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文献名1大本史料集成 3 >第2部 第二次事件関係
文献名2第2章 裁判所資料 >第2節 地裁公判速記録(出口王仁三郎)
文献名3地裁公判速記録(1)
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概要
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タグ長沢雄楯(永沢雄楯) データ凡例長いので12ページに分割した。行頭●記号で始まる小見出しは底本にはない(うろーの狭依彦氏作成)。 データ最終更新日2018-10-14 09:23:16
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本文 ●見出しと冒頭部
地裁公判速記録
昭和十三年八月十日(水曜日)
京都地方裁判所
治安維持法違反並不敬事件公判速記録
午前九時四十八分開廷
被告人 出口王仁三郎
裁判長 出口王仁三郎、井上留五郎、出口伊佐男、高木鉄男、湯川貫一、湯浅斉治郎、東尾吉三郎、各被告人に対する本籍、住所、出生地等は準備手続に於けると変りないか。
出口(王) はい左様でございます。
裁判長 其の後変つたのはありませぬか……ありませぬね。
出口(伊) 私が宇知麿になつて居りますが、知ぢやなく、智慧の智であります。番地は二十九番地であります、それを申上げて置きます。
裁判長 それでは是より出口王仁三郎に対する治安維持法並不敬事件、高木鉄男に対する治安維持法並不敬出版法違反及新聞紙法違反、其の他の各被告に対する治安維持法事件を併合の上審理するが、先づ順序として、検事より被告事件の陳述を求めます。
検事 皇道大本は明治三十年頃出口直事出口ナカが金神の大本と称しまして、京都府何鹿郡綾部町字裏町の自宅に艮金神を祀り祈祷禁厭を始めましたのに端を発するのでありまして、明治三十二年七月被告人出口王仁三郎が右ナカを援助するやうになりまして、ナカを教主とし、王仁三郎を教主補とする宗教類似の団体を結成致したのでありますが、後出口すみをに代教主とし、王仁三郎に於て事実上右団体を統轄して参りまして、皇道大本又は大本と称し、天照皇大神(大本皇大神)を主宰神とし、ナカ及王仁三郎の手記致しました所の所謂筆先を神諭、王仁三郎の著述に依る霊界物語を神示と称し、同郡綾部町本宮を祭祀の中心地、南桑田郡亀岡町天恩郷を教義宣伝の根拠地と定めまして、其の教義を宣伝し、信者の獲得に努めて居たものでありまするが、其の根本教義なるものは、王仁三郎に於て、古事記、日本書紀等の記事を曲解致しまして案出致したものでありまして、万世一系の我が国体を変革せんことを目的とするものなのであります。
 然か致しまして、被告人王仁三郎は予ねてから五十六歳七ケ月に達しました時に、みろく菩薩として出現し、みろく神政を成就すべき旨予言して居り、被告人伊佐男、吉三郎、鉄男、留五郎、貫一、斉治郎、等は其の日の来たることを待望して居つたのであります。
 被告人王仁三郎は、昭和三年三月三日は之に相当する日であると云つて居るのであります。みろく大祭を執行して其の際に我国体の変革を目的とする結社を組織し、所謂該目的達成の為に本格的活動を開始しようと決議致しました。
 同月二日夜、右綾部本宮教主殿に、被告人伊佐男、留五郎、鉄男、吉三郎、貫一、斉治郎外約十名ばかりを招致致しまして、被告人王仁三郎から同人等に対して、先づ同月三日愈々みろく菩薩として諸面諸菩薩を率ヰて此の世に下生し、みろく神政成就の為に現界的活動を為すこととなつた旨、次に、諸面菩薩は右十六名及西村昂三の十七名とすと云ふこと、それに王仁三郎及右十七名は従来の役職を返上して、三日は事実上無役となるのだと云ふやうな趣旨を告げまして、暗に該結社を組織せんことを慫慂致しましたのであります。
 被告人伊佐男、鉄男、留五郎、貫一、斉治郎、等右教主殿に参集致しました者は、何れも右王仁三郎の慫慂に応じましたので、昭和三年三月三日、綾部町本宮弥勒殿に於て予定の通りにみろく大祭が執行せられたのでありますが、其の際被告人王仁三郎は、みろく菩薩として被告人伊佐男等十八名を従へ、被告人伊佐男、吉三郎、留五郎、貫一、斉治郎、等も亦諸面諸菩薩の一人として、被告人王仁三郎に従つて至聖殿に昇殿致しまして、相共に神殿に於てみろく神政成就の為めに一致団結して捨身活躍せむことを誓ひ、茲に於て、被告人等は他十七名等の者と共に、光輝ある我が万世一系の立憲君主制を廃して、日本に出口王仁三郎を君主とする独裁至仁至愛の国家を建設せむことを目的とする大本──昭和八年一月皇道大本と改称したのでありますが──と云ふ結社を組織したのであります。
 爾来右結社の拡大強化を図る為に、各被告人は、それぞれ其の地位、役職に応じて活動して来たものでありまして、此の間に、被告人王仁三郎は霊界物語等に不敬に亘る記事を掲載せしめ、又被告人鉄男は霊界物語昭和十年の発行の責任者として、更に瑞祥新聞紙の発行の印刷人として、尊厳を冒漬するやうな記事を掲載発行し、或は自己の雑誌に尊厳を冒涜する文言を使つて、それぞれ不敬の行為をなしたと云ふ詳細は、各被告人に対しまする予審終結決定書記載の事実に付て御審理を仰ぐ次第であります。
 尚本件は、安寧秩序を害する虞あるものと思料致しまするが故に公開を禁止して御審理あらむことを要求致します。
●出口遙、梅田信之、中野岩太について
林弁護人 御審理に入りまするに先立ちまして、只今御陳述になりました検察官の公訴事実に付て一点御釈明を得たいのであります。
 予審終結決定書に依りますれば、検察官が審判を請求されました事件中に、昭和三年三月二日に於ける出口王仁三郎等十八名の行為、及同年同月三日に於ける出口王仁三郎等十九名の行為があるのであります。
 そして其の際挙げられました人名の中、出口遙、梅田信之、中野岩太の三名は御起訴に相成つて居ないのであります。
 茲に伺ひたいと存じますることは、右日時に於ける右三名の行為は、起訴されて居ります他の者等の行為と全然相異なるとの御主張でありませうか。或は又、右三名に付きましては、法律上之を他の者等と相異る御取扱をなさるべき特殊の理由、事情が存在致すのでありませうか。
 私共は弁護の方針を立てまするに当りまして、此の点に付き非常に困惑致すのであります。
 何卒検察官に於かれましては、率直、無色、虚心坦懐に此の点に関しまする御釈明を下さいまして、以て我々と共に真実発見の為に一層の御協力を希ひたいのであります。
裁判長 本件の此の度の内容に付ては、検事の御論の如く安寧秩序を害する事実のあるものと認めまして公開を禁止する事に致します。
 特別の許可のない一般の傍聴人の退廷を命じます。
(午前十時一分傍聴人退廷)
 審理に入る前に、林弁護人から検事に対する釈明を求められました、其の要旨は結社を組織した同志の中で、二三名の者が出て居らぬがと云ふ御訊ねですね。
林弁護人(黙礼)……もう一遍申上げますれば、右三月二日及三日に、起訴に相成つて居りませぬ三名が致しました行為と、起訴に相成つて居りまする他の者等の致しました其の行為と全然相異ると云ふ御主張でありませうか。或は又、右三名に付ては、法律上之を他の者等と相異なる御取扱をなさるべき特殊の理由、事情が存在するかと云ふ御訊ねであります。
裁判長 左様な点に付ては、審理の進行上判明することと思ひまするが、弁護人各位の御希望もありまするから、差支へない範囲内に於て検事の御意見を発表して戴きたいと思ひます。
検事 御答へ致します。
 御訊ねの三名に付きましては、検事局で不起訴になつて居りますが、其の不起訴に致しました内容をちよつと此処で申上げることを差控へたいと思ひます。
 如何なる事件と雖も、不起訴理由、其の他のことに対して発表しないことになつて居りますから、其の点御含み置きを願つて置きます。
林弁護人 検察官の只今の御釈明は頗る遺憾とするのでありまするが、近き将来に於て必ず真実発見の為に、更に格段の御協力を発表……と申しますか、さう云うことを確信致しまして御審理の御進行を願ひたいのであります。
清瀬弁護人 今のことで初めて判りましたが、今の三名の中には、浅野遙と云ふ人が居るのですね、先刻申しました浅野正恭の子供ですね、御着眼を願ひたい。
裁判長 此の問題は是で、又改めて別の機会に於て──。
 それから各被各被告人にちよつと申上げて置くが、順序として冒頭に於て王仁三郎の審理をしようと思ふが、各被告人の審理の進行上、「王仁三郎の通りかどうか」と云ふやうな形式に於て審理を略するやうなことがあるかも知れませぬから王仁三郎の答に付ては、判らぬと云ふやうなことのないやうに、能く聴いて居て貰ひたい。
 重要事項に付ては、勿論確実に十分弁解を訊かうと思ふが、まあ余り重要でないことに付ては、王仁三郎の答を引用して、進行を図りたいと思ひます、其の積りて聴いて──
 それぢや王仁三郎から取調べます。
 其の外の各被告は腰を掛けて居つて宜しい
(出口王仁三郎外の各被告着席)
井上留五郎 一口……。
裁判長 何を言ふのですか、弁明などは、各被告の審理の際に十分訊かねばならぬことになつて居るが、何かね。
井上留五郎 あ、さうですか、ぢや……。
高木鉄男 私の名は、高木鉄男でありませぬ、鉄男、であります。
●審理冒頭 王仁三郎の体調
裁判長 それぢや是から王仁三郎を調べるから……。
 腰を掛けて能く聴いて居なさい。
前田弁護人 裁判長、出口王仁三郎は老齢にして且つ血圧が高い。果して長時間起立の儘で以て裁判長の御訊問に答へ得るか。若し途中で以て卒倒其の他の事故が発生しては誠に御審理の進行上遺憾に存じますから、特別に椅子並に水を御与へ下さることを御許しを願ひたいのであります。
裁判長 裁判所に於ても同意致します。
(椅子並に水を与ふ)
 準備手続より血圧が高いのか王仁三郎?
