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文献名1大本史料集成 2 >第2部 昭和期の運動
文献名2第2章 昭和神聖運動 >第4節 神聖誌(抄)よみ(新仮名遣い)
文献名3皇道経済の本質と生産及労働に就ての考察よみ(新仮名遣い)
著者松本富美彦
概要
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ページ751 目次メモ
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本文 皇道経済の本質と生産及労働に就ての考察
      松本富美彦
筆者松本氏は、最近までマルキシズムの研究者であつたが、つひにその矛盾と不合理を感得してこれを清算放擲し、皇道並に皇道経済理論を遵奉するに至つた人である。
   はしがき
 ここに掲ぐる小論は出口王仁三郎先生の教説に依り我国の皇道が世界に於けるトルストイ、マルクス、クロポトキン等々の社会思想家の理想とする処を包含して剰す処なきのみならず、尚深奥なる諸哲理宗教をも解明統一するの一大偉観を見て驚愕と歓喜の中に筆を執つたものであります。
 平易に書く事を主眼としましたる結果、充分言ひ尽せない点もあるだらうと思ひますが、足らない処は皆様の御賢察に依り補つて戴き、後日改めて分配消費の方面についての考察を加へて完稿し度いと考へて居ります。
 皇道とは申すまでもなく、天地宇宙間の万象の秩序であり道であり、即ち真理であります。即ち天地を創り固め為し給へる神定めの道であるのであります。
 然らば皇道は何故天地宇宙間の真理であるかと云ひまするならば、其れは皇祖皇宗の神勅を固く信奉するが故に、斯く云ひ得るのであります。
 苟もこれを疑ふ者あらばそれは日本人にして日本人とは云へないのであります。
 然しながら今日日本の現実はこれらの日本人ならざる日本人により満たされてゐる状態であります。即ち自由主義者、マルクス主義者、或はキリストを信奉する者、仏を信奉する者、これらの人々は各々その依る所の理論教義乃至信仰に於いて皇祖皇宗の遺し給へる神定めの道、即ち皇道を今更知らうと致さないのであります。かうした悲しむべき状態におきまして我々は唯天祖の神勅を信奉するからと云ふだけの抽象的にして高踏的なる言葉をもつて之等の迷へる人々に対したのでは不充分でありまして、何が故に皇道は万の理論乃至教義に優れたるかを、又この道こそ古今を通じて謬らず中外に施して惇らざる所以を、之等の人々にも少し具体的に解き示さなければ到底之等の人々をして悟り知らしむるを得ないだらうと思ふのであります。
 従つて私はここに解り易く皇道の経済方面即ち我々の経済生活及び国家経済制度の皇道に即するには如何にしなければならないか、如何にするのが正しいか、又経済理論としての社会主義経済及び資本主義経済と比較検討し、その何れに真理ありやを究明して見たいと思ふのであります。
 皇道経済とは即ち主師親の三徳を具備したまふ現人神天皇を家長と仰ぎ奉る一大家族主義経済であります。而してこの家族主義経済とは人類愛善の誠に貫ぬかれ、敬神忠孝を基調とする自由なる生産と消費との関係であります。
 解り易く例を採りますならば、諸君の一家生活に於きまして例外は別として能力のある父や兄が自ら進んで生産に従ひ、能力のない老人や子供は一日中日向ボツコや鬼ゴツコをして遊んで居りまするが、誰も不平なくその父や兄の稼いで来た生産の結果を自由に消費して一同その一家の栄を讃え、一家団欒して生活を続けて居ります。この場合父や兄は自分の働いた生産の結果だから自分等だけが食ふ権利がある。弟は働きが少ないから半分だけで我慢して居れ、老人や子供は働かないから食ふべからずとは云はないのであります。若しそうした人があれば諸君は道にはづれた人だと其人を誹謗するでありませう。
 其の道とは何か、即ち天地自然の順応の道であり、皇道なのであります。
 この道にはづれた一家の生活は必ず不幸であり、その経済は行詰るのであります。
 国家に於きましでもこれと全く同様であります。この道を踏みはづしたる国家生活は必ず不幸であり、其の経済は破綻を来すので在ります。物在り余つて国民飢えると云ふ如き今日の経済制度は皇道に悖るも甚しと云はざるを得ないのであります。
