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文献名1大本史料集成 3 >第2部 第二次事件関係
文献名2第2章 裁判所資料 >第2節 地裁公判速記録(出口王仁三郎)
文献名3地裁公判速記録(10)
著者
概要
備考
タグ データ凡例長いので12ページに分割した。行頭●記号で始まる小見出しは底本にはない(うろーの狭依彦氏作成)。 データ最終更新日----
OBC B195503c220210
本文の文字数13302
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本文 ●争点 神聖会は国民精神総動員
午前十時三十分開廷
裁判長 辛棒出来るか。
出口 倒れる迄行きます。
問 さう云ふことでは困る。
 悪かつたらなんとかしますから、腰を掛けて……。
答 立ちまへぬと、耳がちよつと具合が悪いものですから、十年から──こつちへ来てから耳掻を使はして貰へぬものだから、斯うせぬと(身体を前に延しながら)聴へまへぬ。聴えにくいことがあるのです。
問 訊かなければなりませぬけれども、斯う云ふことは準備で認めて居つた点だから略しても宜いかも知れないが、又弁解でもあれば訊かうと思ふから、念の為に訊くのですがね。
答 それから、あの、神聖会のことで、なんで神聖会を起したかと云ふことに付て高橋さんが、「是は団体を作つて東京へ押寄せて行つて、陛下に譲位を迫るのやらう、さうでなかつたら武力を以てやるのやらう」なんとか云ふやうなことを言うて、非常に無茶なことばかり言ふので、「違ひます」と言うたらどづかれましたし、もうしやうがないから向ふの書かはる通り一一黙つて居つたのです。
 それが、矢張り、予審迄ずつと同じやうに響いて居りますけれども……。
問 予審ではそんなことは出て居りませぬ。
答 出て居りませぬか。私はそれで終ひ迄……。
問 書いとりませぬ。さう思つて居りませぬ。
 それはまあ宜しい。
答 初めにさう云ふことを言はれて、私はびつくりしてしまひました。
 是は……。
問 宜し。
 昭和神聖会に付て訊いて置くがね、「武力を以てなんとか云ふことは思つて居らぬが、昭和神聖会に於て、若しも千万人の賛同者が出来るやうになれば一つの与論と云ふものが出て来て、大本の目的を達する為には大変都合好いやうになる」と云ふやうな考は、有つて居らなかつたのか。
答 それは、一つの与論が出来て来たならば、さうしたら与論に依つて、此の日本の本当の皇道を発揮して、さうして本当の天祖の教へ給うた国体=政体が実現すると云ふやうなことは思うて居りました。
問 目的は訊いて居りますがね。
答 併し、大本がさうやからと言うて、それだけの人に依つて、政治家にならう、と云ふやうなことは思つて居りまへぬ。
 政治家になるならば、私は代議士には何時でもなれると云ふことを、何辺も人から奨められたり、固つて一所に信者の団体があるのですから、何時でもなれるのです。
 さうやから、それは日本の正しい国論を国民一般に知らしめてやると云ふ点は、詰り、今日の国民総動員のやうなことになるのが目的になつて居つたのです。国民精神総動員のやうな意味に考へて居つたのです。
●歴史 決定機関で会議にかけて実行したこと
問 それで、今度は……
 まあ、神聖会のことはそれで打切ります、最高幹部会と総務会議に掛けて実行に移した具体的の事実はだね、斯う云ふ事実とくがあつたのぢやないか、と云ふことを東尾が詳しく述べて居る。
 それを、今大体要旨を訊きますから、それに付て認否をして貰ひたい。
答 東尾が詳しく言うて居りますか。あの人の方が私より詳しいのです。
問 詳しく述べて居るがね、弁解があれば訊かなくちやならぬが。
 宜いかね。腰を掛けて居つて宜しい。
答 ちよつと聴えぬのです、腰を掛けると──。
