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文献名1その他
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3大本教に就いてよみ(新仮名遣い)
著者中村古峡
概要
備考『講習会講演集 第四回』(鴻盟社、1921)
タグアンチ データ凡例 データ最終更新日2024-05-24 12:46:33
ページ 目次メモ
OBC Z9010
本文のヒット件数全 7 件/国常立尊=7
本文の文字数18816
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本文 凡例

一 本書の原稿は、元と速記者の手になりたるものにして、語句の重複、用字の妥当を欠けるものなきにあらざれは、その趣旨のある所を玩味し、深く辞句に就て咎むること勿れ。
一 本書の原稿は、編者は、講師諸士の校閲を経て蒐録したるも、猶ほ辞句の妥当を欠き、或は誤脱無きを保せず。記して講師諸士の高恕を仰くとともに、之を繙くものゝ累を講師に及ぼさざらんことを望む。
一 各篇中章目を分ち、欄外に小題を掲けたるは、講師の手になれるあり、中には編者が読者の便を図りて設けたるあり、読者之を諒せよ。
一 医学博士佐伯矩氏講演の「栄養研究と栄養学の進歩」の一篇は、講師の都合によりて蒐録するを得ざりしは、編者の深く遺憾とする所なり。
大正十年十月中浣 編者識



大本教に就いて

文学士 中村古峡

 私の大本教の話は最早大分方々で饒舌りも致し又筆にも致しました後でありまして、頗る陳腐に属するものであります。既に昨年の秋増上寺で御開催になりました浄土宗講習会に於きましても、此の演題に就いて拙話を試みました。従つて私と致しましては、今回は御断りを申上げたかつたのでありますが、既に此方でプログラムが出来上つた後でありましたので、止を得ず又々同一の問題に就いて暫く御清聴を煩はすこととなりました。今日では大本教の検挙も最早一段落をつげて、外観上は事件の終末も近づいたやうではありますが、私の考へではまだまだ是からどう云ふ風に発展して行くか、疑問に属する点が沢山あるやうに考へます。で、今日は最初に先づ簡単に大本教の沿革を申上げで、それからどうしてあゝ云ふ詰らぬものが今日の社会であのやうな勢力を張るに至つたかと云ふことに付きまして、私の愚見を述べ、それから今後の大本教がどうなるだらうか、又殊に今回の検挙が大本教に対してどう云ふ結果を齎すであらうかと云ふやうなことに付きましても、多少の卑見を述べて見たいと考へて居ります。
 先づ第一段と致しまして、大本教の沿革に付いて御話を申上げます。此の事は既に私が『大本教の解剖』と云ふ一冊の書物に纏めて置きましたものでありますから、中には御覧下された方もあらうと考へますので、これは極簡単に致したいと考へます。実はすつかり端折りたいのでありますが、矢張りまだ沿革を御承知のない方もあるやうに伺ひましたので、蛇足のやうでありますが、最初にそれを一通り附加へて置きたいと考へます。(表を出して)要するに今日の大本教には主要な人物が僅か三人あります。其三人の人物が大本教を造り上げたのであります。出口直と云ふ老婦人が教祖になつて居りまして、それの養子である所の出口王仁三郎と云ふ人が教主補、つい二三年前迄は教主と言つて居りましたが、今日は教主補と云ふものになつて居ります。それから有名な浅野文学士が、大本教に入られて其の総裁になりました。此の三人が中心人物になつて、今日の大本教を拵へた。其後色々の人が加はつて、勝手なことを申して居りますけれども、要するに三人の説に色々注釈を加へ、牽強附会して敷衍したに過ぎぬのでありまして、根本は此の三人のやつたことの他に出ないのであります。で大本教がどう云ふことを申して、今日迄信者を操つて参つたかと申しますと、先づ『お筆先』と云ふものを第一に擔いで居ります。