 又ロシヤの如き働かざるもの食ふべからずの生産者独裁の社会主義経済組織も明かに皇道に反したるものであります。
 従つて家族主義経済は生産関係に於きましても決して資本主義経済に於けるが如き飢餓の鞭や、社会主義経済に於ける働かざるもの喰ふべからずの鉄則の鞭に依り、人々を生産に駆りたてるのでもなく、誰もが喜び勇んで生産に参加致せる様な生産関係なのであります。又消費の関係に於きましでも金がないと云ふだけの理由で、虫に喰はす米が余つて居ても食ふことが出来ないと云ふ様な無慈悲極まるものでなく、その家族成員の誰もが盲目であらうとも躄であらうとも、働く能力を全然欠いて居やうとも別け距てなく必要に依つて何時でも自由に消費出来て、その生に安んずる事の出来る様な、明治大帝の『国民にして一人と雖ももその生に安んぜざるもの在らば朕が罪なり』と御親らを責め給ふた大御心に背かざる様な消費関係であります。
 然らば其の様な生産及び消費の関係は如何にして可能なりやと謂ひますならば、農を本としたる天産自給の経済に於きまして、即ち細矛千足の国の本領に還る事に依り初めて可能となるのであります。
 由来農は歴代の御詔勅に依り拝察しましても、古来我が国経世の大本とされて居りますが、我国のみならず、世界人類生活の根基であるのであります。工業はその農産物の加工であり、商業はその配給であるのであります。
 農は根であり、工は幹であり、商は枝葉であります。根を枯らしては幹も校もないのであります。枝葉は枯れ落ちても幹は切られでも根があれば、又芽は出るのであります。さうして幹や枝葉は出来るのであります。
 農業にして若し立行かない様なことになりまするならば工業も商業もないのであります。是が天地自然の秩序であります。即ち皇道であるのであります。今日資本主義経済が行詰りましたのも農村を搾取しまして、その購買力を奪ひ農村を疲弊せしめた結果に依るものでありまして、その根を枯らしめたる為であります。この枝葉第一主義、商業第一主義が、即ち町人制覇が天地の理即ち皇道に反してゐるからであります。
 資本主義没落に就てマルクスの謂ふ様なその内包する自己矛盾が発展して必然にその崩壊の段階に入つた云々と云ふ如き持つて回つた庇理窟は要らないのであります。抑もの出発が皇道天地自然の道に悖つたが故に自己矛盾を生ずるのであります。斯うした意味に於きまして資本主義経済歴史は枝葉経済主義の失敗の歴史であります。次いでマルクス社会主義経済は工業第一主義に立つものであります。工業プロレタリヤ第一主義、プロレタリヤ制覇の経済であり、即ち幹第一主義であります。従つて農業及び農民は第二におかれて居るのであります。
 是れも明かに皇道、天地自然の順序にはづれて居るのであります。従つて当然その国民生活は不幸であり経済は行詰るのであります。ソヴエツト連邦では革命以来十幾年、未だに物資は欠乏し農民一揆の勃発は年に数十件に及ぶと聴いて居ります。
 マルクス患者が何と弁解しましても此の事実は否定出来ないのであります。唯強力なるゲ・べ・ウ秘密警察組織と過渡期だからと云ふ言葉に依つてこの国民の不平不満を漸く抑へてゐるのであります。
 この社会主義経済が何故に行詰るかといふことを唯天地の理にもとるからとか、人類生活の大本たる農を第二次的にしたからと云ふ丈けの理由でなく、も少し刻明にその成立し得ない所以を漸次稿を追ふて究明して見度いと思ひます。
 先づ生産論としましての生産と労働の関係を考察し以てその社会主義的生産関係及び資本主義的生産関係と比較検討し、この二者が皇道的生産関係と如何に隔絶しその隔絶こそは天国と地獄の隔絶であるかを明かにし度いと思ふのであります。
   生産と労働の関連
