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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第5章 >1 再建への動き
文献名3戦局の転回
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
OBC B195402c6511
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本文  たしかに聖師らの保釈出所は、大本にとって画期的な出来事であった。これによって大本再建への飛躍的転換がおこなわれつつあったのである。しかもこの時期はまた、戦局の推移にあっても重要な大転換の時点にあたっていた。昭和一七年のなかばごろには、太平洋戦局における日本軍の補給路はすでにのびきり、連合軍の対日総反攻の火蓋がきられていた。
 聖師はこのころ、「上陸とか占領とか景気のよいことばかりいっているが、逆になっている」と信者に語っていたが、すでに決定的な破綻が進行しつつあったのである。昭和一七年の元旦には東郷茂徳外相が、この戦争を日本にもっとも有利な機会に切りあげるよう主張していたということであるが、国内でも戦争の前途に危惧をいだき、ひそかに戦争の終結が期待されつつあったことは否定しえない事実であった。しかし戦争はさらに拡大され、その機会はむなしくうしなわれていった。
 昭和一七年六月五日、日本海軍連合艦隊は主力をあげて、アメリカ太平洋艦隊の根拠地ミッドウェーを攻撃した。しかし主力空母四隻を失う大敗北をきっした。つづいて八月のソロモン海戦においても敗れ、八月七日、聖師保釈出所の日に、連合軍は日本軍の南方前線基地であるガダルカナル島に上陸した。死闘半年ののち、日本軍二万数千人が全滅し、おおくの艦艇と飛行機を失って昭和一八年二月一日には撤退したが、これを契機に、日本軍は太平洋戦争の主導権をうしなうにいだったのである。
 一方欧州でも連合軍の総反攻がはじまっていた。昭和一七年一一月に米英連合軍は北アフリカに大軍を上陸させ、八月スターリングラードに突入したドイツ軍は、態勢を立直したソ連軍のすさまじい反撃にあい、昭和一八年の二月二日には、ついに総退却した。こうして戦局は太平洋・欧州の両局面において、期を一にしておおきく転回したのである。
 事態はすでに深刻となっていたが、国民には事実をしらされていなかった。ミッドウェーやソロモン海戦の敗北も勝利のごとく報道され、ガダルカナルの敗北は「転進」としてつたえられた。このころ国民の一部にも、戦局の前途に不吉な予感をもったものもあったが、聖師はすでに、日本および独・伊の敗北を侑言し、中矢田につぎつぎとたずねてくる信者に「日本は敗ける」とはっきりつたえていた。言論出版集会結社等臨時取締法のもとに言論がきびしく統制されていたときだけに、側近の人々は、聖師の言動に憂慮したという。大本七十年史編纂会のおこなったアンケート(昭和39年)によってみても、昭和一八年から一九年にかけて、北は北海道から南は沖縄にいたる国内はもちろんのこと、台湾・朝鮮・中国の信者たちにも、日本の敗戦に関する聖師の言葉がゆきわたっていたということがわかる。そのうえ、根室からきた信者には「千島列島がなくなる」とかたり、また台湾がうしなわれることもつたえていた。二代すみ子からも敗戦のことをきかされた信者もあり、また竹田で療養中の日出麿から、「日本は勝ちますか」「負けますな」と自問自答式に教えられた信者もあった。
 戦局はさらに悪化した。一九四三(昭和一八)年の五月には、アリューシャン列島のアッツ島で、日本軍二五〇〇人が「玉砕」した。事態の深刻化に狼狽した政府・軍部は九月三〇日御前会議をひらいて、「今後とるべき戦争指導大綱」を決定した。開戦以来の戦争指導方針は根本的な変更をよぎなくされ、千島・小笠原・内南洋・西部ニューギュア・スダン・ビルマをふくむ地域を絶対防衛圏として、本土死守の態勢がとられることになった。
 しかし、一一月にはマキン、タラワ両島で、翌一九年には、二月のクェゼリン、ルオット両鳥で、ついで七月七日にはサイパン島で日本軍が玉砕した。サイパン島の陥落によって、日本全土が、米空軍の長距饋爆撃饑B29の爆撃圏内にはいった。アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の報告書によれば、爆撃目標の第一は海上輸送の攻撃、第二は、多数の庶民の住む都市住宅であった。日本の都市を焼夷弾で焼きはらうことによって住民の生活の場をうばい、生産を麻痺させ、戦意をうしなわせようとしたのである。かくて「焼夷弾攻撃は、工業的には重要性の少ない中小都市」にまでもむけられ、無差別爆撃・日本焦土作戦が開始されたのである。聖師によって、「日本はいま『古事記』の伊邪那岐尊がヨモツヒラサカの戦いに破れて、剣をしりえ手にふりつつ内地に引揚げてくるところだ」と信者に語られているが、日本軍は退却をかさね、九月ついにグアム、テニアン両島もおち、中・西部太平洋の主要な軍事拠点はすべて失われてしまった。
 制空・制海権を掌握した連合軍の進攻はきわめて急速で、おおくの船舶を失った日本軍にとって、太平洋上に散在する孤島からの撤収作戦ははかどらなかった。本土からの補給を絶たれたまま戦線の後方にとりのこされた島々は悲惨で、西カロリン群島のメレヨン島では、七五〇〇人の日本軍守備隊のうち五五〇〇人が餓死したといわれる。おなじころ陸軍がおこなったインパール(ビルマ)作戦は、陸軍三個師団が全滅して、日本軍の敗北におわった。しかもアジア占領地域の民衆の間では、中国、インド、マライ、ビルマ、インドネシア、フィリピンなどいたるところで抗日民族独立運動がひろがりつつあった。もはや「絶対防衛圈」はくずれ去っていったのである。
 海・空軍のうけた打撃はさらに深刻であった。昭和一八年におこなわれた、六次にわたるブーゲンビル島沖海空戦、昭和一九年六月のマリアナ沖海戦、一〇月の台湾沖航空戦でつぎつぎと大敗し、主力艦隊の大半をうしない、航空機の被害も壊滅的であった。
 しかしこのあいつぐ敗北も国民にはめかくしされ、「わが無敵連合艦隊」は依然として太平洋上を制圧しているものと信じこまされていた。聖師はすでに、昭和一八年に「連戦連勝と報道しているが、一万トン級の軍艦は全滅にひとしい、今にはっきりわかる」と語っていたが、はたしてそのころ、連合艦隊の残存主力は瀬戸内海の呉軍港に集結し、撤退作戦や補給作戦がその主要任務となっていた。この残存艦隊も昭和一九年一〇月に、巨大な戦艦「大和」を先頭として比島沖に出撃したが、大打撃をうけ、昭和二〇年の三月と七月、二回にわたる呉軍港空襲によってその被害は決定的となった。
 一方、欧州戦局にも破局が迫っていた。昭和一八年七月一〇日に連合軍はシシリー島に上陸した。同月二四日にはムッソリーニが失脚し、ついに九月八日イタリアは無条件降伏した。翌昭和一九年六月には連合軍は北仏に上陸して第二戦線の結成に成功し、ドイツの敗北ももはや歴然となってきた。そしてドイツ国内でも反ナチの民衆運動がもりあがっていた。

〔写真〕
○はやくから聖師は世のきりかわりを警告し人々の自覚をうながされていた 昭和17年亀岡中矢田農園での染筆 p631
○無謀としかいいようのない戦争であった 太平洋戦争の推移 p633
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