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文献名1神霊界
文献名2大正8年2月1日号(第79号)よみ(新仮名遣い)
文献名3教祖偉績こぼれ梅よみ(新仮名遣い)
著者岩田鳴球
概要
備考「教祖偉績こぼれ梅」は1月15日号にもある。(2024/04/30校正)
タグ データ凡例共通凡例B データ最終更新日2024-04-30 03:31:17
掲載号1919/02/01号 ページ24 目次メモ
OBC M192919190201c05
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本文の文字数5439
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本文 教祖偉績こぼれ梅 岩田鳴球

   ▼霊火と水行

 四方平蔵が使者になつて園部に居られた教主を綾部に迎へ、茲に首尾克く教祖と教主との結合が成りたつて、大本の基礎が定まつたのであるが、これは明治三十二年旧五月十六日の事で、教祖様が裏町の梅原伊助の土蔵を借りて、細き煙を立てて居られた時であつた。
 ここに記す話と云ふのは其一年前即ち明治三十一年の冬、雪深き折柄の一夜の話である。
 四方平蔵は毎日毎夜、鷹の栖の自宅から裏町の土蔵へ通勤して、まめまめしく教祖様に使へて居つたのであるが、或日御用の都合で帰宅の時間が遅くなつたから、教祖様の御勧め従つて一晩泊めてもらふ事になつたのである。
 教祖様は薩摩芋を切つて芋粥を炊いて下さつたが、其時教祖様は日の大神様の御火と、月の大神様の御水で炊いた、御土から取れた御米の御粥であるから、此位結構なものは無い。天地の大神様に御礼を申上げねばならぬといふ御話であつたから、其通り御礼を申上げて有難く頂戴した。
 雪で埋もれては居るが、横は一面の桑畑で、葉のなくなつた裸の桑が寒さうに震えて居る。其桑畑からまともに吹きつける雪は壁を通して寒さはシンシンと骨に徹するのである。
 四方は教祖様の御厚意によつて炬燵へ這入つて寝んだのであるが、フト目を覚まし見ると、教祖様は井戸端で切りて水を浴びて居られる。
 ヤツト済んだと思ふて三十分程すると又浴びられる。
 殆ど御寝みになる間がない位の荒行。アア勿体ない事だと思つて寝たが、夜中の二時頃フト目が覚めて見たら、やはり水を浴びて居られるので、井戸端の方を見ると、暗中の教祖様の御姿が倉の戸口の方に見へる。しかも髪の毛の半分白いの迄も明かに見へるので、是は不思議だと思つてふり返つて見ると、祭壇の真ん中に青色の火が炎々と燃へ上つて居る。丁度硫黄を燃やす様な火だ。
 又教祖様を見て、まう一度祭壇を見直すと、いつの間にか火は消へて仕舞つて、教祖様の御姿はそれきり見る事が出来なくなつた。唯浴びられる水の音がザーザーと聞へるだけであつた。
 気味がわるくなつて、それきり布団を引被つて寝たが、ウトウトして眠り切れない。此夜は夜明け迄に、其後尚二三回は浴びられた様であつた。
 翌朝起きて又芋粥の御馳走になりながら、祭壇の青い火の事を御話したら、いつも神様が、そんなに迄して、御守り下さるのですぜといふ御言葉であつたので、恐れ入つた事があつた。
(四方平蔵氏談)

   ▼電話と蓄音機

 出口慶太郎が京都のお安様と電話で話をした時、其事を教祖様に申上げたら、綾部と京都で話が出来るかと大層不思議がられて、此位便利でなければ三千世界の立換は出来ないと仰しやつた。そして一度電話と云ふものを聞いて試たいといふ御話であつたが、申込中の電話がまだ取り付けになつて居らなかつたから、其儘になつて居た。大正七年の盆時分、やうやう電話の取付けが出来たから、一度教祖様を御招きして、電話を御聞かせしやうと考へて居たが、忙がしさに取紛れて御聞かせする事が出来ず、とうとう御帰幽になられて仕舞つたから、永遠に実行出来なくなつたのが実に心残りであると、出口氏の述懐である。蓄音機は大正五年に京都の梅田教統が持て来られて、浄瑠璃物やら唄物やら色々御聞きになつて、大層御満足であつた。
 予て梅田教統、大槻伝吉、出口慶太郎などが、教祖様の祝詞を蓄音機に取つて置きたいといふ考を持て居つたが、教主様が余り御賛成でなかつたから実行しなかつたが、高天原にイ神つまりますと先づ蓄音機の教祖様の御声を聞いて、一同が其後を続けると云ふ事にしたらよかつた。是も心残りの一つであると、同氏の述懐であつた。
(出口慶太郎氏談)