出口王仁三郎 もう一年前から……腹か痛うて叶はぬのです。斯うやつて(坐つて)居りましても、ちよつと動くと、抜けさうに(と股をなでながら)なつて叶はぬのです。
足立弁護人 出口被告は血圧のこともありますし、非常に疲労するたちでありますから、疲労致しましたならば、どうか御休憩を与へて御審理を仰ぎたいと思ひます。
裁判長 承知致しました、王仁三郎──。
出口(王) へえ。
裁判長 若し具合が悪かつたら、ちよつと休憩して貰ひたいと申出をしなさい。
 ちよつと答へしにくいやうな血圧の状態になつたから休憩して貰ひたいと申出なさい。
出口(王) 此処からですか……。
裁判長 あ、さうだ、私の方でも見て居るが、尚念の為に……。
出口(王) はい。
裁判長 王仁三郎に対して、公判に於て審判すべき範囲は、予ねての予審終結決定の内容に付て取調べを進すめるのだが……。
出口(王) ちよつと一口申さして戴きたい。
裁判長 ちよつと待て、……公訴の事実に対して、公判に附せられる被告事件に付て何か陳述すへきことがあれば述べなさい。
答 宜しうございますか。
問 併しながら詳しい弁解はだね、色々な教義其の他のことに付ての弁解は、中に入つてから十分訊いた方が被告人の為になると思ふから、大体の要旨だけの陳述をした方が被告の為にもなるのぢやないかと思ひます。
●予審での取り調べ(1)
答 あのそれでは申上げますが、初まりのことからちよつと申しまするが、警察に居つた時のことから申上げて宜しうございますか。
問 何を述べても宜いが、余り……。
答 簡単に、私は……。
問 公訴事実に対する陳述だな。
答 公訴事実に対する陳述と云ふことは──。
問 予審終結決定に書いてあることと関聯して居ることならば陳述しても宜い。
答 私は京都府の高橋警部の調べのときには、色々のことを──神憑のことを色々申上げましたけれども、それは下手な催眠術ぢやと云ふやうに、斯う云ふ神書を冒涜することを仰しやいますから、此の人には神様のことを申してもあかぬと思ひました。
 神様のことを「宜い加減な胡魔化しなこと」だとか、又おどれと云ふことを始終御使ひになりました。おどれと云ふことは田舎では汚れた奴隷と云ふことであつて、非常に罵つたことでありまして、よくおどれと云はれましたが、私はそれでも隠忍して居りました。うしたら自分が鼻唄を歌ふやうにして文章を作つて、「斯うぢやろ、斯うぢやろ」と言やはりますから、さうぢやありまへぬと云ふと、「胡魔化すな」と云つて「ポかん」となぐつて御書きになります。
 「是は井上と誰も云ふとることで、お前だけがさうぢやないと云つてもさうはいかぬ、御前だけ言はなくても承知はせぬ、年寄がこの寒いのに可哀さうだ、お前が儂の言ふことを承知したならば、皆帰してやる、寒くなつたからお前も帰してやる、検事の方でも、私の言ふ通り言ふて置けば直ぐに済むし、予審の方も、もう二、三回したらそれで済んでしまふぢやないか」と斯う云はれた。
 それで私は兎も角是は此の高橋さんにあつてはあかぬと思うて居りました。
 そして、「検事局から頼まれて自分は調べて居るのだから、此の通り言はなければいいか、ねぞ、お前は之に反対したならば、お前一生の間崇つてやるぞ。」私は子供もあれば女房もありますから、さう云ふことを祟られては適ひませぬから、もう斯うなれば仕様がないから公判迄或は予審迄向ふの仰しやる通り放つとけと言ふので、放つといたのであります。
 それで検事さんの方で御訊ねになつたのは、何の調書──警察の調書を見て御訊ねになりましたから、私は少しも反対せず其の通りに認めました。仰しやる通りに認めました。
問 腰掛けて居つても構はぬですよ。
答 ちよつと声が出ませぬので……。
問 ……。
答 立たぬとちよつと声が出ませぬ。下の歯がそつくり取れて居りますので……。
 それから予審へ行きまして、予審へ行つて予審で話して聞いて貰はうと思つた。予審判事さんなら能く判るやろと思うた。総て調べる御方の御ろを五口か六口訊きましたなら、此の人は宗教の素養があるとか、或は霊学の素養があるとか、文学の素養があるかないか云ふことは判りますから、高橋さんに何を云ふても、神界のことを、霊界のことを言うても判らぬから、是はやかましく言うても仕様がない、却つて又掛巻くも、畏きことを仰しやるから、又我々もそれに対して言はなければならぬことになるから黙つて居つた。
 それから愈ヽ予審へ行きました所、予審もまだ判らない。私はまだ判らぬので呆れてしまひました。
 それは何故かと言ふと、斯う云ふことを仰しやいます。
 昭和十二年十月四日だと思つて居りますが、私は古事記、日本書紀にあると云ふたら、「古事記に書いてあることと、日本書紀に書いてあることとは字句が合ふて居らぬ、矛盾して居るから、我々は信じない」と言はれた。それならば古事記に付ても御調にならなければ宜しいのに、矢張り御調べになる。
 それから十月の十日と覚えて居りますが、弓削道鏡のことでした。「和気清麿が宇佐八幡の神勅を請ひに行つたのは嘘だ。神様がそんなことを言ふ筈がない、清麻呂が勝手に言ふてあ、云ふ工合にしたのだ」と、さう云うやうに仰しやいました。私は五十年間殆んど神々に仕へて居りますが、神様が仰しやることは確かに、私は経験して居ります。それで清麻呂は一生懸命に身を浄めて、国家の一大事として御願したから、神様の御声を聴いたと、私は確信して居るけれども、あの予審判事さんは、「それは清麻呂が勝手に拵へたので、そんなことはない」と仰しやいます。
 斯う云ふことを仰しやる人には、是はとても神さんのことは調べて貰ふ訳にいかないと思ひました。
 それから十月十五日に「吾れよし」と云ふ話がありましたが、「外国は総て『吾れよし』だと、英国あたりも自分の国さへ宜かつたら宜いのだ、日本の戦争も是は実際言うたら『吾れよし』ぢやぞと」言やはる。
 「日本が支那との事件を起した、是も実際を言うたら『吾れよし』だ」と、斯う云ふことを仰しやるような御方ですから、是は何を言うてもあかんと思ひましたから、私は此の間準備公判のときに申上げたやうなことは、一つも警察でも言うて居りませぬ。検事局でも言うて居りませぬ。予審でも言うて居りませぬ。
 何故言はぬかと云ふと、それを云ふと斯う云うことを言はれる。それは直ぐに保護色やとか、表看板ぢやとか、斯う言つてけちを付けられる。総て良いことがあれば表看板、保護色や、暗示やと、即ち何々斯う云ふことを言はれますから、公判のときに之を言ふのに除けて置いたのです。是も妙な方へやられて胡魔化されたら困ると思ひまして、私は是迄予審でも何も言ふて居りませぬ。
 愈々是から本当のことを申上げます。何故と云ふと、予審判事と書記が居つて勝手に書かれる。
 私は一日間体主霊従と云ふことだけを訊ねられた日があります。それから又和光同塵と云ふことは何と云ふことだと、斯う云ふことを訊ねられた。是れぢや神様のことも判らぬと思つた。何故判らぬかと云ふと、私が軍人の田中文吉の証人に呼ばれて予審廷へ行きましたときに、此の字は何と読むと云ふことを訊ねられた。それは「へぶらい」語であります。へぶらい語は「きりすと」教の聖書を読んで居れば判る。是は聖書を読んで居らぬ人だなと思ひました。
問 言はむとする要旨も大体判つたが、さう云ふ積りで本当のことを言はなかつたと云ふ主張の問題だが、各個の問題に対する弁解は其の都度々々答弁したらどうですか。
答 各個とは……。
問 後で個々の事実に付て訊ねるから、其の際に──大体の言はんとする趣旨は呑み込めたから。
答 其の外にも沢山ございますけれども。
問 趣旨の違つてる点ならば言うても宜しいが、今のことは「予審判事がさう云ふ訳だから本当のことを言はなかつた」と云ふことに帰着するのでせう。