問 あゝさうか。
 東尾の第二十回の四問答です。
 「昭和三年八月二十四日教主殿に於て総務会議を開き、伊佐男、井上、四方、高木、湯川、湯浅、出口慶太郎、東尾、是等の人が出席して天声社々長等の選定に付協議し、第一天声社長を岩田、社長補を瓜生、第二天声社長を御田村、同社長補を吉原常三郎と決定しました。是は、当時、北海道に旅行中の王仁三郎から天声社長を推薦せよ、との通知があつた為であります。」
答 それは間違ひありまへぬ。
●歴史 更始会(2)
問 それから、「昭和四年五月二十四日、教主殿に、伊佐男、高木、岩田、四方、湯川、湯浅慶太郎、桜井同吉、栗原七蔵、東尾が出席して、更始会の組織確立に付ての総務会議を開き、協議の結果更始会規約を議決し、且つそれ迄に王仁三郎から宇宙徽章を貰つて居る者を取調べて、其の者を更始会員とし、今後の入会者からは入会金一円宛を納付せしめて宇宙徽章を渡し、各会員は毎月応分の金を更始会に納付し、更始会に集つた金は大本本部の費用に充てる事と決めました。」
 「宇宙黴章は大正十三年に王仁三郎が蒙古入をする以前に渡しましたが、更始会は有名無実で其の組織は出来て居なかつたので、王仁三郎が伊佐男に更始会の組織を確立せよ、との命令があつたので、其の結果右総務会議を開き更始会の組織を確立したのであります。更始会の会長には伊佐男がなつて、会員は順次増加し、最後には一万二千人位となり、会員からの醵金は、一箇月約千円位になりましたと。それは宜しと、それから昭和四年の七月二十四日教主殿に、伊佐男、井上、高木、四方、岩田、湯川、慶太郎及東尾が出席して、伊佐男の提議に依り大本瑞祥会の亀岡移転に付て総務会議を開き、協議の結果大本瑞祥会を亀岡に移し、同年八月十六日王仁三郎の生誕祭を期し名実共に亀岡を大本の宣伝活動の中心地とする事と決定し、其の頃議定通り実行しました。是は大正十四年以来王仁三郎は主として亀岡に居り、且亀岡の諸設備が整つたのと、宣伝活動の中心地が綾部と亀岡の双方に在つては統制も取れず不便である為、活動中心地を亀岡に移したのであります」と。
●歴史 新聞買収
 宜しいか、それから、「昭和四年の十一月頃教主殿に伊佐男、高木、岩田、東尾が会合して最高幹部会を開き、北国夕刊新聞を買収して大本に於て経営することを協議決定し、伊佐男と岩田とが買収の衝に当つて、其の頃同新聞を買収して大本に於て経営し、其の後同新聞には霊界物語中小説のやうな箇所を連載したことがあります。同新聞の経営は、王仁三郎が其の以前から大本の言論機関がなければならぬと言うて居つたので、買収して経営することにしたのであります」と、是も宜いか。
 それから、「昭和五年七月に教主殿に伊佐男、井上、高木、東尾が集つて同会議を開き協議の結果、大本の発展を図る為には大本の東京進出が必要であるから、其の前提として先づ大本の外廓団体である人類愛善会東洋本部を東京市へ進出せしめ、同時に人類愛善新聞社を東京市に移し、同新聞社は東京市に於て発行することゝ決めました。右会議には御田村及岩田は参加しませぬでしたが、それは両人は既に亀岡に於て、両人及伊佐男間に於て、右事項の協議済であつたからであります。此の東京進出は其の頃直ちに実行しました。それから、矢張り、昭和六年二月教主殿に伊佐男、井上、高木、東尾が会合して最高幹部会を開き、協議の末、開教四十周年記念事業として信者を五倍に、分所支部を三千に増加せしむる為、梅花運動を起し、其の第一期として一箇年間に支部の数を千五百個所とすること、其の事は、同年二月の節分祭に各信者に指令して之が実現を図ることと決定し、実行に移しました。其の結果、分所支部は千九百八十七個所となり、信者は当時の倍足らずになりました」と、宜しいか。