此の筆先はどうして出来たかと申しますと、出口直と云ふ老婦人が飲酒家の夫に嫁いで、其の夫の為に苦んで、さうして八人の子供を残されて夫に死に別れて、五十歳で寡婦になつたのであります。所が其の八人の子供が毎度私が申します通り、父親の酒毒を受けたとでも申しますか、皆不良の子供ばかりで、長男から次男、長女から次女、総てがいけない。長男は早くから博徒の仲間に入つて家を逐電して居る。長女は同じく無頼漢に誘惑されて、まだ年の若い時分から家を出て居る。戻つて来た時は精神錯乱の状態で、狂者になつて戻つて来て、二三年乱暴して死んで居る。次女も同じやうなことをして居る。さう云ふやうな具合で八人の子供が上から上から死ぬ、無頼漢になる、或は無頼漢に誘惑されて気違ひになる、と云ふやうに善い者にならぬ。さうして五十歳で未亡人になつた老寡婦が夫の臨終の時に、其の傍に居つた者は、今日大本教の所謂二代様になつてゐる澄子と云ふ女一人位なものでありました。是も近所の料理屋に仲居奉公のやうなことをして居つたと云ふやうな始末であります。さうして老寡婦は無教育の女で、さう云ふ苦しい生活を経て来て夫の死んだ後も子供が頼りにならぬと云ふやうなことでありますから、自然俗に云ふ神信心に向ふと云ふことより仕方がない。溺れる者は藁でも掴むと云ふやうな具合で、何んでも手当り次第に神信心をする外に道がなかつたと云ふのは、寧ろ気の毒なことであります。姉崎博士の所謂迷信遍歴者の一人で此方にどう云ふ神様があると言へば、其方に向つて手を合せる。此方に金神様があると言へば金神様に参る、と云ふやうに、色々な方面に其信心の対象物を求めまして、さうして重に信仰したのが金光教と云ふやうなものであつたのであります。で、お直婆さんは寡婦になつてから八年程経つて、其の信仰の念が余り猛烈になつた結果として、或晩うとうとすると夢を見て突然に変体現象を起し自分には金神様が乗移つたと云ふ一種の信念を得ました。信念と云へば信念、直感といえば直感ではありますが、今日の心理学から申せば、誤つたる一種の変体現象に過ぎない。憑霊など云ふものは、今日の心理学では既に明かに其の正体を説明されて居るのでありまして、他からさう云ふ神とか、神以外の何者かの霊が吾々の身体に飛び込んで来ると云ふやうなことは毛頭ない。是は皆本人の精神状態に外ならぬのであります。処がお直婆さんは、前にも申した如く無学で科学的知識がないものでありますから、一生懸命にさへ拝めば其の神が助けて呉れると思つて居る。其の結果、遂に艮の金神様が乗移つたと云ふ一種の間違つた信念を得て、即ち今日の科学的の言葉を借りて言ふならば、一種の妄想を描いて、自分には艮の金神が乗移つたと云ふ妄想に囚はれたのであります。所が一度或る妄想に囚はれると、其の者は最早妄想以外に頭が働かない。其の妄想のみに所謂精神作用が囚はれて仕舞つて、其以外には頭が働かない。自然其の妄想が何所迄もついて廻る。丁度肴屋が肴の臭ひを何所迄も持つて歩くが如く、妄想患者は其の妄想を何所迄も持つて歩く。相手が誰れであらうと撰ばずに妄想をさらけ出す。相手が子供であらうと大人であらうと、知識階級の人であらうと、無知識階級の人であらうと、それを区別する力はないのであります。従つて誰にでも自分の妄想さらけ出す。一面から見ればそれに向つて信者が集る。世の中は実に重宝なものでありまして、あの人は熱心である非常に熱誠な信念を持つてゐる人であると云ふ所からして、其の熱心の余り、其の精神が外界に適応する性質を失つて居るのを悟らずして、唯熱心であると云ふのみに感心する。さうすると本人は益々得意になつて、妄想を振廻すと云ふことになつて来ます。斯う云ふ妄想者は精神病理の方から言ふと妄想が段々所謂精神に喰ひ込んで仕舞つて、只其の妄想のみで頭がすつかり堅まつて仕舞ふと云ふのが百人なら百人、千人なら千人の一つの定まつた型であります。それに普通は妄想性痴呆と云ふ病名を付けて居る。