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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第5章 >2 エスペラント運動
文献名3エスペラント普及活動
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
OBC B195402c8521
本文の文字数5330
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本文  一九四六(昭和二一)年二月一四日にはじめて制定された愛善苑会則の第四条のなかには、「国語・国字ノ改善トエスペラント其他外語ノ講習」としるされている。教団では新発足後いちはやく、エスペラントの普及活動をとりあげ、第二次大本事件によって中断をよぎなくされていたエスペラント運動を復活した。国際課長の西村光月は、はやくも、その翌年の一〇月、滋賀県の甲南・三雲両中学校にまねかれて、エスペラント紹介の講演をおこない、一一月には滋賀県の同志中央小学校で、有志六七人にエスペラント講習の指導を一週間おこなった。
 一九四八(昭和二三)年には、本部奉仕の青年男女のために何回となく講習会がひらかれたが、中村陽宇が一九四九(昭和二四)年一〇月、外宣伝課長に就任してから、エスペラント運動はよりさかんとなった。天恩郷では一九五〇(昭和二五)年一月、地方にもよびかけて一週間の講習会を開催し、そのあと本部奉仕者のために、毎週月水金に常設講座をひらいた。この年の二月三日には愛善エスペラント会が設置され、会長に伊藤栄蔵、理事長には中村陽宇が就任した。またこのころ、本部・亀岡在住のエスペランチストらによってブルーマ・クルーボ(ペン・クラブ)が組織され、事務所を外宣伝課において、外同志との通信による交流をはじめた。四月には天恩郷で講習会が一週間開催され、綾部でも米川清吉講師による講習会がおこなわれた。運動は地方にもひろがり、大阪の阿倍野支部では重栖度哉によって三ヵ月間の講習会、吹田会合所では長井良順による毎週二回の講習会がそれぞれひらかれ、徳島でも四月に一週間、五〇人の受講者にたいして中村が指導するなど、各地でエスペラントにたいする熱がしだいにもえあがった。愛善エスペラント会発足後三ヵ月のあいだに中村が指導した講習会の回数は、本部で四回、四国出張二回、受講者計二二九人にたっしている。四月二六日には、戦後はじめての外国人エスペランチストとして、元アメリカ軍属であったA・ブラッドが本部を訪問した。
 この年には、本部ではエスペラントについての啓蒙をはかるため、パンフレット『国際語エスペラントと人類人主義について』(B6判三二頁)を出版したが、愛善エスペラント会の支部も、多治見(岐阜県)・愛媛・阿倍野・小松島・大聖寺などとあいついで設置された。八月二一日から本部で開催された全日本宗教平和博覧会記念大本愛善苑展覧会にさいしては、多数のエスペラント参考資料を展示するとともに、八月一五日から八日間、本部で夏期エスペラント大学をひらき、エスペランチストの質的向上をはかった。ついで九月には中等講習会がおこなわれている。
 一九五一(昭和二六)年の年頭には、ジュネーブの世界憲法制定会議にエスペラントが会議語に採用されたとの朗報が、会議に出席した出口伊佐男人類愛善会会長によってもたらされた。出口会長の渡欧米は、教団として新発足後はじめての外渡航であったが、この渡航によって外同志と直接友好をふかめることができたので、これを契機に、外宣教・エスペラント運動も一段とたかまった。そして「人類愛善新聞」には、一月からエスペラント紙上講座が開設された。また講習会もしだいに恒例化して、この年二月から三月まで大阪主会で週二回、また本部で四月一日から七日間、それぞれ講習会がおこなわれた。こうしたうごきに対処するため三月に、エスペラント初等講習書(B6判三二頁)三〇〇〇部が、愛善エスペラント会から復刊された。
