文献名1宣伝使の心得
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3真の宣伝使よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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本文
昭和四年二月五日
今までの既成宗教はすべてこれに教正とか教師とか講義とかいろいろの名をつけて居りますが、すべてこの世の中の教というものは──学校で教えて居るのは教育であり、人間の持って生れた慣性を真直な方に育てて行く、これが教育である──しかし「教」ということは今日の人間の知識をもってして知るべからざることを、或は天啓により、神示によりて教うるということが初めて「教」の字の意になって来るのであります。
この宗教といい、教というて居るのも、その祖師が天啓を受け、神の教を受けて、世の中へそれを伝達したものであります。それで大本の方では教師という言葉は──人間の分際として、人間が人間に教えるということは出来ない──非常に僭越なように感じるので、神様の教を伝達する、つまり宣り伝えるお取次即ち宣伝使と呼んでいます。自分の心で、自分の勝手に教えるのでなくして、一定の神様から教えられた、神様の規定されたその御旨を人に伝える──祝詞の中にも「宣伝使が教の業に己が向々有らしめず」とあり、己が向々ということは、自分が自分勝手のことを教えるのであります──この大本の宣伝使は宣り伝える、神様の教ばかりを伝えるのであるから、自分の我意は少しも用いられません。それが為に教師とか宣伝使という名はなくして「宣伝使」という宣り伝える使と、師匠の「師」でなくして「使」という名がついたのであります。
○
それから沢山の宣伝使の中にも地方々々によって選出され、推薦された人がありますが、この宣伝使というものは決して階級でもなければ名でもない。勲何等とか、位階の何位というのとは違います。ただ神様の御旨をまじめに宣り伝える人が宣伝使であります。けれども今日の宣伝使の中には、これを階級のように感じて宣伝使になることを喜んで、そして宣伝をしない人も沢山あるように私は見受けます。それでは名実相反するのであります。宣伝の出来ぬ人は、やはり宣伝使という名はない方がよいように考えます。宣伝使になった人は、やはりいろいろの方面から宣伝をすることが必要であります。しかしながらこの大本の宣伝使はそればかり専門にかかって居る人はないのであります。
○
どの宗教も仏教であろうが、神道であろうが、寺を建てるとか、教会をこしらえて、そしてそれを営業のようにして営業宗教になって居る。それで喰うて居る宗教が多いのでありますが、大本では、綾部と亀岡は特別に御用があるからそればかりにかかってくれる人が選抜して置いてはあるけれども、全国に亘って分所、支部一カ所といえども、それを商売にして居る人はありません。みんな自分の職業を持って──百姓なり、何なり、或は恩給があって遊んで居る人とか、そういう方が大本では宣伝使となって居る。よその宗教とは非常に変って居る点であります。よその宗教は教導職になるのに、義務金とかなんとかいうて金を出して買うのがある。商売の鑑札のように思って居る。
大本のはそうでない、ただ神様に奉仕する、国家のために人類のために、神のまことの正しい道を我が同胞および世界の同胞に伝えたい。こういう真心から支部なり、分所なりが出来て居るのであるから、支部なり分所なりによって生活して居る人は、今のところでは一つもありません。これは大本として世界の宗教界に誇るべきことであります。
しかしながら如何なる宗教といえども創立の際、初まりの時は正しう、そういう具合になって居りますが、これが年とともに堕落してそればかり商売にして行くようになる。そうなればこの大本の生命はなくなるのであります。
吾々も神様の御用をして信者に食わして貰うて居るようなことでは大きな顔をしてお話が出来ませぬ。それがために自分の家族の食うだけの百姓はして居ります。亀岡は亀岡でそういう具合にして、皆、人が寄附されたのは大神様のため、宣伝のためにされたのだからその方に使う、そしてたとえ一銭のものでも、人から貰った金で食うことが出来ないというのが神様のお戒めであります。それが大本の他と変ったところであります。それを大本は実行して居る。また支部も、私が回って見るのに、どこの支部も皆そうなって居る。これは大本として誇るべきことと心強う思うて居る次第であります。
どこまでもこの精神を継続して、既成宗教のような営業宗教にならないように御注意願って置きます。