遂にはぼける。是はもう万人が万人皆さうなんであります。殊に神懸りと云ふ大変善い言葉を用ひて居る。神様が乗移つて来たと云ふのであるから神懸りである。対象物が神であるから如何にも信仰の模範になりさうであります。併し下劣なる者になると、或は狐が魅いたとか或は狸が魅いたとか、或は又文福茶釜の霊が魅いたと云ふやうな者が出て来る。極めて下らぬ者がつくのであります。然し心理上から観察すればそれは皆一つです。自分の信仰してゐる神霊が憑いたと考へるのも、近所の稲荷様が憑いたと考へるのも、自分の信仰して居る金神様が憑つたと考へるのも、心理作用から申せば一つでありますが、さう云ふ間違つた憑霊と云ふやうな考へが、在来長く因襲的に伝はつてゐたものでありますから、今日の科学上は既に立派に證明されて居るにも拘らず、さう云ふことを信ずるのであります。従つて是は妄想であります。さう云ふ妄想に囚はれる者は必ず終ひにはぼけて仕舞ふ。
 尤も是等の妄想には色々の種類がありまして、政治に興味を持つて居る者は政治的妄想を描きまして、所謂政治狂と云ふ者になります。さう云ふ人は、何所へ行つても自分の政治的持論を相手かまはずにさらけ出す。さうしてそれが誇大的になると、自分がつまらぬ人間であるに拘らず、自分は何某将軍であるなんと言ふ。其の代表的の者に蘆原将軍と云ふやうな者がある。彼は政治的妄想を抱いて居る一種の変体心理者であります。又企業的妄想を抱くものがある。泡沫会社を沢山造つて非常に得意になつて他日の利益を夢みて居るやうな者がある。是は一種の企業的妄想にかかつて居る者である。それも少くとも根拠があつて信ずるならば宜しいのですが、根拠も何もないことを信ずるのでありますから、是は一種の妄想に違ひありませぬ。さうして政治的にも、企業的にも、宗教的にもさう云ふ者がある。常識から判断致しましても、さう云ふ人があると、あれは少しおかしいと云ふことが分る。政治的や企業的の妄想者があるならば、少しく其話を聴けば誰でも直ぐに鑑別がつく。処が宗教的妄想者に至つては一部の人には無論真相が分るのでありますが、兎角信者がつき易く、それが尊敬されると云ふ傾きがある。今日でも色々の行者とか、神降しとか、妙なヒステリー性の婦人を生神様のやうに称して居る者が沢山にある。所があれは宗教的妄想にかゝつて居るのであつて、而もそれが可成の信者を得て居ると云ふのは、其の妄想の対象物が神とか仏とか言ふものであるが為に、人が迷ふのであります。詰り出口直と云ふ婦人も一種の宗教的妄想性痴呆患者であります。現にあのお婆さんは、死ぬ五六年前からぼけて居る、痴呆になつて居る。出口王仁三郎は其の婆さんの痴呆を利用して色々のことを口授して書かせたのであります。それを見れば直ぐに分る。私は先年其の真相を確めようと思つて、綾部に行つたが会はせて呉れない為に、婆さんに会ふことが出来ませんでした。其中に婆さんが死んだので、遂に永久に会ふことが出来なくなりましたが、しかし其の周囲に侍つて居つた者の告白を聴いても、彼女がぼけて居つた證拠は沢山あります。一種の妄想に囚はれて、相手かまはずに其の妄想を何所へでもさらけ出すと云ふ症状が現れて来ます。それに常同症と名前をつけて居る。其の常同症と云ふものは色々な方面に於て現はれる。言語に於ても、動作に於ても、絵画に於ても表はれる。蘆原将軍などに面会された方は既に経験されたことと思ひますが、蘆原将軍に付て政治的議論など聴いたら迚も堪りません。三時間でも五時間でも飽くことを知らぬ。此方が参つて仕舞ふ。人がどんなに迷惑しやうが構はぬ。人が感服しやうが感服しまいが、そんなことは考へて居らぬ。是は言語に現はれた常同症である。それから動作に現はれた常同症と云ふものは、何時も同じ動作をやることになる。これは西洋の実例でありますが、或る妄想患者で二十年間某病院に入つて居つた婦人患者でありましたが、其の患者は何時も右の手を斯う云ふ風に(形を示す)廻す常同症がある、さうして十年十五年と経つに従ひ、精力が段々衰へて来て、次第に小さい円を描くやうになつた。