文献名1その他
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3教祖直子は精神異常者よみ(新仮名遣い)
著者高島平三郎
概要
備考『太陽』大正9年(1920)10月号
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本文
教祖直子は精神異常者
高島平三郎
大本教のやうな迷信が起つて来て、それが社会の一勢力となつて来たことに就いては、一つは個人的の事情と、一つには社会的の事情とに基づくものと見得られるであらう。
先づ個人的の事情から云へば、此処に、たまたま出口直なる一種の精神異常状態にある一老婆が何か予言的なことを云つた事に就いて、それを外部の人から見て判断の仕様に依つては、その言葉が恰かも現代の出来事を予言してでも居るかのやうにも思はれるものである。斯う云ふ事情からして、此種の予言的な言葉なり態度なりに対して、色々な機会から人々が、それに一種の興味を持つ様に成つて来るのであるが、例の浅野和三郎氏の如きに至つては、その予言的な言葉を自己の経験や知識を以て色々に解釈し、自己は元より他人にも之を宣伝せずには居られないと云ふやうな心的状態になるものである。
かくの如くして、その教を始めた人も、又之を信じた人も共々に個人的に精神上何処か普通人と異つた処を生じて来るものと見ることが出来る。
中村古峡氏(変態心理学者)は出口氏を一種の偏執狂であると断言されたが、余は直接自から実際に当つて研究したのではないから、偏執狂であると云ふことの当否は断言することは出来ないけれども、之は豈啻に大本教の教組たる出口直なる人が偏執狂であるのみならず、大本教に類似した迷信を創唱し出したり鼓吹したりする人々にも、多くは此種の傾向があるものと思はれる。
併し社会の多数の人々が大本教に重きを置くやうになつたことの近因とも見るべきものは、所謂知識階級若くは高位高官の人々の中に、之を信ずる者が相次いで出て来ると云ふ事実に存するものと見るのが至当であらうが、之は必ずしも大本教に限られたものではなく、日本の社会が精神上に於ては如何に幼稚であつて、しかも精神科学の権威を認めて居ないかと云ふことが之を似ても証明せられるのである。
是迄に新聞や雑誌の上に現はれた所謂大本教の信者と云はれる知識階級の人々は、皆此精神科学、殊に宗教や哲学等に関して全然門外漢であると云はねばならぬ。
大同一様に知識階級と一概に云つてしまふが、其中にも色々な区別がある。位は人臣を極め、爵禄は当世一流の人であるからと云つても、精神科学上の知識に至つては、文科大学の一年生にも及ばない者は幾らもある。
精神作用の変現微妙窺測すべからざることに就ては何等の予備知識もなく、研究もして居ない者が、偏執狂(心理学上偏執狂と云ふのは一見常人とは区別し難くして而も変狂な処のある一種の精神病者)のやうな常人と殆んど区別し難い状態にあるものの説く事を聞いた場合には、非常に驚異を感じて、忽ち之を信ずるに至るものである。
恰かもそれは無智な小児が、奇術などを見て、その玄妙なるに驚嘆してしまふのと、ほぼ同様な心理状態である。
かう云ふ訳であるから、知識階級の人が信じたからと云つて、直ちに、それが教理的に根拠あるものと思つたり、信じたりすることは如何にも馬鹿げた事ではあるが、我民族の知讖が未だ不充分で、只単に教権にのみ盲従して居て真の精神科学を尊敬しない処から依つて来る悲しむべき現象と云はねばならぬ。
大本教そのものに色々な弊害が有ると云ふことから、世間の重大問題となつて居るやうであるが、啻に大本教のみでは無く、大霊道にしても所謂透視念写の信仰にしても、其他或は霊動と云ひ、或は霊格と云ひ、種々雑多に神秘不可思議なる名称を附して一部の信仰を維持して居る種類のものは、何れも必ずしも之れ江湖先生の仕事とのみ見ることは出来ない、個人的事精として之等を主張する人々は、真に自分が自ら一大発見を為した如くに考へて居るし、之を信ずる者にしても亦従来の宗教以上に『霊験あらたか』なものと認めるであらう。如斯く大本教でも大霊道でも、それが現はれると人心が翕然として之に集まるのは、全く一つには此個人的事情に依るのである、若しも偏執狂的の傾向ある人が、哲学や宗教の基礎もなくて、之に触れる時は忽ち熱心と云ふよりは夢中になつて信ずる事に成つてしまふものである。
次に社会的方面の事情を考察するに、社会の思想とか信仰が堅実であり、安定を得て居さへすれば、如何に大本教の様な説を唱へるものが出て来ようともそんな現象を見たからとて容易にそれを信仰するものではない。然るに現代の如く世界的に人心が動搖して来て従来の竪実な信仰が崩壊し、新しき何物をも握る事も出来ず、さりとて純然たる物質科学に満足する事も出来ず、何方附かずに、不安状態に彷徨する時に此種の迷信が最も其力を逞しうし易き状態に陥るのである。