 大本のエスペラント運動に呼応して、世界連邦都市宣言(昭和25・10・13)をした地元綾部市でも、国際都市としての性格を強調するため、エスペラント運動がもりあがってきた。四月には綾部文化協会後援で一週間の初等講習会が開催され、八月の瑞生大祭時にもよおされた外宣伝の実況をしめす展示会には、多数のエスペラント資料が一般市民に公開された。また一〇月には綾部文化協会主催によるエスペラント展示会が、三ツ丸百貨店でもよおされた。これらの諸行事に、大本が積極的に指導・協力したことは多言するまでもない。
 当時国内の有力なエスペラント団体である日本エスペラント学会では、学習用の月刊誌を刊行し、全国主要都市に支部をおいて活動をつづけていた。そこで愛善エスペラント会としては、「ペルダモンド」(学習用月刊誌)の復刊と、支部設置による地方組織の拡充を一時みあわせ、講習会活動を中心とする中堅指導者・人材の養成に重点をおいて、日本エスペラント運動全体の発展に寄与する方向を促進することになった。そして本部に開設された三ヵ月間を一期とする愛善教修所には、エスペラント学習が必須科目に採用され、全国から参加した信徒青年にたいする講習を強化するなど、講習活動は着実につづけられていった。また大本愛善青年会は、スライド「エスペラントの父ザメンホフ伝」を制作し、各地方青年会に数おおく頒布した。その説明書をエスペラントに訳し、機関誌で外に宣伝したところ、外から二〇ちかくの注文があった。なかでもブラジルでは、エスペラント・グループの手によって、説明書がポルトガル語に翻訳のうえ出版され、ブラジルでのエスペラント宣伝用に利用されたことをつけくわえておく。
 一九五二(昭和二七)年四月一日、教団の名称が「大本愛善苑」から「大本」とあらためられたのを機会に、愛善エスペラント会はエスペラント普及会と改称された。なおこの年の一月には大阪支部か新設され、一九五三(昭和二八)年から翌年にかけては、天恩郷で夜間を利用して本部奉仕者のために講習会がひらかれた。
 一九五五(昭和三〇)年一〇月二四日に、イギリスのエスペランチスト、D・M・ウースタ(女性)が来日し、天恩郷に二週間滞在した。日本旅行が目的で、岡山大学の八木日出雄博士から関西での世話を大本に依頼されたので、その間、京都・奈良・大津・大阪などのエスペラント団体との交流を斡旋し、また見学などにも案内した。ウースタと大本との緊密な関係はこのときにはじまる。一九五六(昭和三一)年一〇月二一日には、アルゼンチンのエスペランチスト、R・スコルニク博士姉弟が世界旅行の途上天恩郷をおとずれ、本部のエスペランチストたちと友好をむすんだ。これが機縁となって弟のJ・スコルニク博士は、エス文「00MOTO」へたえず寄稿してきた。一九五七(昭和三二)年六月一四日には、ニュージーランドのエスペランチスト、D・クリーン(女性)が来亀、綾部をも訪問した。
 一九五八(昭和三三)年三月一七日には、ウースタが大本のまねきによって、ふたたび来日した。同年八月には、外国人としては新発足後はじめての宣伝使に任命され、一ヵ年間大本に滞在して、大本の宣教に協力することとなった。その機会に亀岡・綾部で、エスペラントと英語の講習会がウースタの指導でおこなわれ、また、北道から九州まで、地方エスペラント会の要望にこたえて指導のため巡回をつづけた。日本のエスペランチストたちは、外国人エスペランチストと直接に語り合う機会にめぐまれて、エスペラント会話に自信をつけたものがおおく、日本エスペラント運動のうえにのこした功績はおおきい。ウースタはイギリスへかえった後も、またその後のソ連など世界各地の旅行の際にも大本および日本の紹介に尽力している。この年五月二一日には、おなじくイギリスのエスペランチストで世界漫遊家のW・L・シンブキンスが、一九五四(昭和二九)年五月の来訪についで二度目の訪問をなし、亀岡と綾部にそれぞれ一泊した。