 それから、「昭和六年の十一月に矢張り同所に於て伊佐男、高木、岩田、東尾が集つて最高幹部会を開き、人類愛善新聞百万部突破に付て協議し、信者を激励して最初は三十万を目標に順次五十万、七十万に増加せしめて、百万部に達するやう努力せしむることゝ定め、同年秋の大祭に於て其の事を信者に発表しました。其の百万突破に付ては、王仁三郎が和歌を作つたこともあり、又王仁三郎が私等幹部に、『百万を突破せねばならぬ』と話したことがありますので、右決議をした次第であります。同決議の結果、各信者は同新聞の多数配布に努力し、各地方の支部等に於ては同新聞の一部売を為し、又本部より主会、聯合会等に対し同新聞配布の責任部数を割当て、実現に努力させました。それが為、昭和九年三月には目的の百万に達しましたが、其の後、又、順次に減少し、最後には三十万足らずになりました。」
答 私もそれを訊かれて居ります。
 私の調書にも書いてありまつしやろ。
問 だけれども、此の方が詳しいから……。
答 私のは好い加減に……。
問 簡単ですからね。
答 覚えて居りまへぬから、好い加減申しました。
問 それから上州時報……丹州時報か、此の点もあるのですがね。
 「昭和七年一月綾部穹天閣に於て高木、岩田、東尾が協議の上、丹州時報を買収して大本に於て経営することになりました。是は王仁三郎が高木に、『丹州時報は地元の新聞でもあるから買収して、大本に於て経営したい』と云ふ話があつたので、右協議をするに至つたものであります、該協議の結果、高木が買収の交渉をして二万円内外で同時報を大本に買収し、伊佐男が社長となり、後には吉野光俊も同時報の記者となり、同時報には大本の大祭の記事等を掲げて居りましたが、昭和十年一月頃に王仁三郎から注意があつたので、其の後からは同時報に大本の主張、昭和青年会の主義主張等の記事を掲げて発行しました。」
答 それは、実は、丹州時報から何か金借りに来たので、到頭金貸して、さうして其の金を返して呉れぬものやからしやうがないので、こつちが只のやうになつたのです。
問 其の意味か。
答 それで、高木さんか何か知らぬが、「是は必要やから、こちらに買うて置かなければならぬ」と言うたのです。
●歴史 皇道大本と改称、出口王仁三郎全集
問 それから、「昭和八年一月、亀岡瑞声閣に伊佐男、高木、岩田、東尾が集合して最高幹部会を開き、伊佐男の提案した皇道大本の名称を使用する事、大本の組織の改革等に付協議し、近来世間に於て皇道熱が盛になつて来たから、是からは大正十年事件以来使用することを遠慮して居つた皇道大本なる名称に使用すること、是迄は瑞祥会があつて、同会と大本との関係が複雑になつて居るから、瑞祥会を廃止して大本に合流せしめ、是からは皇道大本に於て、大本に関する一切のことを統制すること。皇道大本の総本部を綾部に置き、本部を亀岡に置き、総本部に於ては祭祀と出口家の事務とを取扱ひ、其の他の大本の事は全部亀岡に於て取扱ふこと、と決定し、其の決定したる事項は王仁三郎の許可を得て、総務会議に提出し、大本信条は昔出来たままになつて居るから、信条を改正すると共に、大本規約を改正することゝし、前回御示しの大本事務便覧に掲載の信条及規約を制定し、それから、其の次は、昭和八年一月中旬頃光照殿に、伊佐男、井上、高木、岩田、栗原、有田、湯浅、西村、桜井同吉、松並高義、東尾等が集合して総務会議を開き、右皇道大本の名称使用、大本組織改革等に付協議し、最高幹部会に於ける議決の通り決定し、其の議決事項は同年二月上旬の節分祭に信者に対して発表して、其の頃議決の通り実行し、それから昭和九年一月東京の文士で大本信者の楠田敏郎が亀岡に来て、伊佐男、高木、東尾に対し、『東京の伊藤靖と云ふ者が万有社と云ふ書籍店を開業することゝなつたから、王仁三郎全集を万有社から発行させて貰ひたい、同全集を大本以外の普通の書籍店から発行して居ると云ふことは大本の宣伝上にも好都合であると思ふ故、是非発行させて呉れ』と言ひました。