全体十九世紀は自然科学万能とまで信じられた時代であつて、心理学でさへも物質科学の研究方法を取り、殆んど生理学の一部とまで見倣された位である。其の為に物質的には文明が非常に発展したが、其の世紀末に至つては如何にも物足らぬ感じに襲はれた。所謂世紀末の悲哀と云はるる現象を見た。此悲哀を救ふべくオイツケンとかベルグソン等が一般に注目されて居たが、此等の主張が未だ充分に徹底せぬ内に此度の世界大動乱が勃発して、所謂物質的文化の総決算を成した訳である。其の結果益々生活の困難を来し、引いては人心の不安を来すに至つた。
然れ共今更此自然の成り行きに依つて破壊されたる旧信仰に復帰する事も出来ず、さりとて此儘では不安禁じ得ないものがある。為に何等か安心立命の精神的根柢を得様とする事が所謂世界人類の下層意識に澎湃たるものがある。現に我が国の如きも此四半世紀以来多少宗教に任意の眼を見張る様に成つたけれ共此中で堅実な信仰を持つて居る者は極めて少ない。如斯して上下を通じて一切の階級の者が同じく不安遣る方なきものがあるから、何等か新しい方面に向つて或種の説が起れば、識別も批判も無く忽ち之に拠らんとする傾きがある。それは恰かも水に溺れんとするものは藁をも掴むと云ふ状態である。此点から見れば大本教其他の迷信を咎めるよりも、現在既に成立して居る正しい教と見做されたる宗教の宣伝者達が、先づ一斉に奮起して不安足なる人心に安定を与へる様にしなければならぬ。
仏教にせよキリスト教にせよ、所謂其の宗教に正信を確得して居る者は決して大本教等に動揺させらるるものではない(談)
余談
戦後世界中が迷信状態に陥つて居るので、強ち我日本丈では無い、世界至る処に妙な催眠術の様なものが行はれたり、奇々妙々な予言者が出て来たり、占卜者が出て来たりして取り止めもなく右往左往に彷つて居る。其中でも過去何十年来物質科学に養はれて来て居るから、科学的の根拠があると云ふと、一も二もなくそれに縋り附く傾きがある。近く例を取つて見ると、大本教の鎮魂帰神の法等は全く催眠術の原理に外ならないもので、古い処では日蓮宗等で祈祷をやつて狐憑きや病人が癒ると信じられて居るのも皆同じ事で、面白い事には、或る相当な人の妻君で大本教に熱狂して居るのがあつて、僕が一時病気で居た時分に、之は普通の病気では無いから是非一つ鎮魂帰神の法を行つて遣ると云ふから、之は仲々面白いと思つて取り敢ず行つて貰つて見たが、何の事は無い僕に催眠術を掛けて居るんぢやないか、催眠術なら僕の方は昔から専門なんだからそれが旨く行く筈がない。それで其儘其妻君は失敗で引き下つた訳だが一体ああ云ふ迷信的な事を、幾分か眼の開いた人の居る都会から広め様とすると大間違ひで、是非それこそ、丹波の山の中だとか、備中の何処だとか、越中の山中だとか、忍術の仙人でも出て来さうな、人知未発達な処から始めなけれは一勢力を成す訳には行かない。○○○○○君なんかの、○○協会だつて、東京の真中でしかも学界の名士の揃つて居る前へやつて来て始めるんだから、あれでは冷かされる位が落ちで、幾ら骨を折つたつて駄目ではないか。第一池袋の神様は監獄へ入つて仕舞ふし、明治以来丈でも数へ切れない程神様や行者が出て来たが、皆な駄目になつて居る。穏田の行者飯野吉三郎なんと云ふのも一時は鳴らしたものであるが、今では火の消えた様になつて仕舞つた。だから大本教でも、之は迷信と云つては叱言受けるかも知れぬが、天理教でも金光教でも、今でも東京辺に少しは勢力の残つて居る蓮門教でも僻地から起つて一勢力を得た事は争はれぬ事実である。偏執狂と云ふのは一見普通人とちつとも変らない様に見えて居て、本人もそれを自覚しないで、自分では頗る真面目に、秩序整然とした事を云つて居る積りで、一種の立派な自信を持つて居て他人の云ふ事は、全然受け附けない性質のものであるから始末が悪い。だから大本教の一味の者でも、そりや中には悪い者で世を瞞著し人を欺むく者も居ないとは限らないが、少くとも浅野和三郎氏とか出口某とか云ふのは、真から熱心にやつて居るに違ひない。こんな例がある、或処に自分で催眠術を発見した人があつて、自分乍らそれに驚いて夢中になつて、矢鱈にそれをやつて歩いたが終に他人の病気が感染して死んで仕舞つた人がある。浅野氏だつて文学士と云ふので、世間では余ほど傑い人の様に思つて居るが、別に心理学や哲学に造詣が深かつたとも思へないが、それが鎮魂帰神の法なんと云ふのを発見したんだから一生懸命になるのも無理もない。日蓮聖人も一種の偏執狂であつたらうと云ふ人もあるが、遺著に依つて見ても、他人の言に耳を傾けて慎重に考へ合はせて、自分の主張を貫徹し様としたのであるから、之はさうは云へない。大本教の教祖お直等のは真実の精神異常者で、所謂お筆先きなるものを読んで見ても全体としては全く取り止めもないもので中にはしどろもどろになつて意味も受け取れない所が多いのだが、始めつから神祕的な予言の様に思つて見るものだから、其の中に出て来る一言一句が世界変転を予知してでも居る様に思へるので、読む方が余つ程深入りし過ぎて考へて居る訳で、それと知つて読めば実に馬鹿馬鹿しいものである。
(終)