答 えゝ、それから高橋警部が、「俺に反対したら御前も子供や何かが可愛やろ、可愛くないか」と云ふことを色々言はれたから、それを可愛さに私は検事局では其の通り言うて、はよういなして貰はうと思つて、検事局では本当に私は抵抗して居りませぬ。
問 それで趣旨は判つたが公訴事実──予審終結決定に書いてある事項はどうですか、それに対する弁解は。
答 私は全然否認致します、全部私は否認致します。
問 全部否認でありますか。
答 若しなんでしたら御訊き下さい。
問 訊かなければならぬが、全部否認……ちよつと準備手続に於ける供述と又違ふのですか。
答 違ふことはございませぬ。
問 準備では全部とはなつて居なかつたな。準備公判に於ては。
答 今仰しやるのはどうぢやと仰しやいますから、全部否認致しますと申したのであります。此の前の準備の時に御訊ねになつたことに対して申上げたのでありますが、其のことに付て私ちよつと……。
問 さうすると大体に於て準備手続に於ける答弁と同じやうなことになる訳か。
答 ちよつと間違うて申したことがありますから訂正さして貰ひたい。
問 それは無論訂正して貰はなければならぬが──。
答 「上」と云ふことは外国ばかりぢやありませぬ、日本の上層社会はまるで人倫を破つて、さうして第一、第二、第三位の妾宅を置かなけれは紳士でないやうな顔をし、或は又有閑「マダム」と云ふ貴婦人が役者の部屋へ入りましたりして居るが、是は人倫がめげて居ることであります。
 「下」が破れて居るのは、是は知りませぬが、淫売窟が東京にもあるさうです。玉の井とか何とか云ふ所があるさうです。是は人倫が廃頽して居るのです。さう云ふことも言うて居るのです。
 斯う云ふ意味で「上」と「下」とが斯うなつて居ると云ふことを申上げたのであります。支那あたりもそうなつて居ります。
問 さう云ふ意味であると云ふのだな。
答 さうです、それも訂正したいと思ひます。
問 弁解は大体は準備手続で言うた通りか。
答 大体に於てさうです。
 簡単に云ひましたから又詳しく申しますが。
●歴史 青春時代まで
問 ちよつと訊きます。それぢや先づ経歴のことを訊かなければならぬ。
 王仁三郎の経歴に付てはですね、決定に依りますと、決定の内容に依りますと、借行小学校を卒業し、家事手伝の傍ら漢籍、神道、国学に関する書籍を繙読して研究したと、斯う云うことになつて居りますが、本当ですか。
答 是は此の間申上げました大久保吉春先生から借りて神道の本を読みました。
問 借行小学校と云ふのは尋常か、或は高等か。
答 其の時分には尋常も高等もなかつた。唯小学校と称して居り、偕行校とも云ひました。陸軍省の偕行社の「偕」です。
問 此の漢籍、神道、国学に関する研究をした顛末に付ては、予審の第二回調書の一問答に於て述へて居るが、是は此の通り聴いて宜しいか。
答 さう云ふ履歴の所は其の通り申して居ります。
問 此の通り聴いて宜しいね。
答 はい。
問 それから被告人が大本と云ふものに関係する迄の経歴は、予審の第二回訊問調書に見えて居るが、此の通り聴いて宜いか。其の内容は詰り念の為めに訊いて置きますが。
答 ちよつと読んで見て下さい。
問 上田吉松の長男として生れ、旧名を上田喜三郎と言ひ、九歳の時より十三歳迄京都府南桑田郡穴太村の偕行小学校に行き、同校卒業後一年半程同校の下級生徒を教へて居りましたが、それを辞めて其の後は私方の百姓及醤油小売商の手伝をして居りました。
 私は十歳位から十六歳位の時迄居村金剛院の住職に就いて四書五経、十八史略、文章規範等を習ひ、御経の本も習つた。
 又十三歳の時からは、兵庫県多紀郡春日江村の神道妙霊会の先生から延喜式の祝詞及神道の本を数冊借受けて之を読んだ。
 是は神道の方の研究。二十三歳の時から岡田惟平と云ふ国学の先生から国学の本を数冊借受けて読み、神道及国学の本は引続き最近迄読んで居た。それから家事の手伝をして居る傍ら、暇の時には荷車引もして居た。
 二十三歳の時から牧場を経営して居る所の井上直吉の助手となり獣医のことも研究したり、牛乳を搾つたり、或は又牛乳の配達などもして居つた。
 二十六歳になつて穴太に帰り、上田正完外一人と共同して牧場の経営をして牛乳の販売をし始めて、明治三十一年二月に是も止めてしまつた。
 是だけが職業上の経歴になつて居るが、是は間違がないのですか。
答 其の通りです。
問 其の通りか、附加へることはありませぬか。
答 それに間違ひありませぬ。
問 それから──二十一年の四月、それから──二十一年の四月静岡県の清水……。
答 下清水です。
問 其処の稲荷講社総本部の永沢雄楯に付て、鎮魂帰神の法を習つた。神道講習、病気平癒の祈祷等を為して居た。
●歴史 高熊山修行の経緯
答 そこのところがちよつと抜けて居ります。
 私は十三の時から一生懸命水をかぶつたりして神憑の術を習つて居りました。
 さうしたら二十六の年から私は牧畜をやるやうになりまして、余裕が出来ましたから、夜の十一時頃から朝の四時頃迄一人で神憑の修業をやりました。
 三十一年の四月、旧の四月の八日頃だと覚えて居りますが、私の親類に次郎松と云ふ男がありまして、「博奕打の河内屋の女を取つたと云ふので二百両貸せ、貸さなかつたら地獄川へ簣巻にして打込む」と言つて来たので、それで仲裁を私の所に頼みに次郎松が来た。
 私は侠客が恐いけれども親類のことであるし、金も二、三円借りて居りましたから、義理で行かんならぬと思うて行きました。
 さうして話をして仲直りをすることにして、河内屋から十五円と次郎松から十五円と出して、是で一杯飲まう(笑声)。
問 それは宜いぢやないか。
答 ちよつと聴いておくんなはれ、是が元なんですよ、神様の……
 処が河内屋と云ふ奴は侠客だから、「侠客的な仁義を以てやらう」と云ひ、こちらは素人だし、そんなことが出来ないと言つてごたごたした。
 処が、結局河内屋と云ふ奴が、十五円の金も払はないでしまつた。
問 関係が一体あるのですか。
答 エゝ……言うて宜しうございますか。
問 う。
答 其処で、私は長吉と三人連れて家へ帰りました。
 処が三日程したら私が浄瑠璃を語つて、次に『現れ出でたる武智光秀』と言つて居る時に、ほんまに河内屋が現れて来て、自分を表へひつ張り出した。
 家の前の桑畑へ連れて行つて、私を殴つた。私は桑の木の──古い木の下に隠れたから、対手が殴つても余り私には当らなんだけれども、頭に傷が出来たり、血が出た。
 さうすると朝になつても私は頭が上らぬ。牛は鳴くし、乳を貰ひに来ても搾つても居られないから、本宅の母の方へ訪ねて行きました。母が出て来て見たところ、私の顔を見てわつと泣いた。「去年迄は家のお父つあんが居つたから家の子を呶鳴りもせぬだつたのに、母親一人になつたから──と」云ふので泣きました。
 「さうぢやない私は己むを得ざる事情の為に殴られたので、父が居なくなつたからやられたのぢやない、斯う云ふ理由があるのだから」と言つた。
 併し母に済まぬことぢやと思つた。
 さうしたら八十歳になつた祖母が出て来て一生懸命泣きました。「侠客なやうな者の対手になるな、親が大事と思ふならさう云ふことをして呉れるな」、と斯う申されました。
 さう云ふ経緯から私は高熊山へ修業に行きました。
●歴史 稲荷講社
問 さう云ふ経緯からだね。
答 それから私は神憑になりまして、四月の三日になりますと静岡から永沢雄楯先生の弟子であるお爺さんが来まして、あんたのことをちよつと聞きまして訪ねて来ましたが、「あんたちよつと調べさして貰ひたい」と言つたので、私は斯うしてちやんと(鎮魂の姿勢をとる)手を合せながら坐りました。
 すると私の体が飛上つて色々のことを申しました。
 さうすると、「是は儂の手に合はないから、永沢先生の所に行かう」と言うて、一緒に四月十五日に行きました。
 三日に発つて十五日に着いた。其の時には金がないので仕様がないから、私は山やら家を抵当に置きまして五十円の金を借りて連れられて行つて、静岡の先生の所に行つたら、人が見て貰ひに来て居た。