当時王仁三郎は伊豆の湯ケ島温泉に行つて居りましたので、同人の意見を聴くことゝ為し、楠田が伊豆に行つて王仁三郎と交渉し、王仁三郎が万有社から王仁三郎全集を発行することを承諾したので、全集発行に関する契約は東京に居る御田村に一任し愈々発行することゝなつたので、同年二、三月頃瑞声閣に於て伊佐男、高木、東尾が協議の上、元男を王仁三郎全集編纂委員長に、岩田を同編纂主任に、井上、高木、御田村、山口利隆、桜井重雄、吉野光俊、東尾を同編纂委員と定め、其の後委員等協議の上全集は合計八巻発行することとし、二巻分は霊界物語から、其の他は王仁三郎の著述した単行本全部及び王仁三郎の作つた原稿から材料を採ることゝし、王仁三郎の承認を経て、井上留五郎が其の材料を取調べて、訂正せねばならぬ所は王仁三郎の意見を聴いて訂正し、桜井重雄が主として材料を史実課より集め、私は王仁三郎の作歌中から作歌を選択して全集第七巻に掲載することゝしました……。
答 其処の所がちよつと違ひます。
 私がちよつとも訂正して居りまへぬ。其の儘を……
 先に書いてあつた通りです、訂正も何も致しまへぬ。
問 先に弁解して居つたね。
 それから、「同全集は第四巻迄は万有社より発行しましたが、同社は経営困難となつた為、昭和九年九月頃瑞声閣に於て伊佐男、高木、岩田、東尾が協議の上、第五巻以下は天声社に於て発行することとし、其の後第五巻乃至第八巻を発行しました。同全集は、第一巻は五、六千部売れ、第二巻乃至第四巻は四、五千部売れ、第五巻乃至第八巻は約三千部売れました」と、其の所で、「是は自分が取調べて委員会を作つて、訂正した時には違ふ」と斯う云ふのだね。
答 さうです、それはして居らぬと思ひます。
●歴史 宣伝使の組織
問 それから特派宣伝使の点だが、昭和九年三月瑞声閣に、伊佐男、高木、東尾が会合して最高幹部会を開き、東尾が提議して特派宣伝使の件に付き協議し、従来各地方に派遣して居つた特派宣伝使及駐在宣伝使の制度は支部長に依頼心を起させるから同制度は之を廃止し、必要に応じて宣伝使を派遣し得るやう本部に無任所宣伝使を置き、平常は大祥殿に於ける講演を受け持たせ、別に昭和青年会の指導員を選任し各地方に派遣して同青年会支部の指導及同会員の獲得運動を奨励せしむること、決定し、該決定は直ちに実行せしめ」、是も宜しいね。
答 其の通りです。
問 それから、「昭和九年春頃瑞声閣に於て伊佐男、高木、東尾の三人で最高幹部会を開き、大本の財政は臨時の支出を除きても一箇年に約二、三万円不足するので、信者中の生活に余裕のある者から一人に付約千円以上の金を預つて大本の経常費に融通し、出金者に対しては公債の利息と同額の利息を支払ひ、預り金は出金者の請求に応じ一時払ひ又は分割払ひにて弁済することを協議決定し、其の結果高木が勧誘して福岡の平川小秀から一万円預り、東尾が勧誘して亀岡の伯耆と云ふ女より一万円と、細田東洋男より五千円とを預り、其の他に信者の勧誘に依り」──是も其の通りだね。
答 それはね、私初めて予審でそんなことがあつたかと知りました位で、其の取決めがあつたことは聞いて居りまへぬ。
●歴史 映画の製作
問 それから、「昭和十年三月、亀岡の透明殿に伊佐男、貞四郎、下位春吉、大深、高木、岩田、深町、東尾が集合して昭和神聖会の参謀会議を開き、協議の結果同会の宣伝の為、春季大祭直後に各地方の主会に於て五日間皇道講座を開催して、皇道を標傍して大本の主義主張等を講義すること。同講座の講師は追つて決定し本部より派遣すること。神聖会に映画部を設けて映画宣伝を為すこと等を決定し、其の後大本の最高幹部等が協議して、貞四郎、井上、岩田、栗原、大深、有留、桜井重雄、芦田、細田、西村、土井、上野、山口、菅谷、松浦等を同講師に選定し、講師は光照殿に於て試演会を催し、講師は同年六月頃より各地方へ出張して皇道講座を開いて講義しました。映画部は東京の玉川に設けましたが失敗に終り、試写だけで公開するに至りませぬでした。映画部が失敗に終つたので、昭和十年八月頃王仁三郎の直接指導の下に神劇部を設け、大祭の時神劇を催し、又、王仁三郎直接指導の下に同人の一代記を映画にしましたが、是も試写の程度で公開するに至りませぬでした……。