これが死ぬ前にあつては実に小さくしか動かなくなつた。何が為に斯う云ふ動作が出るのであらうかと云ふことを、ユングと云ふ心理学者が長く調べた結果、其の婦人は若い時に靴屋の職人と相愛の仲になつて失恋をした。其の結果精神病になつた。靴屋の愛人のことが頭にあるので、これが妄想の中心になつて居る。右の手で円を描くのは靴を磨いて居る動作です。さう云ふ一種の動作が現はれて来る。是は動作に現はれた常同症であります。又此の常同症が絵画に現はれたることもある。是は日本の実例で大変珍らしい例でありますから、私は何時も之を持つて歩くのであります。是は絵画に現はれた常同症であります。(標本を示す)朝から晩まで斯う云ふ同じやうな絵ばかり書いて居る。何枚まくつても同じことであります。斯う云ふのが絵画に現はれた常同症であります。是は現に都下の病院に居る婦人患者であります。また是が文字に現はれた常同症であります。(標本を示す)これは絵のやうに一見しただけでは分りますまいが、これを読んで御覧になると、矢張り同じやうなことばかり書いてあるのです。これを書いた人の頭は、常に只一つの観念だけに囚はれてゐると云ふことが直ぐ分るのであります。
 さて此の文字の上に現はれた常同症が、若し其れに宗教的色彩を帯びて居る時には、通俗には御筆先として尊い名前を奉られてゐるのであります。是が大本教祖の直筆であります。(標本を示す)私は之を手に入れるには、多少の苦心をしたのであります。私は変態心理学を専門にやつて居る所から致しまして、初めて大本教の名を聴いて、さうして大本教祖の御筆先には、尊い神様の言葉が現はれると云ふことを聞いた時には、ははあ是だ宗教性妄想患者の常同症が現はれて居るんだなあと云ふことに直ぐ想像がつきました。所が先方の雑誌、即ち浅野文学士等が主となつてやつて居る『神霊界』の巻頭に、『神諭』と云ふ仰々しい名前で発表して居るものを見ますと、大分想像とは趣を異にしたものが出てゐるのです。先方の弁明を聴きますと、教祖はいろは四十八文字しか知らぬ。仮名ばかりで書く。しかし仮名では読みにくいから漢字を当嵌めた。一言一句も増減がない。是が正真正銘の御筆先であると言つてさらけ出して居る。それを読んで見ると、妄想性痴呆患者の常同症とは多少趣の違つた所がある。それで私は疑ひを起しまして、どうか直筆を手に入れて見たいと云ふ考へから、三年程前に綾部へ参りまして、浅野文学士に会つて其ことを言つた。けれども直筆は見せて呉れない。又見せられない筈であります。今考へると見せたら大変です。最近の新聞紙に拠りますと、目下収監中の出口王仁三郎は、獄中から誓約書十五箇条を出して、其の第一項に何が書いてあるかと申しますと、本当の御筆先は焼捨てると言つて居る。何が故に焼き捨てるか、それは偽物の種が分るからであります。活字に直して発表したものは皆偽物です。比較対照して見ると本物は一つもない。是が残ると大変ですから、焼き棄てると云ふこと一番に言つて居る。ですから私にも見せて呉れなかつたので、私は其後百方手を配つて漸く手に入れたのは此の直筆です。是を読んで見ると、いろは四十八文字が中々おぼつかない。「く」の所に「九」の字が書いてある。「くに」と云ふ場合に「九に」と書いてある。尚面白いのは「でぐち」と書くべき所へ「で九゛ち」と書いてある。自分の姓の書方さへ知らないのです。尚ほ判断のつかぬのがあります。「〓」斯う云ふアラビア数字の「3」のやうな字が書いてある。是は最初は読めなかつた。段々探して行くと、「〓」の字の書いてある所は「ま」であると云ふことが判りました。それは「〓」斯う書いてあるのが「ほ」ですから「〓」は「ま」と云ふことが分ります。一種の象形文字です。お婆さんの新作文字と申して宜しいが極めて下らぬものです。尚おかしいことには、お婆さんは丹波の人ですから、関西では兎角地方訛として、「だぢづでど」と「ざじずぜぞ」それから「らりるれろ」等の音を間違へる。