 さうして永沢先生が色々と私の神憑りを御調になられた。さうして本田先生、副島先生の「神道問答 」、それから「言葉の大本」と云ふものを下されまして、之を能く教へて下さつた。さうして、私に、毎日鎮魂と帰神の修業をして下さいました。
 先生が言ふに、「私は五千人弟子を持つて居るが、御前のやうな珍しい者はない。御前は愈々本当の神憑りだ」と云ふので、得業証と云ふ証状迄貰ひました。
 さうしてそれから日露戦争や世界戦争、色々なことを皆神様が教へて呉れたが、それはちよつとも違ふて居らしまへぬ。
問 それは前に申して居らなかつたか。
答 それは神様のことを云うたら、胡魔化すなと高橋さんは呶鳴る。それで涙を零して、拳固を振上げて、おのれおのれと言ふ──最前申したやうに、神様の修業の観念もなければ、霊学の観念もない。人に申上げても胡魔化すとより外思はれない。それで申さなんだのであります。
 暑い……。
●歴史 鎮魂帰神
問 清水に行つて、稲荷講社の永沢雄楯から鎮魂帰神の法を習つて、得業証を貰つて、それから穴太に帰つてからは矢張り病気平癒、祈祷などもして居つたのか。
答 穴太に帰つてからは、余りさう云うことはして居りませぬ、四月に帰りまして、末に帰つたのでありますが、さうした所が私が帰りまして永沢先生に教へて貰つた鎮魂帰神の術を多田琴やとか、上田幸吉やとか、七、八人の連中に教へまして、先生から教へて貰うた鎮魂をやつて見た。
 さうしましたら皆神憑になりまして、私は何の神とか申し、それから私は非常に嬉しくなつたから、一遍先生に報告して、「短時日の修業でこんなに七、八人の者が一遍に神憑りになるのは不思議だ、先生に訊いて見よう。而もそれが止らない、私の力で止めることが出来ない。」先生に今一遍訊いて来ようと思つて、又清水へ行つた。
 多田琴は、「儂は稲荷や」とか、「白滝大明神である」とか云ふて穴太の村を歩いて、「御前の家は斯う云ふ悪いことをした、改心せい」と云ふやうなことを言つて歩いた。
 村の人は、「彼奴は覚えが宜いから、方々の家のことを知つて置いて、教へて置いて言はして居るに違ひない」と言つて、村の者が出て来て私の家を攻撃した。
 それで家から早う帰つて来て呉れと云つて来たので、私は清水から帰つて来た。そして発動を抑へることを教へて貰つて帰つて来たので、それを抑へてしまつた。
 それから、神憑りと云ふものは成る程ひどいから恐しいものだと思つて、それからは余りやらなかつた。
 それが五月、六月の時分で、七月、八月は暑うございまして、あつちやこつちやの稲荷さんから「見に来て呉れ」と云ふから、其処へ行つた。
 亀岡には研究がてら行つて居つた、静岡の稲荷講社とはどれ程法が違ふかと思つて行つて居つた。
 それから秋の小口になりまして、それから一遍何しに行かうと思うて園部の井上直吉の所に行つて来ようと思つて……。
問 別に病気の平癒の祈祷はしなかつたか。
答 余りしませぬでした。
問 鎮魂の方は。
答 苦しんで居つたのを抑へるのに困つて居つた。
答 霊学会で神様を祀つて居つたのぢやないか。
神様を祀つて居りました。霊学会と云ふものは、永沢先生の所に、私はそれの会長になつて居りましたが、それを持つて帰つたのです。
●歴史 出口直との出会い
問 鎮魂帰神の方はそれ位にして、それから、王仁三郎が大本と称して艮の金神を祭り、祈祷禁厭等を為して居つた時から出口直事出口ナカを知るに至つた事情はどうでせうか。
答 今言ひ掛けて居つたのですが……
 それから園部に行きました。
 さうして園部へ行く時に八木と云ふ所に茶店がある。其処に出口直の娘の福島久子と云ふ者が居つて、さうして福島虎之助と云ふ者が夫で、人力引をやつて居つた。
 それは金光の信者だつた、私が其処へ寄りましたら、私が妙な風をして居つて──昔の裃を着まして、下は袴を穿いて歩いて居つた。妙な風をして居つたので、「あなたは妙な風をして居るが、何をするのですか」と言つた。
 「私は、斯う斯うで稲荷さんの所へ行つて斯う云ふことを教へて貰つて、艮の金神を研究したいと思うて、私は研究して居るのだ」と言つたら、「それなら私の母が艮の金神さんと言つて祭つてる。金光教会へ入つて居たけれども判らぬからそれを観て呉れ」と、私は頼まれた。
 それから福島虎之助が、「儂が送ります」と言ふので、其の儘送つて貰つた。其の時分だつたかしら……それは違ひました。その時は送つて貰はなかつた。「直ぐに行けぬから」と言つて、園部へ行つて、井上直吉方に一月程居つた。そこで又、私が暫く前に園部に居たことがあるので、信者が出来ました。
 さうしたら福島に或る処で行き合つた。「何時行つて呉れたか」と言はれたから、「まだ行かない」と言つたら、「私の車に乗つて行つて呉れ」と云ふので、それは気の毒だと云ふので、私は車を断つて歩いて綾部迄行つた。
 裏町のたつた六畳の間にお婆さんが居りまして、其処へ行つた所が、「能くお出で下すつた、私を調べて欲しい」と云ふ。「私は実は神憑りで艮の金神やと云ふが、私には判らぬ、一つ調べて下さい」と云ふ。
 私が鎮魂をしたらぎゆつと(ちやんと真似をしながら)飛び上つてびくびくした。こんな神憑は見たことがない、永沢先生に訊ねないと判らぬと思つて居た。
 其処に金光教会の足立正信と云ふ者が居つた。是が「祈祷してお婆さんを援助して居るのに、之を取つたらならぬ」と云ふので、私を帰してしまつた。さうしたら、お婆さんが、「あ丶言つて足立さんがいやはるからもう暫らく待つて居て下さい」と云ふ。
 こう云ふことでお婆さんと別れて帰つて来ました。さうして、八木の福島に、「行つて来た、あれはいらい神さんで、又恐い神さんや」と言ふたら、「それはおおきに」と言つて、車に乗せて、私を大林と云ふところまで送つて呉れた。
●歴史 王仁三郎が大本へ行くまでの大本の状況
問 それは……。
答 それから其の翌年に又行つた。
問 それぢや訊ねるが、此の大本だね、今さつき大本と云つたあの大本の発端ですね。
 大本と云ふのはどう云ふ発端か、又翌年二度目に直のところに行く迄に於ける大本の中の状況を述べて見なさい。
答 是は余り心得て……。
問 直がどう云ふ状態でどう云ふことを基本として居つたか、判つて居るだけ──。
答 あの人も元は金光教の信者だつたのや。
 さうして居つたところが、遽に艮の金神と云ふて呶鳴り出した。
問 それは聴いたことだね。
答 さうです、呶鳴り出しました。
 さうしたら艮の金神……。
問 何年です。
答 二十五年やと思ひます。
 其の時に、「是から艮の金神が神さんの御許しを得て、さうして地上の神界を輝して居る。それで総ての神様の世界を輝して貰ふことになるのだ。是から日本は、今までは小さい国やつたけれども、今度は三千世界の梅の花で、日清戦争も起り、「ロシヤ」との戦争も起り、結局日本のものに世界がなるのだ」と云ふことを仰しやつた。
 「是は気違ひや」と云ふので、牢に入れられた。さうしたところが、其の後、暮に火事があつた。処が、直が、「神の悪口を言ふから、儂が焼いたのだぞ」と言ふて、牢の中から言つた。「俺が焼いたのだぞ。儂の神が焼いたのだ」と言ふ。さうして又警察へ連れて行きました。さうして牢の中へ入れたら、呶鳴つて仕様がないので、又帰して座敷牢へ入れて居ると、又呶鳴つて仕様がない。
 さうすると、娘の婿の大槻鹿蔵と云ふ者が出て来て、「お婆さん印形を捺しなさい。さうしたら出して上げる」と云ふので、お婆さんは仕様がないから捺した。
 さうしたら十五日の日に出して呉れた。さうしたら家も何も取られてしまつて何もない、あらへん。
 家も何もなくなつてしまつたものだからすみは他所へ奉公に行つた。教祖は教祖で糸引に歩いて居つた。さうして信仰して居つた。