答 公開する暇がなかつた。
 それ迄に此の事件が起つてしまつた。それから玉川へ行きますと、面白うなかつたから、私が止めてしまへと止めさしてしまつたのです。
問 だからまあ失敗したと言ふのだね。
答 迚も下手な映画です。
●歴史 長生殿の建築
問 「昭和十年九月頃、王仁三郎が伊佐男に、『愈々綾部本宮山の長生殿の建築に着手するから準備せよ』と云ふ話があつたので、其の頃光照殿に伊佐男、高木、岩田、東尾が集つて最高幹部会を開き、長生殿の建築事務は亀岡本部に於て取扱ふこと、其の建築費用は亀岡に建築する万祥殿の建築費用と合併して、両殿の建築費用を神殿造営献金名義で信者より献金せしめ、長生殿は大本の最高の宮であるから、信者全部から献金せしむることに協議決定しました。同年十月二十七日の秋季大祭に長生殿の斧始式を執行すると云ふことは、既に同年八月十日の弥勒殿に於ける信者大会の席上に於て王仁三郎が信者に予言してありましたので、右決議以来続々献金する者が出来て、神殿造営献金額は、昭和十年十二月迄二約七、八万円となり、万祥殿建築費の献金は右以外に約九万円決つて居りました。それで、長生殿の斧始式は予定通り十月二十七日二執行しました。王仁三郎は昭和三年三月三日頃から、『同日には王仁三郎がみろく菩薩として此の世に下生し、月宮殿が出来ればみろく如来となり、本宮山の御宮が出来たらみろくの神となるのである』と言うて居りました」と書いてあるが……。
答 それは、みろくの神になるなんて、そんなことは言うて居りまへぬ。
 それは聴き損ひです。
問 それから此の後はどうなんです、長生殿の建築の会議は。
答 それは会議は相談したに違ひありまへぬ。
 それで、金はなんぼ要つたかそれは私知りまへぬけれど、私は昔から四十年程神様に仕へて居りますけれども、金のことは一遍も扱つたことはないのです。皆役員に任してありますから──家の会計も役員さんがして呉れて居ります。
問 それから、昭和十年十月光照殿に於て伊佐男、高木、大深、東尾が大本の今後の活動方針に付て協議をして、是からは長生殿及び万祥殿の造営に主力を注ぎ、青年会及び坤生会も外廓運動を手控へて両殿の造営に力を注ぐこと。信者の期待する長生殿が出来るのであるから、此の機会に信者の信仰を向上せしむること。昭和神聖会の運動は中止するのではないが、内容充実に入つたものと心得させること。右方針を信者に徹底せしむる為、井上及び有留を東班とし、大深及び大谷を西班として各地方に派遣すること、信者獲得の為には支部の設置を簡易にせねばならぬから、信者十戸以上あれば支部の新設を許可し、支部の外に会合所を設けることとし、会合所は信者二、三人でも宜いこととし、是迄のやうに十人以下の支部はないことゝする代り、会合所を設置することゝ決定し、其の決定事項は十月二十七日の秋季大祭の時信者に発表して実行を奨励しました。以上の外、昭和六年頃以来は各大祭の前日に総務会議を開き、大祭に於て信者に報告する事項、信者を指令する事項等を協議決定しました。」
 さうですか、此の点は宜いかね。
答 はあ。
問 さうすると是等の点の……。
答 其の十月頃のことは、もう私、余り詳しう存じまへぬけれども、それで間違ひないと思ひます。何が言うとるのですから──東尾はんが言うとるのなら間違ひないと思ひます。
問 はつきり覚えて居らぬが、東尾が言うとるのなら間違ひはないと言ふのだね。
答 さうです。
●歴史 指揮命令系統
問 それでは其の点は……