「そでくち」と云ふことを「それくち」と云ふやうに間違へるのであります。それと同じやうに「あるぞよ」と言ふべき所を「あるどよ」と書いてある。こんな地方訛が沢山這入つて居る。而も読んで見ると下らぬものでありまして、本当に無学のお婆さんが一種の妄想性痴呆と云ふ病気に罹つて、さうして書いて居ると云ふことが直ぐに分ります。此の直筆のお筆先は、お婆さんが明治四十二年十二月二十日に書いたものです。斯んなものを一日に一冊づゝ書くのです。どんなことが書いてあるかと云ふと、お婆さんに乗移つた金神様に対する婆さん一個の解説を書いたものです。即ち婆さんには、金神様が永い間他の神様の為めに艮の隅に押込められたと云ふ妄想がありまして、其の妄想から斯う云ふことを書いて居るのである。
よにをといて(落して)このよいわ(此世には)もざさん(もう出さぬ)つもりで、しよがつ(正月)のせちぶん(節分)のよにいりまめ(煎豆)をも(もう)はえん(はえぬ)よ(やう)によ九(能く)いりて、このいりまめのはえるまで、うしとらいはいりてをれとも(申)しなされて、をしこめてをいて、はらわたをぞに(雑煮)といたして九てしもて(食つて終つて)からざ(身体)のほねわ、はつかしよかつ(二十日正月)にやいて九た(食うた)のざどよ。からざ(身体)のすじ(筋肉)はぼんのそめん(素麺)といたして、いぜて(茹でて)九われだどよ。……
 斯う云ふ馬鹿気たことが書いてある。是が当り前なんです。斯う云ふのが出るのが本当で、此の無学の婆さんに、活字で発表して居るやうなものの出る筈がない。尚私はこれと同時に婆さんの直筆のお筆先を沢山見ましたが、どれを見ても皆同じやうなことが書いてある。確かに常同症であります。婆さんは、朝から晩まで之を書いて居る。丁度靴屋の職工に失恋した女が、朝から晩まで靴を磨く動作して居るのと同じ心理であります。実に此の婆さんはかあいさうなものである。
 処が此の婆さんの背後には、例の出口王仁三郎と云ふ仕事師がありまして、其仕事師が、お筆先の内容がこんなものでは無学の愚夫愚婦は感心するかも知れないが、到底将来一個の公認教となる見込は立たないと考へたところから、それで自分の知識で色々書替へて、それがお婆さんのお筆先であると言つて出したものが、即ち此活字本である。之を見ると、先づ今日一般の世人を瞞着し得るだけの程度に書いてある。而も多数の予言が出てゐて、大抵は中つて居る。其予言は後から附加へた予言ですから中るのは当り前です。其活字にしたものの原本は何所にあるかと云ふと、これです。(標本を示す)頗る能く直筆に字体を似せて書いてある。之は先方では日露戦争の予言だと言つて尊んでゐるものであります。詰り日露戦争の予言の偽物を拵へた。之を活字にしたものが此書物である。信者が来ると之を見せてやる。斯う云ふ詐欺をやつてゐるのであります。直筆の方は前にも申した通り、常同症の特徴として論理に一貫した処がない。支離滅裂でバラバラである。決して意味が纏つて居らぬ。然るに此の偽筆の方は、全体としての筋が一貫して居る。常同症の特徴がない。普通の人が書き直したものであるから特徴がなくなつて居る。私は斯う云ふこと看破したので、是は捨て置かれないと云ふので『大本教の解剖』と云ふ本を作つて出したのです。所が滑稽な事には、先方では何かと云ふと大本教徒には霊眼と云ふものが開けてゐるから、世間の事は万事見透しだと云ふて自慢してゐながら私が此の原文と偽筆とを何処から手に入れたか分らないので、大に揣摩憶測を逞しうしてゐると云ふに至つては、実に哀れな霊眼と云はなければなりませぬ。