 それから二十七年頃であつたと思ひますが、其の時分に京都市の島原の金光教会をして居る杉田政則と云ふ人が来て、自分の弟子の奥村定吉郎と云ふ者を寄越した。
 直をたねにして金光教を開けと云ふことになつて、奥村定吉郎が出て来て家を借りて、力を合してやつて居つたが、直は艮の金神を祭り、奥村は金光教を祭つて祈祷して居た。是ではうまく行かなくて、お婆さんが家を出てしまつた。さうして外で始めた。
 すると信者がお婆さんの方へ行つて奥村の方へは信者がちつとも行かなくなつた。
 其の後杉田先生が、「足立お前行つて来い」と云ふので、足立が行つたが、又お直さんと馬が合はぬものですから、お直さんは出てしまつて、裏町の大畳の蔵を借つて居つた。
 信者は皆おばさんのところへ行つて足立さんのところへ行かぬから、食へないから、足立さんはしまつて帰つてしまつた。
 其処へ私が行つたから足立さんが怒つて、自分を放り出した、と云ふことになつたのであります。
問 それから足立と手を切つたのは何時か。
答 それはね……
問 三十年に手を切つたのでせう。
答 なんですか。
問 足立と直が……。
答 何んだかさうだつしやろ、三十年かも知れまへぬ。私が行つたのは三十一年でしたから、けれども本当に行つたのは三十二年か三十三年頃です。
問 大体それだけ切りか、それ以外には判らぬか。
答 其の位のことで、それは却つて私よりおすみの方が能く知つて居ります。古い信者は死んて居りやしまへぬから……。
●歴史 大本の発端
問 大本と云ふのは一体、どう云ふところから出て来たのだ。
答 それは、元は金神の大本やと教祖が書いたのが元です。
問 金神……艮の金神の大本と云ふ意味か。
答 さうです、それから金神の大本とか、世界の大本と云ひましたり、色々言うて居つたが。
問 大本だけになつたのは、王仁三郎が関係してからか。
答 唯金神を除けて大本としたのはさうですね、……大分後ですわ。
問 王仁三郎が関係したのか。
答 単に皇道大本やとか、大本と云ふたりしたのは、それは大本……大本と云ふものはお直さんが言うて居つたのは金神の大本でしたが。もう一つ……。
問 それは後で訊きませう。
 さうすると三十年頃に金光教の足立の援助を断つた時に、何か集合的の、団体的のさう云ふものが出来たのでして、大本と云ふ……。
答 それは三十年に切[行]つた時は、唯お直さん一人で、大本、大本と言ふて居つたのです。それで近在の信者が五、六十軒あつたのです。それが大本々々と勝手に言うて居つたのや。看板もなければ何もなし、唯金神の大本々々と言つて居つた。
問 宗教の団体と云ふやうな、類似の団体と云ふやうな所迄行かぬのか。
答 まだ行つて居らぬのです。
問 行つて居らぬか。
答 さうです。
問 其の時は大本の方には、何か教義とか云ふやうな、さう云ふものはないのか。
答 何もありまへぬ。筆先のみでした。
問 筆先はあつたのだな。
答 さうです、それはあつたのです。
問 筆先と云ふものだけがあつて、別に纒つた大本の教義と云ふやうなものはなく、病気を直すとか、禁厭をするとか、云ふだけのものだつたのだな。
答 斯う云ふことがあるのです。神さんの言葉として、私は艮の金神として、今迄は艮に押込められて居つたが、天の御三体の神様の御許しを得て再び神界へ出して貰ふことになつたのだから、是からは艮は決して何をしようが差支ないと云ふことを始終教へて居つた。又皆それを信じて居つた、此の神を信じて居つたから。
問 さう云ふこともあつたと、それから宗教類似の団体と云ふものが。
●歴史 金明会
答 明治三十二年の七月に再び出口ナカの頼みに依つて艮の金神を拡めることになつて、宣伝機関として金明会と云ふものを組織した。
 其の会長に自分がなつて出口ナカを教主と云ふことにして、之を補佐して宗教類似の団体を組織して病気を癒すとか、或は祈祷、禁厭等を為して居つた。
 静岡の先生から許可を戴きまして、金明会と云ふものを組織した。詰りそれ迄の直の神憑りの状態を静岡の先生に斯う云ふ神憑りの状態ですと云ふて話をして居つて、若し御調になつて宜かつたらどうぞ許可して下さいと頼んで置いた。
 さうして綾部、七月に綾部へ行きまして、中村やとか、足立と云ふ人が反対して仕様がないから電報を打つて、早く永沢先生から辞令を送つて貰はうと思つて、はよう許して下さいと御願した。
 すると間もなく辞令書が来た、それで足立も反対しなくなり、私も其処に居ることになつた。さうして私が会長か何かになつたのてす、はつきり覚えて居りまへぬが、書いてあるものを調べて……。
●歴史 すみとの結婚
問 其の時から宗教類似の形態をなして来た訳だな、それから其の後出口ナカの婿養子となつたのは。
答 はい、ちよつとなんですけれどー娘一人に婿五人と云ふやうな工合で、あつちやこつちやと云ふ状態であつたのです、私もおすみを嫌ひでもなかつた。
 綾部に──お直さんを使うて、さうして中村竹蔵と云ふのが嫁を追ひ出してしまつて、すみを何しようとして居た。それから又南部孫三郎と云ふのが……。
問 そんなものは宜いぢやないか。
答 私は静岡へ行く積りだつた。
 静岡の永沢先生の妹はんにひさ子と云ふのがあつた。お婆さんが、「之の婿になつて呉れ」と云やはりましたから、行く積りだつた。
 処が教祖の筆先に、「出口すみの婿は王仁三郎と」書いた。私やと云ふことを書いた。上田殿がと書いた。すみは上田殿と書いた。すみの婿ぞよと書いた。それで筆先に出て居るのだから静岡へ行くことが出来ないと云ふことになつた。
 私も余りすみを嫌ひでなかつたものだから、ずるくべつたりに入つてしまひまして、さうして翌年の三十二年の一月に結婚式をしたのです。神前結婚をしたのです。
 さうした所が、私は兄貴ですから養子に入れない。私は長男ですから、それだから子が出来ましても出口と云はずに上田──自分は上田でしたから、上田あさの、上田王仁三郎でしたから、ナカが気に入らぬ。「どうしても出口にならなければいかぬ」と言ひ、どうしてもならうと思つてもなれまへぬが、弁護士や色々の人を頼んで置きました。
 さうしたら、「あんたが婚姻に依つて子迄出来て居るのだから廃嫡が出来る」と言うて呉れて、婚姻に依つて出口家に入ると云ふことになつて、明治四十二年頃に出口王仁三郎になつた。
 其の証拠には明治四十年に建勲神社主典に任ぜられた時は、上田王仁三郎でした。
問 明治三十三年十一月に婿養子になり、四十四年一月にすみとの結婚届出を出して居るやうだね、明治四十四年一月にすみは結婚届出をして居るね。
答 さうだらうと思ひます。
問 それからね、四十四年の十二月にナカが隠居して出口家の戸主になつたと云ふぢやないか。
答 さうでせう、さう云ふやうに思ひます。間違ひはありませぬ。
問 結婚した顛末を今訊いたのだが、被告人は金明会を金明霊学会と名前を改称し、大本とした、大本の本部を京都府何鹿郡の綾部町本宮に移したのだね。
答 さうです、其の金明霊学会と云ふものは、霊学会と金明会を一緒に言つたのです。
●歴史 言霊学、仏教、聖書
問 それから被告人は其の後言霊、古典、仏典、聖書等を研究し、明治三十九年九月には京都皇典講究所分所に入学し、明治四十年の三月に同分所を卒業して神官になりましたのか。
答 はい。
問 此の言霊学とか、或は古典はどう云ふものを研究したのですか。
答 言霊学は杉庵と云ふ人と中村と云ふ人の言霊学をやりました、杉庵の言霊学は日本書紀を説いたもの、それから今申しました中村さんのは古事記を言霊学で説いたもの。
 それから、又後に、山本と云ふ人の弟子で大石凝真素美と云ふ人があります。其の人が日本言霊学と云ふものを作つた。それは前から伝つて居つた。是は幕末から明治の初に非常に此の言霊学は勃興したものであります。