 それから、ちよつと訊いて置くが、大本の総本部、又は本部と分所支部等の連絡、並に、之が指導方法はどう云ふ風にして居つたのか。
答 本部から、ずつとなんでつしやらう、分所へ伝へたり、分所から支部に伝へたり、それから、直接の支部もあつたでせう。分所に属して居らぬ支部も──それは本部から直接に支部へやつて居つたのだらうと思ひますけれども、私が初まりにやつて居つた時分はさうでしたが、それから後は東尾はんのやつて居つたのはどう云ふ風にしてやつて居つたのか存じまへぬ。
問 指導方法はどう云ふ風にやつて居つたのか。
答 指導方法は矢張り特派宣伝使と云ふのが地方に行つて指導して居つたのだらうと思ひますけれども、なんとか……特派宣伝使、それからもう一つなんとか云ふ、なんや知らぬけれども特別に地方に、九州なら九州、四国なら四国、それを受持つて行つて居る人がありまして、なんと云ふか名前は忘れましたが、銘々其の地方々々へ行つて其の人が指導するやうな具合になつて居つた。
 台湾は台湾で受持つて行つて居つたのです。受持宣伝使かなんか、それをまあ受持つて行つて居る人がありました(此の時苦しさうな声を出す)
問 宜しいか。差支ないか。悪かつたら休むが……。
答 いえ私の癖です。
問 此の点に付て、ちよつと伊佐男が三十三回の十問答と三十四回の二問答に斯う云ふことを言うとるがね。
 ちよつと聴いて居なさい、三十三回の十問答ではですね、「聖師、教主、総裁、総裁補、総統、総統補、総務、総本部主事、主事補、瑞祥会長、同会長補、本部統理、統理補、天声社長、駐在宣伝使、特派宣伝使、地方宣伝課長、編輯課長等は下部に対し大本の教義及び活動方針を指揮して居つたものと言へるだらうと思ひます。尤も、主会長、課長等は上部の指導命令を受けて下部を指導し、大本の教義及び活動方針を」……。
答 かぶに対しとは。
問 下部は、下の方。
答 あゝさうですか。
問 「大本の教義及び活動方針を指導して居つたものと言へるかも知れませぬと思ひます。尤も、主会長、課長等は上部の指揮命令を受けて、下部を指導し、自己の裁量で下部を指導するやうなことは余りありませぬでした」。斯う言うて居るがね。
答 さうなつて居つたでせう。
問 それから三十四回のに問答では、「大本関係の諸活動に関する指揮命令は、瑞祥会のあつた時は、同会長より各課長及び主会長に、同会廃止後は綾部総本部に於て主事」……。
答 しゆじと云ふのは……。
問 主と云ふ字。
答 判りました。
問 「綾部総本部に於て主事より各課長に、亀岡本部に於ては、本部統理又は統理補より各課長及び主会長に通達し、地方に於ては、主会長より聯合会長に、聯合会長より分所支部長に、分所支部長より信者会員に通達して実行せしめて居りました。其の指揮命令の伝達方法は年四回の、大祭の折、又は課長会議、主会長、聯合会長会議、主会、聯合会、分所支部の代表者大会、又は信者大会の席上に於て、父王仁三郎、又は、瑞祥会長、統理、統理補、外廓団体の責任者が趣旨を述べて伝達し、急速を要する場合は書面に依り、又は本部員を派遣して伝達したこともあります。大本及大本関係の諸活動方針は大抵関係機関紙に掲載しました。」
 こんなことであつたな。宜いかね、判つたかね、今言うたこと。
答 はあ大抵判りました。
●歴史 大本の財政状態
問 それから、ちよつと、大本の財政状態のことを訊きたいのだが、財政状態のことは判りませぬか。
答 私は、最前申したやうに、ちよつとも携つて居らぬものですから財政状態が判らぬのです。
 それは外の人の方が、役員の方が能く知つて居ります。
問 判らぬかね。
答 私には判りまへぬ。
問 此の東尾が二十二回の十問答で斯う云ふことを言うて居るが、判らぬか。
答 仰つしやつて下さい。
問 宜し。
