文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第3章 >4 憲法擁護と軍備撤廃よみ(新仮名遣い)
文献名34 憲法擁護と軍備撤廃よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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〈警職法反対の声明〉 第二次世界大戦後、一時世界平和への気運がたかまったが、それもつかの間、アメリカを中心とする資本主義諸国と、ソビエト連邦を中心とする社会主義諸国との関係が悪化して、二つの世界の分裂と対立は、冷戦への緊張を生みだした。一九五〇(昭和二五)年の朝鮮戦争の勃発を契機に、日本の再軍備を説く声が国の内外にたかまり、警察予備隊が設置され、一九五一(昭和二六)年に日米安全保障条約が調印されたことは前述のとおりである。
一九五四(昭和二九)年にはアメリカからの軍事援助を助けるMSA協定が結ばれ、さらに防衛庁が設置されて、警察予備隊は、その名も自衛隊とあらためた。また自治体警察も廃止されて、新警察法が施行された。鳩山内閣・石橋内閣は比較的短命におわって、一九五七(昭和三二)年には、第一次岸内閣が成立したが、岸首相は、同年五月参議院で「自衛権の範囲内なら核兵器の保持も可能」と答弁して、国民の平和への願いと逆行する姿勢をしめした。
ついで一九五八(昭和三三)年の一〇月、第二次岸内閣は、国民の民主的権利を大幅におさえるために、警察官職務執行法の改定強化をくわだて、同月八日に突如として国会に提出した。この改正案は、警職法の重点を個人の生命財産の保護から公安秩序の維持にうつし、警察官の立入権を拡大するものであり、大衆の活動の予防的弾圧を目的として、令状なしの身体検査や、逮捕状なしの留置を可能にするものであった。革新政党・労働組合・各民主団体は、いっせいに警職法反対にたちあがった。一一月九日、二度にわたる大弾圧を身をもって体験している大本では、大本本部職員と地元信徒が合同で大会をひらき、つぎの声明を発表して警職法改定に反対した。また同日、大本青年会でも、運営委員会の名で同趣旨の反対声明を発表した。
我々は、いま全国民の関心の的となっている警職法改正案に対し、卒直に反対する。その理由は、この法律の解釈の拡大と濫用とによっては、憲法の重要な精神たる基本的人権を傷つけるおそれがあり、ひいては思想、言論、集会、学問等の自由、ことに信教の自由を妨げるおそれがあるからである。
戦前の治安維持法の適用などがその好箇の実例で、わが大本教団は昭和十年に未曽有の弾圧をうけた。それは大本が昭和三年に国体変革を目的とする結社を組織したという嫌疑であったが、この事件は何らそうした事実がなかったので、控訴院ならびに大審院において無罪の判決があった。我々は、この過去のにかい経験にかんがみ、憲法の重要な精神を破壊するおそれのある、この改正案に反対せざるを得ないものである。
昭和三十三年十一月九日 大本本部職員・地元信徒大会
反対運動は、国民各層の間から広汎にまきおこった。一〇月には、日本政治学会(理事長南原繁東大名誉教授)・日本学術会議学問思想の自由委員会が、あいついで反対を声明して政府に申しいれをし、一一月五日の国民統一行動には、四〇団体・二〇〇〇余人か参加して「母と娘の大行進」がおこなわれた。かつてないはばひろくはげしい反対運動の展開されるなかで、警職法改正案はついに、一一月下旬審議未了のまま廃案となった。しかし政府はこれによってあきらめたのではなく、かつての内務官僚のあつまりである自民党治安対策委員会のうごきは活発となった。すなわち一九六一(昭和三六)年五月には、政治的暴力行為防止法案が国会に提出された。しかしこれも、ふたたび国民のはげしい反対にあい、翌一九六二(昭和三七)年五月審議未了で廃案となった。