 是は古事記とか万葉集に、「言霊の天照国」と云ふことが出て居る。又、日本の古事記は総て言霊の教典であると云ふこと迄先生が言うた、言霊で解釈致しますと。古事記でも何でも判るのであります。道が判るのであります。
 それで言霊学と云ふものが……。
 それから俄に明治の西郷戦争時分から外国の文物が入つて来たものですから、言霊学と云ふものなり、国学は失なつてしまつたのです。
 其の前に矢張り、本田先生とか云ふ人や、副島種臣さんと云ふ人が言霊学を一生懸命にやつて居つた。
問 言霊学に付ては能く判りました。古事記、日本書紀、万葉集、本居宣長の著書を読んだと。
 それから──。
答 はい、それから篤胤の著書も沢山あります。
問 仏教、聖書はどんなものを。
答 仏教は大蔵経とか、或は金剛教とか色々ありますが、兎も角大蔵経などを……。
問 一人で研究したのか、師匠に付て居つたのか。
答 それは師匠もありました。
 それから又大抵は仮名の付いた訳したものばかり読んだ。それでも大抵判ります。
問 聖書は──。
答 聖書は子供の時から読んで居ります。
問 是は師匠に付いて習つた訳ぢやないな。
答 さうであります。
●歴史 京都出修
問 それから神職の試験に合格して、建勲神社の主典及御嶽教の主事となつたと云ふが、さうか。
答 御嶽教の神宮高利と云ふ人が、御嶽教を監督をして居りまして、「儂の所に主事が居らぬから、今それで内務省へ出すにも、経歴のない者を出す訳にいかぬから、あんた来て呉れ」と云ふから、私は御嶽教へ行つた。
 それで月給も倍も呉れると云ふのでしたが、口で言ふばかりでちつとも呉れなかつたのですが、私は仕様がないからあちらで三年程勤めて居つた。さうして、其の間に、宗教界の情勢を調べて居つたのです。
問 何年程掛つたか、三年程か。
答 三年間──本当の年数はまる一年で、十二月から行きまして翌々年の四月頃に帰つて来ました、まる一年以上ですかね。
●歴史 大日本修斎会と直霊軍・敷島新報
問 それから明治四十一年の八月に金明霊学会を大日本修斎会と改称して、機関紙直霊軍を発行し、次いで同敷島新報を発行しましたか。
答 次に今何でしたやろ。
問 四十一年の八月に金明霊学会と云ふものを……。
答 判りました、もう判りました。それで金明霊学会に役員があつた、修斎と云ふのです、一等修斎とか、二等修斎とか言ふのです。それ等が集つて修斎会をやつた、それから段々とさう云ふ工合に変つて来た。
問 それから直霊軍、敷島新報は、何時から何時迄発行して居りましたか。
答 直霊軍は十五号迄で、終ひやと思ひましたが。
問 四十二年の二月から四十三年の十二月迄。
答 其の間毎月ぢやないのです。
問 敷島新報は大正三年頃から五年十二月頃?
答 あ丶、さうです。
問 直霊軍、敷島新報の発行の目的は、どう云ふ点に、あるのか。
答 私は御嶽教に居りました時に、御嶽教で矢張り機関紙を出して居た。それで直霊の霊、直霊の霊と云ふことは極く良い魂であります。
問 発行の目的はどう云ふ点にありますか。
答 それは教を拡げる為めに……。
問 大本の?
答 所謂日本の道を──古事記、日本書紀、にあるのを綜合して、其の精神をこめて、又教祖の言ふて居る教も一緒くたにやつたのです。教祖の教を拡げる為めに、又、日本の教もそれを知らすと云ふ意味やつたのです。
問 出口ナカの筆先は是等の機関紙に掲載したやうなことはなかつたか。
答 それはありまへぬ、其の機関紙にはないと思ひます。
問 ないと思ふか。
答 はい、あるかも知れませぬけれども、余りはつきり覚えて居りませぬ。
問 敷島新報には。
答 それにはなかつたと思ひます。
問 是かね。
(此の時証拠を示す)
答 はい、覚えて居りませぬ、筆先は発表しなかつたと思ひます。大正六年迄はそれは出して居らぬと思うて居ります、私はさう思うて居ります。
問 確たることは判らぬか。
答 どつちかと云ふたら出して居らぬと云ふ方が本当だらうと思ひます。
●歴史 皇道大本と神霊界
問 大正五年の四月二十二日に、大本を皇道大本と改称して、同六年一月から機関紙神霊界を発行した。
 二月には皇道大本教主となつて、ナカを教祖又は開祖と称することになつた。
 是は此の通りか。
答 はい。
問 此の神霊界と云ふ機関紙を発行するに至りたる事情、並に、其の目的はどう云ふ点にあつたのか。
答 それはね、それ迄は、敷島新報ですが、それをやつて居りました。
 それから十二月に、詰り浅野さんの奥さんが私を迎へに来たのであります、浅野和三郎の──八木の軍中佐の福島と云ふ者が横須賀の浅野さんの所で大本のことを話した。それで出て来た。私が居らぬので、家のおすみと話して帰つた。それから今度奥さんが来て、浅野さんが「先生を呼んで来い」と云ふので私は初めて奥さんに連れられて行きました。
 さうして、十一月から十二月迄浅野の処に泊つて居つた。
 さうして、それからそこで大本のことを浅野はんが、日蓮宗の「人文」と云ふ雑誌に二回程大本のことを載せた。さうして、是は大分に反響があつたから、是は大本でも一つ雑誌を拵へよう、斯う云ふことになつた。
 十二月に帰りまして準備して置きまして、六年の一月から初号を発行した。
問 其の目的は。
答 目的は前のと同じです、布教の目的です。
問 布教と云ふと大本の宣伝か。
答さうです、布教も宣伝も同じです、宣伝は動作で、布教は教で、ちよつと違うが同じやうなものです。
●歴史 第一次事件時の大本の発展状況
問 大本を宣伝して行つたと。
 それから、大正十年、大正十年の十二月に、被告人等に対して、不敬並に新聞紙法違反に依つて、検挙があつた頃迄に於ける皇道大本の発展の状況はどうだつたかな。
 神霊界を発行する。
答 神霊界を発行致しまして、さうして、約一年と云ふものは、経費も月の初めは五百円位出して居りました、終ひには七百円出しても、金は月に十円位しか入つて来なかつた。
 一年程すると、金を信者から送つて来るやうになりました、それから、雑誌が発行出来るやうになつた。其の時には、もう二千余り刷つて居りました。
 それから七年頃には三千程になつた、雑誌が殖えると共に、信者が殖えて来た。
 さうして、浅野さんが金竜殿と云ふ所で、鎮魂と帰神を受持つて居つた。私は金がなくて仕様がないから、あつちやこつちやに金を借りに行き、そんなことばかりに年程して居た。
問 神霊界の発行の状況を訊いたのだが、尚又天の巻、火之巻を此の間に使つて居つたのぢやないか。
答 それはね、私は編輯部の連中やら皆寄つてる所に、私も顔を出しましたけれども、神霊界と云ふものは実際に、此の前に私が出したと云ひましたけれども、多勢の人が引つ張られた時に、「面倒臭いから、皆私が引受けてしまつたらよい」と思つて、引受けてやりましたが、其の時分には浅野氏が出して居つた。帝大の学生なども連れて来てやつて居たし、編輯には吉田与一、神戸の桑原、さう云ふ人がやつて居た。
 さうして、火之巻は知らぬ間に浅野正恭さんが出した。其の時に小牧斧助と云ふ陸軍の大佐が居ります。其の人が会長で、浅野正恭の顧問みたいになつて居つた、さうして、小牧さんがそれを持つて来ました。さうしたら、之に妙な歌がある、例へば……。
問 内容は宜いぢやないか。
 十年迄の間に。
答 許可になつた、神霊界に出て居るものは、出しても宜い、さう云ふ事情でございました。
問 八年の十一月に火之巻を発行するやうになつたのだね。是も筆先の……。
答 さうです、併し火之巻は発禁になつた。
問 其の時には発禁になつて居らなかつた。
 それで斯う云ふやうに宣伝をやり、信者も一万人位になり、又支部も百二十箇所位になつたのでせう。
答 さうです、十年事件の起つた時に、百二十位であつたのが、帰つて見たら、百五十に殖えて居りました。
 それを云ひましたけれども、高橋さんが聴きませぬでした。た。
問 それから建築などもやるやうになつたのぢやないか。
答 え?