 自由主義経済学者は人間を本質的に利己主義者なりとする性悪説をその立論の根底とするものであります。即ち人間は利己主義者だから利潤が得られなければ働かないで怠ける、従つて能率が揚らない、生産が高まらないと云ふのであります。斯る認識は極めで近視眼的でありまして、生存競争と云ふ一点のみより人間を観察して生存競争に依りて歪められたる人間性のみ見て其の本質に対する認識を欠いて居るのであります。利己心を極度に発動させなければ生きて行けない様に世の中の経済の組立を作つて居るが故に斯く人間は歪められたのであつて、自分達で作つた檻の中に入つてその檻に慣らされ歪められたる自分達の姿を見て自らを託つて居ると同じでその檻が悪いのを知らず自分自身で悪いのだ、人間の本質がさうなのだと申して居るのでありますが、これは本質がさうなのではなくして習性が然らしめてゐるのであります。又之等の人々はさうした檻が出来たのも、即ち生存競争弱肉強食の世の中が出現したのも人間の本質がさうしたものを要求したからだと申すのでありますが決して左様でなく人間の無智不明が然らしめたのであつて、本質が性悪なのでなくその無智不明が斯る弱肉強食的社会を創り上げたのであります。その世代の人々にして皇道に対する認識明確なるものがありましたならば決して斯の如き間違つた社会は出現しなかつた筈であります。
 社会主義派の人達も学理上よりは人間の本質なるものを規定せず、変化するものと致して居りまするが、実践に於いては自由主義者と同じく矢張り人間は利己主義者也として居るのであります。故に民衆を鉄の組織に組立てて鎖で縛つて社会全体の生産に是を駆り立てねばならぬ、即ち鉄則の鞭を振つて怠け者の人間を生産労働に参加せしめると云ふのであります。前に申した様に、その学理上に於いては人間には一定の人間性と云ふものは無く、其れは社会関係に依り決定され其の変化に依り変化して行くものだと申すのでありますが、その変化して行くものは、実は矢張り人間の本質では無くて、慣らひ性即ち習性が変るのであります。
 人間の習性は其の生存する時代々々の環境に順応して変化するものでありますから、其の社会関係、其の檻さへ変ればそれに応じて如何様にも変化する事の出来るものであります。即ち人間の利己性と云ふ習性もその社会関係さへ正しくすればその教化と相挨つて自ら正しき姿を持つ様になるのであります。
 然し乍らこの習性なるものは或程度まではその社会関係が人間の本性と反発する様なもの、画一主義機械主義と云ふものでありましでも順応を示すものでありますが、その反発が深化する事に依つて必ず破綻を来すのであります。人間の神ながらに具有する本性を円満完全に発揚し得る様な経済関係、社会関係でなければ永続的発展と云ふものは断じて有り得ないのであります。抑も人は本来働く事は本能であり従つてその充足は喜びであるのであります。人には物を創り出す処の創造本能と云ふものが(進展主義を形成する)先天的に具有されてゐるのでありましてこの創造本能が人間を生産労働に駆る処の推進力であるのであります。自由主義経済学者の謂ふ利己心が生産への推進力では無いのであります。例へば子供が築山を作る時、ラヂオ好きの人がラジオ機械を組立てる時、或は園芸好きの人が大根や草花を作り育てる時、全く寝食を忘れて是れを為すのであります。母の夕餉を呼ぶ声も耳に入らずと云ふ有様で誠に喜びと共に生命を打込んで労働をしてゐるのであります。生産労働が斯くの如き姿に正された時労働は苦痛に非ず、嫌厭に非ず、其れは歓喜であり、芸術でさへあるのであります。誰か此楽しくも喜ばしき労働を嫌つて怠ける者がありませう。寧ろ人々は労働しない事の方が如何に苦痛であるかを経験するでありませう。斯る生産労働でありまするならば人間を労働さしめる為に飢餓や欠乏の鞭を以て為なくとも、或はロシヤに於ける如く社会規制の鉄の鞭をもつて為なくとも、人々は喜び勇んで生産労働に参加するのであります。
 飢餓の鞭や鉄則の鞭を持つて生産を為さしめねば無らないのは、生産労働其物が、従つて生産関係が、経済機構が、人間の本質に反したるものであるからであつて、即ち天地自然の道、皇道に反したるものであるからであります。即ち大機械主義、大分業主義であるが故であります。例へば一人の人間が一生涯針を磨く事のみが其の仕事であり、甚しきは何処に使用するかも解らなき機械の百分の一の処に入れ込む歯車を一生涯製作しなければならないと云ふ様な全く人の創造本能を無視したる唯機械的な半端に過ぎざる生産労働の姿をとつてゐるからであります。斯くの如き労働に何処に喜びや楽しさがありませう。それは唯飢餓から逃れん為の一手段に過ぎないのであります。
