文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第4章 >3 教勢の飛躍よみ(新仮名遣い)
文献名3社会福祉事業よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ877
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一九四七(昭和二二)年、本部には法律相談所と保健室(愛善診療所)がもうけられ、主として信徒や地元町民を対象とする厚生事業がおこなわれていたが、本部が社会福計事業に積極的にとりくみはじめたのは、昭和二三年六月からである。すなわち「社会事業に関する事項」がはじめて総務課の所管と規定され、さっそく係員を上京させてその研究にあたらせた。しかし当時は、教団自体の再建に主力がむけられ、具体的な成果はみられなかった。そのなかで、まず愛善婦人会によって保育事業がとりあげられたのである。
地元の亀岡愛善婦人会では、町婦人会や戦争未亡人のあつまりである「睦み母子会」などと密接な連絡をとり、児童福祉週間などには、南桑地方事務所主催の「青空学園」の開設に奉仕していたが、一九四九(昭和二四)年五月に愛善婦人連合会が発足してからは、前記二団体との共同経営事業として「農繁保育所」をとりあげた。これは終戦後における極度の食糧難から、主食の供出などが農家のおおきな負担となっていたため、亀岡町役場や町民(一九五五年─昭和三〇年一月市制実施)の要望によったものであった。さっそく東光苑南側の松林にバラック建の家屋を急造し、六月一日には一五〇人の幼児・保護者らが列席して、開所式がにぎやかに執行された。期間はわずか1ヵ月間であったが、結果は非常におおきな成功であった。ひきつづき開設してほしいという地元町民のつよい要望によって、七月中旬から常設の「亀岡保育所」として開所することとなった。愛善婦人連合会では委員長の出口八重野を園長とし、全国の愛善婦人会員に1ヵ月一口五円の募金をよびかけて、その経営にあたった。亀岡保育所は、「家庭的にも経済的にも恵まれた少数特定階層の子供のみ選りすぐって入園させたという、従来の幼稚園制度とは凡そその趣を異にし」(南桑田地方事務所民生課長談)、児童の福祉と基本的人権の尊重をうたった児童福祉法(昭和23年施行)を地でゆくものとして注目された。
昭和二五年には、三月に四三坪、一一月に約一〇〇坪の園舎が完成し、遊戯場などの施設も整備されて、一九五一(昭和二六)年春には、児童福祉法による正規保育園として京都府からの正式認可がおり、五月一二日に盛大な開園式が挙行された。当日は京都府民生部長・児童課長、南桑田地方事務所長・民生課長、亀岡町長・助役、町会議員ら多数が参列し、一般からもおおくの期待がよせられた。園長には出口光平が新任し、ここに定員一八〇人の大本愛善苑立「亀岡保育園」が誕生した。経営の主体は教団にうつり、平衡交付金制度により、国の補助がうけられることになったが、その後もひきつづき婦人会の協力があったことはいうまでもない。この保育事業の背後には、出口聖師の遺志にもとづく二代苑主の積極的な教示と支援とがよせられており、それがまた信徒の力ともなった。
愛善診療所は、一九四七(昭和二二)年二月亀岡天恩郷の西南隅にもうけられ、医師浅井昇を主任とし、必要経費は教団から支給して、きわめて低額な実費で治療がつづけられていた。在住の信徒はもちろん、一般町民からも利用されていたが、社会の医療施設が漸次ととのってきたので、一九五五(昭和三〇)年七月に閉鎖された。
〔写真〕
○愛善婦人会ははやくから保育事業に力をいれ明るい話題をなげた 東光苑で遊ぶ園児と保育園 手前が当初の園舎 亀岡天恩郷 p878