問 建築物を……。
答 能く覚えて居りませぬが、初めはバラツク建の──。
問 予審の六回に於て述べて居りますね。教主殿を八年の九月に建て、又十一月に黄金閣を建て、それから九年の二月に弥勒殿を建て、それから同年の旧八月に、至誠殿を建て、それから八年の末頃には、亀岡の城趾を買収し、瑞祥閣を十年二月に建築して、又大正日々新聞を買収して、機関として居る、斯うなつて居るが、さうですか。
答 はい。
●歴史 神霊界と筆先
問 それから次は、此の神霊界には、出口直事ナカの筆先を掲載して居つたのですね。
答 それはね、沢山ありまして、もつとあつたのを、重ねて書いてあるのは、編輯部のものが先から先へと延ばして書いて居た。
 其の時分には丁度金借ばかりに歩いて居りましたから、滅多に私は家に居りませぬからー自分で出しましたけれども、能く……。
問 勿論、此の神霊界に掲載せられたる、所謂筆先と云ふものは、全然出口ナカの書いたものを、それを出したのですね。
答 さうです、後には私の書いたのもあるが、予審でも私が神憑りで云ふたことだと云ひましたら、嘘付けと叱られました。
問 それは神憑りの状態か、神憑りの状態は後で訊きます。
 教祖ナカの書いたものを、出して居つたのですね。
答 それは殖やすことはせずして、減して連絡をして行きました。下手に連絡したものもあり、非常に上手にやつたのもある。筆先を見ると、良く出来て居るのもある。
問 此のナカの書いた所の筆先と云ふものは、如何なる文字で書いてあるか。
答 平仮名です。
問 其の筆先は断片的のものであつて、意味が不明瞭のやうなことはなかつたか。
答 断片的であつて、意味の点は、唯それだけを読んだら判らぬ。
 ずつと皆読んで見ますと、飛ばして行かぬやうに読みますと直ぐと判る。
 同じことを書いたのも沢山あります、二十枚綴、四十枚綴、六十枚綴、八十枚綴と云ふやうなのがあるのです。
(此の時筆先を示す)
答 断片的なんです。
問 さうか。
答 それは御神体になつて居る、神様に祀つてある筆先です。
問 併し、筆先でせう。
答 エ、是は神体として祀つて居つたものです。
問 筆先は斯う云ふ書き振りだね。
答 さうです、皆其の神さんの御神体にして居つたのです。
(又別の筆先を示す)
問 是もさうか。
答 さうです。
問 斯う云ふやうに、断片的に書いて居つたのですね。
答 同じ筆先ですけれども、御神体は断片的で、教典の筆先とは違ふ。
問 教典としての筆先とは違ふのですね、それは唯一枚としてか。
答 二十枚綴、四十枚綴、六十枚綴、と云ふものが続いて居つて、中の文句が切れて居ると云ふのです。
(此の時別の筆先を示す)
問 是は──。
答 それも御神体です。
問 それでね、筆先なるものは出口ナカが、被告人王仁三郎や他所の人が云ふことをきいて、それを覚えて居つて書いたやうな事情はないですか。
答 それは神憑りの基礎と致しまして、間接外流、直接外流、直接内流、間接内流と云ふものがある。
 或時に人に聴いたのが先入主になつて居つて、それが一緒くたに出ることがある、それは詰り間接外流です。詰り一旦消化してしまつて、頭に入つてしまつて、消化されて出て来て居る。それを間接外流。
 又直接外流と云ふ方法もあるのです。
 それで此の神憑りの道をするのにも、永沢先生や本田先生が仰しやるのには、「神書を始終詳読して、神徳を覚えて置かなければならぬ、どうしてもさうでないと縁がないから、神様は憑いて来ないと」仰しやる。
 総て縁がなければ、筆先でも何も出て来ない。
問 予審調書に、斯う云ふことが書いてあるがね。
 第四回の五問答に於ては、直が信者の話して居ることを、聞いて居つたことや、「私が話して居ることを聴くと、直ぐそれを紙に書付けて筆先にする癖がある、それで」……。
答 ……それは。
問 ちよつと待て──「大正二年頃迄は、私の考へて居ることに都合の好い筆先を書いて貰はうと思うたならば、執拗に斯う云ふことがあると云ふて、事実を話して、ヒントを与へると、開祖は其の私の話した一部分を断片的に書くやうになつて居りました」、と斯うあるね?