 然らば社会主義経済学者及び自由主義経済学者は申すでありませう。大機械主義、大量生産、分業主義に依らなければ生産能率の低下を来すと(然らざる所以は後説に譲りまして)然し乍ら抑も生産は社会万民の幸福のために生産能率を高める必要があるのでありまして、生産能率を挙げるために生産があるのでは無い、生産能率を餓鬼の如き姿に於いて高める事のみが生産そのものの目的では断じてないのであります。然るに是等の人達は生産能率増加、生産増加即ち社会万民の幸福、と斯様に単純に考へてゐるのであります。所が事実として生産能率増加に正比例して人類の不幸欠乏は増加しつつあるではありませんか。物有り余つて国民飢えると云ふ我国及びロシヤの悲惨なる状態は是を証明してゐる一つであります。悲しきかな之等の人々は自分達の認識不足が、其れ故の生産能率主義が此の人類不幸の遠因をなして居る事を知らないで、益々生産能率増加のみを計つて人類の不幸を救はうとして悲喜劇を演じて居るのであります。即ちロシヤソヴエート社会主義国に於きましては其の生産能率の増加したる事を統計に挙げて社会主義の勝利だと称して誇らしげに叫んで居りますが、社会主義は勝利かも知れませんが人民は敗北であります。その国民は特に農民は一日として飢餓より解放されて居ないのであります。都会に於てさへパンを得る為に長蛇の列をなして、漸くにして得ると云ふ事であります。生活に於ける第一の緊要品にして斯る状態でありますから、他は推して知るべし。如何に彼等は生活にさへ事欠いてゐるかが推察出来るのであります。マルクス主義者はそれは過渡期だから止むを得ないと申しますが、彼等の過渡期は遂に永久に過渡期でありませう。
 生産は如何に増加致しませうとも此の能率主義、大量生産、大機械主義が改められざる限り先に申しました生産労働の苦痛は能率増加に正比例して加はるものであります。従つて労働忌避を取締り監視する官僚群の増大、次いで国家機関の拡大は必然であり、従つて国費膨脹は避けられないのであります。而してこの増大し行く国費と官僚群の生活を支へる者は農民労働者その他の直接生産に従事する者よりの搾取に依り成立するのであります。
 マルクスの言葉を借りて云へば農民及び労働者と官僚群との利益は絶対に相反するのであります。搾取と云ふ言葉が不適当なれば是等生産者の生産結果の頭をはねることによりなされるのであります。この場合国費増大の能率と生産能率の増加とは正比例するもので在りまして、それは永久に鼬ゴツコの関係をなすものであります。従つてその国民は、経済生活に於てのみ之を観ましでも解放なるものは永久に来ないのであります。此処に今日ロシヤ民衆の窮乏の原因が在り官僚主義の跋扈があるのでありまして、過渡期は永久に過渡期である所以であります。
 斯様に生産能率の増加のみを目的とし、如何に働く事少なく効果を大にするかの馬車馬式研究をするのが今日の所謂経済学なので在ります。アダム・スミスもマルクス、エンゲルスも、此の範疇より出てゐないのであります。即ちアダム・スミスも其の国富論に於いて個人の利己心を放任したのが一番生産能率が挙がり即ち社会の幸福と一致すると言つてゐるのであります。
 此の立論が今日の資本主義自由経済の根底を為すものであります。
 マルクス経済学に於きましても資本主義経済が其の発展の結果生産を高める機能を喪失したから、この足枷を取り除いてより高度の生産関係、社会主義機構に改めて一層、生産を前進せしめなければならないと云ふのでありまして、その立論の根底は矢張り生産能率第一主義に在るのであります。
 右の如く、此の両者とも生産中心主義で在りまして、つまり所謂経済学的で在るのであります。何故なら、今日の経済学は先に申しました生産経済学であるからであります。
 然らば生産労働を喜びとなす、苦痛から解放する生産関係即ち皇道に適つた生産関係なるものは、如何にして得られるかと申しますに、それは氏神即ち産土神を中心として、それを囲む程度の農村部落を一経済単位としまして、自給自足の経済組織を打樹てる事に依り可能となるのであります。即ち之等農村部落内に於ける人々は誰もが農夫であり、木工であり、旋盤工であり、鉄工であり、軍人であり、科学者であり、芸術家でさへもあると云ふ様に総ての技術者であり得るやうに致すのであります。しかしてその生産への参加に於て労働種目の選択は各人の自由である様にするのであります。さすれば人々は各々の個性天分に依りまして、その向き向きにその特色ある能力を発揮しまして喜びと共に生産に従事する事が出来るやうになるのであります。