 「大本の基本財産としては土地建物で、それは王仁三郎及び澄名義になつて居ります。今回警察で綾部に金塊及び金貨があつたと云ふことを聞きましたが、私は金塊や金貨のあることは知りませぬでした。大本の総本部及び本部の最近の財政状態は、収入は一箇年約十万円余で、其の内訳は更始会の収入約五万四千円、弥勒殿及び祖霊社の玉串料約二万四千円、大祭四回分の玉串料約八千円、天声社の収入約一万五千円、安生館の実収約五千円で、支出は一箇年約十五万円で、其の主なるものは綾部及び亀岡の奉仕者約五百人の手当金約五万円、諸税約三万円、修繕費、宣伝費、内事費、雑費等約七万円であります。右収入の外に、信者から王仁三郎に直接献金する金も相当多額であると思ひますが、其の金は王仁三郎が保管しますので、私等には其の額は判りませぬ。又、右支出の外に、臨時の建築費等は信者より献金させます。大本の主会、聯合会、分所支部等の費用は各其の地方に於て自弁し本部から補助するやうなことはありませぬ。愛善会の費用は大本本部より出し、愛善新聞社は新聞収入に依り同社を経営して、尚純益がある位であります、北国夕刊は殆ど自給自足で丹州時報は大本々部から月三百円位補助して居りましたと書いてありますがね。
答 其処の中で、金のことは知りまへぬけれども、私に金を呉れた人はありましたけれども、それで明光社も拵へたり、是は会の方から出たのではありまへぬ。
 明光社、さうして智照館を拵へたり、明鏡館と云ふのを──明鏡館と云ふのはなんですね、写真を、又、銅板に取る所ですわ、それを拵へたり、さう云ふことに皆使うてしまひました、それで私の金は持つて居りまへぬです。
問 個人の献金はどの位あつたか。
答 月二百円もある時もありますし……。
問 そんなものか。
答 又、もつと少い場合もあります。
 それから此の古物の古金が好きで、古金を集めるのが私の趣味でしたから、それを蓄めて置いたが、別にどうと云ふ考もなかつた。唯、それは趣味で持つて居つたのです。銀貨の赤いやつだとか、昔の一円やらあゝ云ふものを寄せて居つたのです。
問 献金はあつたけれども覚えて居らぬと。百円あつたこともあり、もつと少いこともある。古金はあつたけれども、それは其のものに付ての趣味で持つて居つたのだ。献金をして貰つたのは全部建築物に使つて自分は持つて居らぬと言ふのだな。
答 はい。
問 王仁三郎個人の資産状態はどうだ。
答 それは、どれが私の名になつて居るのか、亀岡はお澄と私の名になつて居るが、人に任して居る。
 役員さんが、勝手に、是はなんの名義にして置かうとやつて居るから私は判りまへぬ。
問 動産は総て王仁三郎の名義になつて居つたのか。
答 いや、家内の名になつて居つたのです。
 名義は私ですけれども、自分の物とは思つて居りまへぬもの。
問 自分としての不動産はどう自分の物になつて居り、又其の他の資産もどの位あるかと云ふことは判らぬか。
答 それは判りまへぬ。
 亀岡にあつたのは私と澄と二人のものになつて居つて……。
問 凡そは。
答 それはどう云ふ財産の意味ですか。
問 個人の財産。
答 時価の……。
問 時価々々。
答 今日の時価ですね。
 大本が盛んな時には一坪百円もしました。
 五十円でも百円でも売つて呉れやしまへぬが、斯うなつてしまうと二足三文ですから、今の値やつたら百円した所が一円にもなつて居るやらうし、さうやからちよつと判らぬのです。
問 どれ位あるのか。
答 五万坪位あると思ひます。
問 時価は判らぬね。其の他の個人の名義の動産、不動産と云ふやうなものはないのか。
答 それも……。
問 不動産……。
答 家内がなんでも、借家をちよいちよい建てゝ居ると云ふことを聞いて居りましたけれども、私には判りまへぬ。
問 是は皆売つたのぢやないか。
答 売つたのぢやないかと思ひます、借家は──。
問 五万坪の……。
答 是は売らされたのです。
 無理に売らされたのだから、返して貰はうと思つて裁判して貰はうと思つて居ります。