   ▼酒呑童子の身魂

 明治三十八年四月、日露戦争中、皇軍勝利の祈願にとて教祖様が大槻伝吉、後野市太郎の二青年を連れて、丹後の女島へ御籠りになつた詳細の事は、教祖号にも記してる通りであるが、大槻伝吉(教祖様の三男)の養父鹿蔵は有名な因業者で、御筆先にも酒呑童子の身魂だとなつて居る位、元来が教祖様の反対であるから、養子の伝吉を女島へやつたのは、役員の中の誰かの差図に相違ないと真赤になつて立腹し、夜の十時頃大本へ怒鳴込んで来たのである。
 伝吉の女島行は決して役員の差図でも何でもなく、伝吉自身が是非御供がしたいと云つて随行したのだと説明して聞かしても、中々承知しない。そして大広前の火鉢のそばに役員と一つしよに居られた、教祖様の四女のお龍様と、五女のお澄様(教主夫人)に喰つて懸つたのである。
 見るに見兼て中村竹蔵が下駄を持て来て、ヲノレ酒呑童子と云つて叩いたので、額が切れて血が出たのを、自分の両手で顔一面に塗り回したから、血だらけになつて二目と見れぬ面相になつて、大暴れに暴れ出した。
 サー殺すなら殺せ、唯は殺されはしないと、逆上せ上つて怒鳴るから、木下慶太郎が後ろから抱き止めるやら、四方平蔵が警察へ走るやら、大騒ぎになつて来た。さう、こうして居る中に警察から牛田刑事部長がやつて来た。「旦那様、見て下さい。若い者等が寄つてたかつて私を殺さうとします」と云つて血塗れの顔を差し出すのを能く能く見ると、疵は一寸とした浅い疵で、少し出た血を手でぬり回したと云ふ事が分つたから、牛田部長は気を利かして「疵は屁の様な疵だ、コリヤ察するにホタヘテ火鉢の角で打つたのであらう。伝吉が女島へ同行したのは、実母保護の為かく有るべき筈のもの。それを反対する貴様の方が間違つて居る。早く去ね去ね、と旨く取做して無事に帰してくれた。
 混雑の際であつたから誰が叩いたか分らなかつたものと見へて、多分四方平蔵だらうから鷹の栖の帰り道、味方橋を通る時、闇打ちにしてやるなどと云つて居つたさうである。
 其内、教祖様も御帰りになり、日がたつにつれて中村の仕業であると云ふ事が本人の自白によつて判つて来た。そして中村は平気で酒呑童子の身魂が悪いから叩いたのだと云て居る。四方平蔵は中村に向つて、身魂は酒呑童子でも肉体は鹿蔵だ。身魂が悪いなら何故神徳で叩いてやらぬかと責めたので、初めて悪い事をしたといふ事が分つたと見へて、それから大槻鹿蔵を恐がり出して、鹿蔵が殺しに来るなどとあらぬ事を口走り、とうとう気違になつて死んでしまつた。
 此男は以前大きな取違をして、教主様に痰を吐いたり、塩をまいたりした事のある男であるから、やはり神罰を蒙つたのであらう。
(四方平蔵談)

   ▼教祖と教主の戦ひ

 明治三十六年頃の教祖様と教主様の神懸りの戦は実に猛烈なものであつた。前後通算十年足らずの大戦で、其間に立つた役員の苦辛と云ふものは実に予想以上のものであつて、云はば役員の身魂磨きであつたが、此間に取り違をして自滅したり、御蔭を取り外した役員の数は少なからぬ数であつた。
 雪を欺くばかり霜白き或朝の事、夜明け前、午前四時頃から又大戦争が初まつた。なかなか猛烈で役員一同御挨拶の仕様もなく、我を忘れて茫然たる有様であつた。教主様はいよいよ綾部を立去ると云つて、直霊様を連れて行こうとされると、教祖様は去んでもよいが、子供は神様の御授けなされた大切な子供だから子供丈けは置いて行けと云はれる。さうすると教主様は威丈高になつて、我の子を我が連れるのに文句があるかと、直霊様を背負つて褌でしつかりしばつて、布子一枚素徒足で飛び出されるから、役員一同泣き縋つて止るけれど承知されない。教主様は、一反は怒りに任せて飛び出して見られたが、役員が謝罪に来たり、直霊様が帰らう帰らうと云はれるので、又スゴスゴと帰つて来られる様な事もあつた。こんな時には役員としては堂してよいのか薩張り見当が取れぬから、役員も万民も罪が深い為にこう云ふ始末になるのであるから、堂かして御許を願ふと、教祖様と教主様と両方へヒタ詫びに詫るより外、策の施し方がなかつたのであつた。
 二階と下とで戦が初まると、堂しても老女の力とは考へられない位、ヒドイ勢で膝をトントンと踏まれる。教主様は箒の柄で下から天井をドンドン叩いて怒鳴られる様な事もあり、教祖様は折角培養された黍を刀で以てズタズタに切つて回られた事もあつた。
 教祖様、教主様の神懸りの戦は世界の戦の手本の様なもので、戦の最中はいくら猛烈な勢でも、双方の霊が静れば、いつも忘れた様に穏かになられるのであつた。
(四方平蔵談)