 斯した生産関係に入りますことを社会主義学者は勿論のこと日本主義者の一部にさへ復古主義だと申す人がありますが、斯る人達は未だ皇道の何たるかを解しない人達でありまして、皇道は進展的なものでありまして、申すまでもなく私が前述来機械主義分業主義に対する批判は機械文明に対する否定ではないのでありまして、大機械主義大分業主義に対する否定であるのであります。故に勿論皇道経済に於きましでも機械文明の必要は今までより以上に必要となるのであります。蓄積されたる科学文明の精果は機械器具のみならず、その一切は小規模化され精巧化されて農村に還元整備されなければならないのであります。斯くして農工具、織機肥料等農村の緊急必需品の生産を第一義とし、然して文化的方面の生産に入らなければならないのであります。
 斯うなりますと其の生産規模が小でありますから部落成員の誰もが其の技術を短時日に会得する事が出来、従つて其の創意を働かしますにも全体が解し易い為便宜となり前述の生産自由参加も、一人にして総ての技術者たり得る事もこれと相俟つて可能となるのであります。
 右の如く生活必需品の大部分は其の村に於いて生産され、それ以外の鉄、銅等の特殊地域の産物其の他自給困難なる物質の生産及び全世界が皇化されますまでの国防兵器の作製等は適宜郡県乃至国家に於いて生産を為せばいいのであります。勿論この鉄材等も現今の如き交換経済、都市経済であります関係上、交通其の他に鉄等の莫大な需要があるのでありまして、自給経済に於きましては都市より物資を得る量も減少し他府県との交通も少くなり、又大工場大娯楽場等の必要もなくなり、鉄材等の間接消費材料の需要は或程度減少するものと思はれます。尚今日に於きましても資源はあるに拘らず採算の採れぬと云ふ理由で生産化されずにあるものが随分あるのでありまして、採算が問題でなく必要によつて掘り出し、又は生産されますならば、特殊地域の産物と云ふものは非常にその範囲が狭くなるのであります。之等郡県乃至国家の生産に待たなければならない、特殊物資の生産は、各村落有志より選択されたる技能者をして奉仕せしむればよいのであります。亦其の生産設備等も、皆村々よりの献納によるものであり、交通の如きも右に準じたらいいでありませう。
 斯くの如き生産関係に入りまして、初めて其の生産労働なるものは苦痛より解放されて喜びとなり、人々は何時も創造の歓喜と共に芸術的精進を以てその生産労働に打込む事が出来る様になるのであります。斯くなつた時人間の労働は初めて神聖なりと云ひ得るのであり、生活即芸術だとも云ひ得るのであります。
 旦に霜を踏んで耕し、夕に星を迎へて織機を踏みハンマーを握り其の創意を打込んでの生産の結果は謂はずもがな、其の使用価値から云ひましでも、芸術的価値から見ましても必ず優れたるものが生れると確信するものであります。又能率主義者の憂へた其の各々の生産能率も挙がると思ふのであります。何故なら、各々がその天分に適つた自ら好んで選り、歓喜を以て為す生産であるからであります。
 以上で皇道経済の本質論としての生産方面の概念を申し述べたと思ひますが、其の分配消費の方面又それに至る方法論につきましては、後日筆を執り度いと思ひます。
 要するに皇道経済と申しましでも、単に夫れを唯物的経済的観点より考察したのでは、其の生産自由参加などと云ふ経済秩序に対する疑点が生じて納得のいかないものでありますが、その秩序及び運行は其の成員が皇道を体得し『行ふこと自ら則を越えず』の大和魂を取り戻し自然にして成り運ぶ境地に到達する事により、其の完全なる秩序と運行は期し得られるのでありまして、皇道を知らずして皇道経済は無いのであります。
 政治法律教育宗教の一切が皇道に還ると相俟つて初めて皇道経済も可能となるのであります。
『天下億兆一人として其の処を得ざる者あらば朕が罪なり』の大御心に応へ奉るに『君が代は思ふ心の一すじに我が身ありとは思はざりけり』の此の精神が一体となり、皇国一大家族主義経済体の秩序と運行を支へる柱となり、その基調たるのであります。
 この『君臣にして父子』の君民一如の精神が諸君の心奥に徹するならば、この皇道家族経済の具現は決して不可能事ではないのであります。
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