一九五九(昭和三四)年には、大本学苑にエスペラントが正科としてもうけられ、同年八月一日から八日までポーランドのワルシャワでひらかれた第四四回エスペラント世界大会に戦後はじめての代表として伊藤栄蔵を派遣した。伊藤は大会に出席した後、一ヵ年にわたる欧米旅行(四章二節)をおえて一九六〇(昭和三五)年七月に帰国し、日本各地に出講して、エスペラントの啓蒙につとめた。この年の四月一一日には、ユーゴスラビアの世界探検家で世界エスペラント協会理事のT・セケリが来亀して、綾部の春の大祭で講演をし、亀岡をも訪問した。
 こうしてエスペランチストの往来もおおく、エスペラント学習の気運がしだいにもりあがってきたおりもおり、一九六〇(昭和三五)年八月に、前橋でひらかれた日本エスペラント大会では、日本エスペラント運動の現状では世界大会を成功さすみこみはおぼつかないとの一部反対の声もあったが、第五〇回世界エスペラント大会を一九六五(昭和四〇)年日本に招致することが決議された。この決議は日本エスペラント界におおきな刺激をあたえ、それ以後の活動はすべて世界大会を目標にすすめられるようになった。さらに、この年の「中央公論」三月号に大阪市立大学助教授(当時)の梅棹忠夫が大本を紹介し、大本がエスペラントで外の新精神団体と提携をすすめている意義をおおきく評価して以来、大本信徒のエスペラント学習はいっそうもりあがった。それからは、抱負と自信をもってエスペラントの学習が積極的に推進されてゆくこととなる。本部でも夜間を利用して奉仕者にエスペラントの講習会をひらいたり、「ブルーア・チエーロ」(青い空)の名称をもったクラブをつくり、学習・外文通などの指導にあたった。また北道・東京・京都・大阪・九州の各地でも講習会の開催がますますさかんになった。
 一九六一(昭和三六)年三月には、人類学の研究のため世界各地をエスペラントで漫遊しているドイツのエスペランチスト、H・グンケルが来亀し、九日間天恩郷に滞在した。ついで四月には、オランダのM・マアマン(女性)、五月にはE・チレスといった外エスペランチストらがあいついで来亀した。七月一〇日から一七日までの一週間、長野県の信州大学野辺山農場で、日本エスペラント学会の主催による会話錬成合宿がひらかれて、全国各地から中堅の二八人が参加した。学会からの依頼で、大本本部も梅田善美を派遣して積極的に協力し、その後も、学生エスペラント連盟の全国結成や学生合宿強化錬成などの要請をうけて、指導的役割をはたしている。
 一〇月にはウースタがE・M・コックス(女性)を同伴して三たび来日し、大本本部の外宣伝部に籍をおいて大本の宣教およびエスペラント運動に協力した。翌年の七月には和歌山県の湯浅・田辺・勝浦・新宮を巡歴し、「世界は一つ、人類は一家、お互い同胞は一つの言葉エスペラントで」とうったえて、エスペラントへの気運をもりあげた。
 一九六一(昭和三六)年の暮、一二月二八日から、エスペラント普及会ならびに大本外宣伝部の共催によって、亀岡で一週間の合宿訓練をおこなうことになった。この訓練は初等講習と中等講習の二部制にわけられ、中等では会話を主とし、理解と表現の上達を目的にした。参加者は北道・九州をふくめ全国各地からの一〇〇人にたっし、大本信徒以外の学生やあらゆる階層のエスペランチストが、全体の三分の二をしめる予期以上の盛況となった。エスペラント普及会会長伊藤栄蔵や、ウースタをはじめ外宣伝部の重栖・梅田・伊勢敦二のほか、部外からは藤本達生・黒田正幸が講師をつとめた。合宿訓練は予期以上の成果をおさめたので、エスペラント普及会では、来たるべき世界大会をめざして、毎年この行事をおこなうことにした。

〔写真〕
○第44回世界エスペラント大会 昭和34年8月 大本は戦後はじめての代表をおくった ポーランド ワルシャワの文化宮殿 p1269
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