 次に多勢の信者が大本教のお筆先を尊んで居りますが、それは此の偽物を信じて居るのである。無学の婆さんがこんなものを書くのだから、神様が乗り移つて書かしたのであらうと言つて、其処に感心してゐるのであります。嘗て海軍大学の某教官も、『大本教のお筆先は実に有難い。我々日本国民の心服すべきものだ。之に悪口を言ふ者は、戊申詔書に悪口を言ふのと同じであつて、国賊だ』と云つてゐました。所が偽物を掴ませられて其の偽物であることを看破する能はず、却つて他を国賊呼はりして居るのは、一層御目出度いと言はなければなりまぬ。尚一層面白いことは、大本教では、艮の金神と国常立尊は同体の神だと言つて居ることであります。艮の金神は支那の陰陽道で祀られてゐる方位の神の名前であつて、それがどうして我が神代史の国常立尊と一緒になつたかと云ふことに就いて、私は色々に調べて見ますと、明治四十年前のお婆さんのお筆先には決して国常立尊は出て来ない。何時も「艮の金神の筆先であるぞよ」と云ふ所から始まつて居る。然るに明治四十年後から、「艮の金神国常立尊の筆先であるぞよ」とある。此ことは長く出口王仁三郎の秘書役をして居つた某氏で遂に大本教は山師であると云ふことを看破して大本教を去つた人がある。其人の話に拠ると、明治四十年迄はお婆さんが勝手に自分の妄想を書いて居つたので、艮の金神の筆先であると言つてゐた所が、明治四十一年頃から、お婆さんの養子に当る出口王仁三郎なるものが、他日大本教を一派の公認教にしたいと云ふ野心を起し此の準備的手段として、──其れには天理教と云ふ好実例もありますので、──其所でお婆さんに吹込んで、今後は艮の金神国常立尊の筆先であるぞよと書くやうにさせました。詰り艮の金神国常立尊と書かなければいけないと云ふことを、出口王仁三郎が婆さんに命令したのであります。其処で陰陽道の艮の金神と、我が神代史の国常立尊とが合体することになつたので、其の裏面には斯う云ふ魂胆があつたのであります。
 次に又大本教では言霊学と云ふものを盛に振廻して居りますが、此言霊学は何であるかと云ふと、日本は言葉の国である。其の言葉の解釈が間違つて居つたから、それで色々間違つたことが起つて居る。言葉の解釈を正しくするならば其疑問も皆訂正されると云ふやうなことから言霊学と云ふことを始めた。此言霊学も私が最初に素破抜いて今では出口王仁三郎も自白をして明かになりましたが、他から貰つて来たものである。徳川時代寛政年間でありますが、作者不明の『水穂伝』と云ふ書物があつて、それにいろいろ日本の言霊に関したことが書いてある。それをそつくり其儘盗用して来て、大本の言霊学とした。それに依ると日本の一番古い古事記は、現代大正の世の予言書になると云ふのです。実に奇抜な解釈をした。古事記は大正の予言書である。大正年間の大本教が其予言者である。斯う云ふことを言つて居る。其事を説明してあるのは、浅野文学士の書いた『古事記と現代』と云ふ書物でありますが、それを見ると古典なんかの研究の足りない人、素人は感心するのでありまして、実にうまくこぢつけて居る。言葉の説明に依つて皆さうなると云ふのです。例へば古事記の伊邪那岐命伊邪那美命の「神生みの段」が言霊学では大正年間の予言になつて居る。一番初めに色々の神をお生みになつて、神様の名前が出て居る。例へば天之狭土神、国之狭土神、天之狭霧神、国之狭霧神、天之闇戸神、国之闇戸神、大戸惑子神、大戸惑女神と云ふやうなのは、現代の政治文物を予言して居るのだと云ふのです。又天之狭土神、国之狭土神は官有地民有地を指し、天之狭霧神と国之狭霧神は官有地民有地の小区分を指すのだ。それから天之闇戸神は官公吏の階級の混乱顛倒して居る予言だと云ふ。国之闇戸神は藩閥、門閥、閨閥、党閥、学閥等の乱れて居る予言である。大戸惑子神は偏見固陋、不徹底、不健全なる哲学政治、有ゆる科学の予言である。大戸惑女神は偽宗教、偽教育、偽倫理等の跋扈横行を予言して居る意味だ。それから中々面白いのがある。鳥之石楠船神と云ふのは現代の飛行船の予言である。天之鳥船は飛行機のことである。火之炫毘古神と云ふのは電気電燈のことである。さう云ふ風に神様の名前を皆現代の科学の進歩と現代の状況に当嵌めて段々進んで行つて、或神様の名前、例へば波彌夜須比古神は教祖出口直の生れる予言である。