 売つたことになつて居るが、そんな百円も五十円もするものを坪八銭や十銭で売りさうなことがありまへぬもの。
問 何か蓄へて居るものがあるのか。
答 ありまへぬ。
 唯調べられた時にあすこにあつただけです。
 私はもう金のことを訊かれるとかなはぬから……唯古い金だけを玩具にして居つたのです。
●争点 不敬関係書籍など
問 それでは第二の不敬のことを訊ねますがね。
 是も、大体、準備手続に於ては詳しく弁解を訊いて置いたけれども、尚詳しく訊ねるが、此の亀岡町の天恩郷で発行された所の、昭和八年の六月三十日の霊界物語の六十巻の三版、是は昭和七年の十月三十日の矢張り同物語の第七巻の三版、それから昭和八年の四月十日同物語の三十八巻の第四版、同年六月十日同物語六十一巻の第四版、昭和九年の十二月二十五日同物語十巻の第三版、それから昭和八年の七月一日から昭和十年の四月一日迄の瑞祥新聞、昭和九年の十一月九日の昭和十年日記の各編輯者及び発行者は何人でありますか。
 詰り、此の問題になつて居る、此の刊行物の発行者並に編輯人のことを訊くのですがね。
答 それは、私一つも覚えて居りまへぬわ。本を見て貰はねば……
 ──本に書いてある通りです。
問 本に書いてある通りか。
答 それは編輯人、発行人は本に書いてある通りに違ひございまへぬ。
 私は覚えて居りまへぬ。
問 それからね、其の編輯者が神諭なり或は王仁三郎の作歌を霊界物語や、或は新聞等に、瑞祥新聞等に掲載することに付ては被告人が承認を与へたのかな。
答 与へるも与へないもない。
 皆、ずつと、私の書いたことは皆載せることになつて居るのですから、随意に好きな所に、余白があつたら余白の所に持つて行くやうになつて居ります。
 載せることは許してあるのです。どこへ載せても……。
問 いやそれぢやなしに、今言うた問題になつて居るのは能く判つて居りませう。
 何が問題になつて居ると云ふことは判つて居りませう。
答 判つて居ります。
問 あの文に付て、刊行物と新聞とありませう。
 あれに載せるに付ては、被告人は承諾を与へたかと云ふことに付て訊きたいのだが。
答 それは、「之を載せますから調査下さい」と言はれたのぢやなしに、唯私の書いたことを皆載せると云ふことは許して居つたのですから……。
問 さうか。
答 それで、「此処の所を、之を載せますから」とそんなことはちつとも聴かしまへぬ。
 私の作つたものとか、口から出たものは、皆喜んで載せたのですから──それは一つとして調べては居りまへぬです。
問 それでは王仁三郎……。
林弁護人 ちよつと裁判長、苦しいのぢやないかと思ひますが、非常に苦しさうに見えますが。
裁判長 「斯う云ふ癖があるから心配せぬで呉れ」と云ふのですが、どうぢや休むか。
林弁護人 此の程度で昼にして戴いて、ちよつと一時間程休養させて戴いたらと思ひますが。
 後ろから見て居つて、どうも身体の具合が見て居られないものですから……。
裁判長 どうぢや王仁三郎休むか。
出口 ちよつと休まして戴きたいと思ひます。
裁判長 それぢやちよつと休みませう。五分位。
林弁護人 ちよつと長く休まして戴かないと、苦しいのぢやないかと思ひます。
裁判長 王仁三郎どうぢや、昼前休ませて欲しいのですか。
出口 五分か十分したら止るかも知れまへぬ。
 さうしたら、又……。
裁判長 無理に訊かうと思つて居りはせぬからね。
出口 私の癖でございまして、始終斯うなるのです。
裁判長 それでは、大分十二時迄時間もありまするが、午後からの開廷は何時にしませうかね。
 正一時にしませうか、是は掛引のない一時ですから──其の代り一時間半ありますから、それでは午後正一時。
午前十一時十七分休憩
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