文献名1宣伝使の心得
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3宣伝のコツよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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昭和二年四月六日
宣伝使は人間の顔色が見えぬようでは駄目です。宣伝使だからと云って、誰も彼もつかまえて言いさえすれば、誰でも信仰すると思って居ると失敗する。私は信仰の無い人に対して宣伝するに、年に三篇ぐらいその人の家に行って、十五年目に初めて手を合さした人もあった。神に従うことの早い人と遅い人、神に近い人と遠い人とがある。そういう人を早く入れてやろうと思えば思うほど、向うが遠ざかってしまう。そういう処をよく考えて見なければならない。
今までの宗教家は汽車の中だろうが大道だろうが、人さえ見れば教義を説いたけれども、あまり面白くはないようです。人間でも尊い人に対し、汽車の中で出逢ったのを幸いとして、ついでに話すというようなことは失礼なことである。本当の神様のことはおさまった処で話しをせねば聴くものではない。汽車の中では新聞や何かを参考として与えることは良いけれども、そこで教理を説くというようなことは神様の方では禁物なのです。その代りに瑞祥新聞が拵えてある。それを渡して置けばよい。公会堂で宣伝すれば演説会のような気分になり、劇場でやれば聴衆はただぞめくことばかりを考えている。どうしても神様の前か神社か、そういう処でなければいけない。神様の話は時所位、すなわち時と所と位置を考えねばならぬ。四辻に立って、太鼓をたたいて車輪に活動しても、その割に悪口云われるだけで実を結んだことはない。人家の奥座敷に座ってうやうやしく説いたことは、神様の御守護があるけれども、道ばたに立ってやったり、或は公会堂でやったりしても少しも効験がない。要するに宣伝の場所が相応しないから聴かないのである。相応のない場所に於て、何ほど教理を立派に説いても何にもならない。ようしゃべる人とか、弁のよい人だという位なものである。しゃべるのは下手でも、誠と熱心さえあったら、それで宣伝使は良い。