   ▼教祖と神人

 明治二十一年春は弥生の半ばの頃、教祖様は所用の為、八木の福島氏を尋ねられた事があつた(福島氏は三女久子様の縁家である)。其時、船井郡鳥羽の村外れ八木嶋の手前で、一人の偉丈夫に逢はれましたが、其偉丈夫はつくづくと教祖様の容姿を熟視して扨云ふ様、御身は実に偉人である。肉体こそ婦人なれど霊性は全く男子で、世に云ふ変性男子とは御身の事である。数年の後には不思議の神縁にて必ず天下に名を揚げるであらう。八人の児女の身の上はかくかくしかじかと、手に取る様に述べられたが、一として相違したものがないので、教祖は不思議に感ぜられ、是は決して唯人ではない。如何なる神様かと御尋ねになると、我名は後に判明するであらう。御身は大切なる身体故随分自重自愛せられよ。十年後には必ず御身を助くる異人あらんと、云ひ了つて姿は何時か見えずなつて仕舞つた。此偉丈夫こそは王子の梨木坂にて教主様と出会されし、本田九郎親徳先生であつたのである(大本教活歴史による)。
 教祖様と本田先生との此面会も不思議だが、後になつてからも神様が神人に化けて付き纏つて教祖様を守護されて居つた様であります。
 現今、西の石の宮になつて居る処が坪の内と云つて、元の教祖様の住宅の跡であるが、その住宅に居られた時分にも、神人は大きな坊様になつて来られて、教祖様の御顔を穴の明く程シゲシゲと見詰められる。教祖様が手の内を御上げになると、礼を云つて出て行くが、ものの一丁程行て又引戻つて這入つて来られ、唯今は堂も有難うと云つて、又教祖様をシゲシゲと見詰められる。それから隣の安宿に泊り込んで、そこから教祖様の動静に注目されたり、教祖様が外へ出られると、後になり前になつて宛然影の形に添う様なもの。川向ひの以田へ行かれれば又そこでバツタリ御逢ひになり、いつも目の先にちらつく様にして御守護をされたものらしかつた。
 座敷牢から出られて初て八木へ行かれた時、道端の川岸に腰を掛けて居る一人の旅僧の前を通られると、問はず語りの様に「わしも金神様を信心して居るもんぢや」と云ふ。見るといかにも病人らしい旅僧で、息苦しさうであるから、川の水を御椀に汲んで上ると、丁寧に礼を云つて戴かれる。翌日帰りにそこを通つて見ると、同じ場所に同じ旅僧が腰掛けてゐてシゲシゲと教祖様を見詰て居た事もあつた。後に上の大広前に移つてからも、妙な坊様が幾度もやつて来た。
 或時皆で御茶をよばれて居ると、一人の遍路がはいつて来たから、御茶を飲ましてやると礼を云つて「御茶といふ様なものはな-」と、意味あり気な事を半分云つて出て行つて仕舞はれた事もあつた。
 是は皆神様がいろいろに化けて御出になつて、私を御守護下さるのだと教祖様が御話になりました。
(塩見じゆん子談)

   ▼金光教教師

 下の御広前の時代はまだ金光教と一しよの時代で、足立正信といふ金光教の教師が居つた。金光教では表看板を金光教会として、教祖様の神懸りを利用しやうと云ふ魂胆であつたから、御筆先の精神などは到底理解し得る筈がなかつたので、教祖様の御言葉を寧ろ五月蠅く感じて居つた。そして堂かすると御筆先を八足台の下へ押入れたりして、教祖様から叱られると「ヲヲ恐い恐い」などと鼻先で茶化して居つたが、教祖様は堂かして改心させ様と思はれたものか、いろいろ御話にもなり、御筆先にも度々現はれたけれど、とうとう理解が出来ずに仕舞つた。
 教祖様が大広前の一隅板の間に床を延べて御寝みになるのに、足立母子は奥の間で炬燵に這入つてぬくぬくと寝て居つた。そして炊事の世話やら洗濯物迄、教祖様を煩はす様な事があつても、教祖様は少しも厭な顔もなさらず、一生懸命で神様の御用をなさつた。寝んで居られる内、神懸りになられると、踵で板の間をトントンと蹴立てて、足立の不信心を責め、改心を促がさるる事が度々でありました。
(竹原房太郎談)

   ▼本宅と広間

 今本宅本宅と云つて居る台所脇の二階建の家は、元大島と云ふ人の家であつたのを、教祖様の二男清吉様の恩給を土台にして、足らぬ分は人から借り需めたもので、二階に祭壇を設けて大広前にしたのである。此時御肴の焼物と御筆先の扇子とを御祝に戴いた事を記憶して居る。
 今の大広前は古屋の建て直しであるが、新築の神殿と同時に出来たので、是は教祖様も役員も知らぬ間に教主様が園部の高見種吉から買ひ取られたもので、当時の会計役たる四方与平が、たつた五十銭持つて買ひに行つたといふ有名な話柄が残つて居る。
 買取つてから三日目に和知から流して来て、早速建前にかかつたが、教祖様はそんな事とは一向御存じなかつたさうで、どこかで手斧の音がすると云つて不思議がられた位であつた。此の金は湯浅氏が牛を売つて調達した。竹原は此の普請には大反対したが、教主が湯浅氏と相談して、建立しられたのである。
 此時分からどんどん各種の建物が雑作なく出来て来て、今日の様になつたのである。
(竹原房太郎談)
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