答 それは異議ありませぬ、それは高橋さんが、さう云ふやうに書いたのです。
 予審もそれに違ひないかと仰しやつたから、へいへいと云つて、争つても仕様がないから、公判で云うたら宜いと思つて居つたのですけれども、矢張り是は間接外流だと思ひます。
 本当の筆先は、私の悪口ばかり云つてる。
 「上田やとか云ふ奴は斯う云ふものだ、素盞嗚尊の悪神が付いて居る」とか、悪口を書いて居る。私が云ふたかと云つて、それを書くやうな人ぢやない、なかなかそんな恰好な婆さんではありませぬ。
問 直の筆先として発表になつて居るものを見ますと、立派な文章体になつて居るやうだな。是は断片的では其の意味が明瞭でないと云ふものを、王仁三郎に於て、自分の考も加へて漢字交りの文章にしたやうなことはないのですか。
答 私の考はありませぬ、私は唯神様の書いて……。
問 私の訊ねたことが判りますか。
答 私の心が入つて居るのぢやないかと、仰しやりましたのやろ。
問 此の文章は漢字交りの立派なものになつて居るが、それには……。
答 判りました。
 それはね、私に霊感があつて、神が直して呉れたのです。神様の書いたことは、神様でなければいけない、罰が当る。神憑りになつて、神様が直して呉れる。直の手を通じ、口を借りて書いて居るが、判らない所は出口王仁三郎の手を借る。
 だからナカの精神は、ちよつとも違うて居らへんのです、詰り云へば、鯣を鳥賊と云うた位の違ひです。
問 此の点に関し、第四回の五問答の終りの方で、斯う云ふことが予審調書に書いてあるが、それはちよつと重要な点で、触れて置きたいと思ふが、筆先は文句は断片的で、意味が不明瞭である、それで王仁三郎自身が自分の考を加へて、意味の判るやうな文章に書直して、漢字交りの文にして、意味の判るやうな文章にして、それを神諭として、神霊界に掲載して発行した。「神霊界に掲載してある神諭の原稿は、私が書いたものであります。」
答ちよつと……。
問 まあ御聴きなさい。全部聴いてから──「之を譬へて云へば、開祖は金米糖の芯だけを拵へて置き、其の芯に砂糖を付けて、火に掛けて交ぜて、段々大きくして、立派な金米糖に仕上げたやうなものだと」云ふことを、書いてあるね。
答 其の事を云ふたのぢやない。
 詰り教祖と云ふ本があつて。……金米糖と云ふものは、角が沢山生へて居るけれども、決して恐いものではない。ねぶつて見ると甘いものである、味の美い物である、それだからして立派な教を、之を拵へるやうにしたのです──と云ふことを云ふたのです。
問 此所に書いて居ることは、自分の考が加つて居るやうになつて居るが、自分の考も加つて居るやうに書いてあるが……。
答 ……どう云ふことを。
問 断片的で意味が判らぬから、自分の考を加へて判るやうに組立てたと云ふ……。
答 そんな妙なことを云やはる訳がない。「あの婆さんが、そんなことを云ふものか」と、私は高橋さんに申しましたよ。
 学者と智慧者とは違ひます。学問と智慧は別だ。賢い人は多勢の人を使ふのに智慧で使ふ、お直さんは無学者であつても、智慧はあるのです。矢張り賢いことも云ひます。弥勒と云ふやうなことも神さんから聴き、筆先に書いた。
 それを皆私が、書いたやうにされてしまつた。それだから私は仕方がないから、さうして置いたのです。仕様がありまへぬもの。
問 さうだとは云はんぞ。
 弁解を訊かなければならぬから、訊いて居るので、さうだと断定するのぢやない。
答 へ、それは予審の……。
問 さうだと云ふのぢやない。さう云ふ書方に居るから、弁解を訊くのだ。
答 はい。
問 それからね、出口ナカの書いた、筆先と云ふものは、神示又は神諭であるのですか。
答 神諭であります。
 神様が直の手を借りて、口を借りて、さうして神様が……金米糖と云ふものはー一つ教祖と云ふものがぽつんとあつて、其処へ向けて色々の教を集めて、金米糖になつたと云ふ位にです。
問 さうすると矢張り神諭か。
答 神諭や其の他総てのものが……言霊学も入り、言霊学も一つのぼちぼちです。一つの大本団体と云ふものが──甘い綺麗な物が出来たと云ふことを、判るやうに金米糖と云つたのです。
問 五回の四問答に斯う云ふことを書いてあるのですがね、宜いかい。
 「直自身が神憑りにはなつて居るものとは思へぬ。自分は、直は神憑りになつて居らぬと思ふと云ふやうに思ふ」が──。
答 へ、それは誰が云うたのですか。
●歴史 裏の神諭
問 ちよつと待て、それで筆先と云ふものは、神示とか神諭と云ふことになつて居るが、さう云ふものはないのだ、と云ふやうに書いてあるが。
答 それは向ふで勝手に書いたのですがな。
 さう云ふことは知りまへぬ。勝手に書かれましたので、仕方がありませぬ。私は信じ切つて居ります。
問 それから、出口ナカと云ふものの精神には、異常はなかつたのですか。
答 私はなかつたと思ひます。
 或る人は気違ひくと云ひますけれども、「世間の人達がそれは違うて居るのだ、一種の体主霊従の「吾れよし」の人とは違ふ。人を助けたいと云ふ気違ひである。」斯う云ふことを始終お婆さんが言うて居りました。
 「私は気違ひやと云ふけれども、それは一般の人達が違うて居るのや。儂から云へば、世間の一般の人は気違ひや」と云ふやうに云つて居りました。
 婆さんは別に精神異状と云ふやうなことは、なかつたやうに思ひます。
問 普通の人とは変つたやうなことはなかつたか。
答 それは変つて居りますとも──。
問 どう云ふやうに。
答 すべて変つて居ります。行ひから一切の事が変つて居ります。
 詰り云うたら、喰べる物でも普通のものは喰はず、赤葉とか、腐つたものでも勿体ない勿体ないと云つて喰べた。
 それから、一切魚物は食ひませぬ、私も魚物は嫌ひです。 それから、肉食は嫌ひです。又正直なこと、堅いことは此の上ない人でした。それで、又怒つたら其の代り恐い人です。鬼みたいになつてしまひます、又優しいときはねぶり付きたい程可愛い顔をする。問 さう云ふ点が変つて居つたと云ふのだね。
 よし、其の次に訊ねます、裏神諭と称して、神霊界に掲載して居つたものは、被告人の書いたものか。
答 裏神諭と云ふのは、私が神憑りで皆書いたのです。
問 王仁三郎が書いたものでせう、裏神諭は──。
答 裏神諭、それはさうです、私が書いたのです。私に直接に憑つたものを裏神諭と云ふのです。皆がそれを裏神諭裏神諭と云ふことを、云ひ出した。
問 教主ナカの存命中は裏神諭として、神霊界に掲載して居つたし、又直が死亡後に於ては、単に神諭として、神霊界に掲載したものであつて、裏神諭と称して単行本になつて居るのと、それから、王仁文庫の第六篇多満の礎、それから、同じく第九篇道の大本、それから、玉の柱第一篇、道能栞とか等に掲載したのか。
答 はあ、さう云ふのは──教祖の筆先と、私の裏神諭と違ひます、文章から云ふても、中味から云うても違ひます。読んでも判ります。違ひまつしやろ。
問 裏神諭と云ふのは、神諭ですか。
答 私は知つとつても、そんな勿体ないことを書きまへぬ、知つて居つても書きまへぬ。霊界物語でも神憑りで書いて居る。
 頭が大分おかしいやうだが、どうか五分間休まして戴きたい……。
裁判長 五分ぢやなく、休憩しませう。
 さうすると、此の点に付て、ちよつと。是で終りにするから。
 神諭と云ふ……裏神諭は神諭ぢやないと云ふことを、第五回の六問答で、予審調書で……。
答 私が神諭ぢやないと云はなければ仕様がない。
問 ナカとか、被告人は神憑り状態になるのですか。
答 なるのです。二人共なるのです。
問 ナカの方はどう云ふやうになる。
答 ナカの方は斯うして、(と手真似をしながら)まるで百二百になつたやうな、お爺さんのやうな声になつて仰つしやるのです。
問 其の時筆先を書くのか。
答 其の時には書きまへぬ。何時書くか判らぬ。昼書いたり、夜書いたり、霊のかかつた時に書く。又霊のかかるのが口と手とでは違ふ。
問 王仁三郎はどうです。
答 私は、始まりは嬉しいが、落着かぬ。
 穴太に居つた時分には、ちよつと人から見たら、気違ひぢやないかと、随分云はれました。自分でも気違ひぢやないかと思ふ程、ぢつとして居つても飛び上り、声が喉から催す。
 それで永沢先生の所に行き、鎮魂をして貰うた。
 私の体には、小松林命の精霊が何時も入つて居ります。其の精霊を通さぬことには、間接内流も、直接内流も出来ない。其の精霊を通して見ると、霊界の消息も、幾分か判るのであります。
問 能く判りました。それで此の予審の第九回の方の所に、之に反する記載があるやうだが。
答 自分は三十一年頃は……。
問 ちよつと待て、此所に書いてあることを訊いて居るのですよ。
 書いてあることは、「他所の人から頼まれて、坐つて拝む。さうして、体が慄へ出して来る。さうして死人の臭がするやうな気がすると、病気が癒るか、癒らぬかと云ふことが判る。それはそれで、それから神憑の状態に付ては、人間に神が憑つたと云ふて、色々なことを喋りますけれども、其の喋ること等は、其の人が是迄にきいて居つたことを自由に喋るので、其の人の智識以上には言へぬものである。神憑りと云ふことは、結局其の神憑りになつたと思ふ人の人格作用で、さうなつたに過ぎないと思ひます。私の考では、神の霊が人間に憑ると云ふことはないと思つて居る。」
 さう供述して居りますが、是はどうだ。
答 それは皆予審判事さんが、「さうぢやらう、さうぢやらうと云つて、御書きになつたのです。」
 私はそんなことを云ひさうなことはない。
問 さうだらうね。
答 ええ、第一に和気清麻呂の神勅でさへ、疑ふやうな人ですから……。
問 それから、裏神諭と云ふのは是だね。
(此の時裏神諭を示す)
答 さうです。
裁判長 それでは全部起つて──。
(総員起立)
午前は是だけにして置きます、午後は一時から続行致します。
午前十一時五十七分休憩
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