいたった。事態は暗転して、憲兵隊の手までが宗教界のうえにおおきくのしかかるようになり、宗教にたいする弾圧にますます拍車をかげろようになる。そして他方においては「紀元二千六百年式典」が盛大に挙行され、「八紘一宇」の題目のもとに極端なる国家主義が鼓吹されていった。
しかしあいつぐ当局の宗教弾圧にもかかわらず、信仰は根づよくつづけられていた。一九三九(昭和一四)年六月の第一五回思想実務家会同において、刑事局長は「信仰致しますものは多く狂信徒であり、検挙に依るも容易に転向を肯じない実状にありますのみならず、信仰自由の名に匿れ其の説くところ多く難解でありまして、其の真相を看破し事実の核心を掴みますには多大の困難がある」とのべているが、宗教の取締りには当局もてこずっていたのである。そのためこの会合では、実際に検挙・起訴をおこなう思想検事から抜本的な取締方策が要請され、「厳罰」化と「立法」化の必要性がくりかえし力説された。
これまで宗教事犯といえば不敬罪・詐欺・猥褻・強姦・殺人傷害などの刑法犯罪、出版法・新聞紙法違反、売薬法・医師法違反、警察犯処罰令違反、宗教法規違反などであったが、第二次大本事件以来治安維持法が適用されることとなった。しかし治安維持法は「元来共産党其の他左翼結社を目標として立法」されたので、宗教団体の適用には無理があり、「法律技術上多大の不便を感」ずるにいたっていた。最大の盲点として、国体変革のためにする、宗教団体の「結社」と反国体的「行動」の脆弱さが指摘され、「結社のみに重点を置」いた取締方法の是正が強調された。
昭和一四年四月八日には文部当局の異常なまでの努力によって、多年の懸案となっていた宗教団体法が公布された。宗教団体法は、明治三二年以来五回にわたり議会に提出されたものであるが、否決あるいは審議未了におわっていた。じつに三七年ぶりに成立したもので、第二次大本事件が推進力となったことはいうまでもない。同法では、教義の宣布・儀式の執行または宗教上の行事が、安寧秩序を妨ぐるもの、または臣民たるの義務にそむくときは、主務大臣がこれを制限し、かつ禁止することができるというにあった。
だがこれも司法当局からは、「甚だ微温的」であり、「類似宗教の反国体的の犯罪の取締として真に目的を達」しえないものとしてつよく批判された。こうして司法当局による立法的措置を要請する声がたかまってゆくのである。
〔写真〕
○宗教事犯のうち治安維持法違反の処分人員表 ☆これらの数字は当局の資料によって差違がある p572
○つかの間ではあったがそのよろこびは千金にあたいした 三女八重野の病気見舞で一夜の帰宅をゆるされた二代すみ子と家族 後列左から貞四郎 すみ子 尚江 住ノ江 新衛 直日 むめの 八重野 p573