波彌夜須比売神が教主出口王仁三郎をの生れるのを予言した意味である。それから彌都波能売神は浅野自身である。浅野さん自身が古事記に出て居る、さう云ふことを信じて居る。言霊学と云ふものは斯う云ふ滑稽なものであります。之を私はひやかした。言霊学などと言つて居るが、それは言葉を合して見ただけで地口語呂合せ見たいなものであると。まだもつとおかしいことがあります。艮の金神の筆先の中に、「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ、梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。」と云ふ一節がある。「梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ」ちよつと面白い。解釈をつければ何とでもこぢつけられないことはありません。それを浅野文学士は斯う解釈してゐる。梅で開いて松で治める神国の世になつたと云ふのは、梅は酸ぱいから「統べ」ると云ふことで、松は「政」と「祭」の真鈎木で、祭政一致の世になることを意味するのだと云つてゐる。宛然たる語呂合せである。斯う云ふ馬鹿げたことを言つて人をおどかして居る。言霊学などと言つても実に滑稽極るものであると云ふことが分る。次に予言の的中は、前にも言つた如く、すべて後から捏造したものであつて、お婆さんの直筆其のものは、何等予言的分子は現はれてゐないものであります。
 次に鎮魂帰神法と云ふのはどう云ふものであるか。是は明後日の変態心理の実験の時に材料がございましたら実験してお眼にかける筈でありますが、是は極めて下手な催眠術であります。催眠術の形式がちよつと変つて居るだけであります。神と云ふ背景を後に置いて、榊を立て、其前でやる催眠術で、あんな神前でなくても何時でも出来る。私は自慢ぢやありませぬが、大本教の鎮魂帰神などよりはもつとうまくやつてお眼にかける。鎮魂帰神法とは、つまり催眠現象中に人格変換と云ふ一種の現象を起して、お前は誰だと云ふやうな問を出して狐だと答へたら、狐がついて居ると云ふ風に相場を決めて仕舞ふのであつて、実に軽率な遣方をして居るのであります。
 次に又大本教では、何かと云ふと霊眼霊能と云ふことを言ふ。鎮魂帰神に依つて人が神に帰する霊感を発して将来のことも過去のことも遠いことも近いことも見透しであると言つて居る。それでゐて、前にも既に申した通り、私が何処で此の直筆のお筆先を手に入れたかをすら知らないのですから霊感も何もあつたものぢやない。それでも世間は広いもので、こんな詰らぬものに感心して、大本教のやうなものに入つて迷はされると云ふことになるのであります。
 そこで浅野文学士のことに話が這入らなければなりまぬ。浅野さんは私の先輩でありまして、何時も先輩を攻撃するのは心に済まぬとは思つて居りますが、しかし氏が大本教に入つた動機は実に下らぬことです。自分の子供が病気で医者にかゝつても、癒らなかつたのが、或る行者にかゝつて癒つた。是は不思議だ今まで知らなかつた神秘の世界があると云ふことにちよつと自分の頭が傾きかけて来た。其際に大本教の宣伝隊がやつて来て大本教に囚はれたのであります。出口王仁三郎に斯う云ふ偽物のお筆先を見せられて、また鎮魂帰神と云ふやうなものを自分もかけて貰つて、感心して仕舞つたのだらうと思ひます。一年も傍に居つて内部を見れば、是は偽物であると云ふことぐらゐは分るのでありますが、一旦迷ひ込んだ際にはさう云ふことが分つても、余程の勇気のある者でないと戻つて来られない。のみならず浅野さんの如きはそれを信じ切つて、自分に信ずるのみならず、世界を挙つて其信念に帰服させやうと凝り固つて仕舞つた。斯う云ふのを名づけてパラノイヤ即ち偏執病と云ふのであります。つまり一種の精神病者です。能く世間には、一度自分の云つたことは、是が非でも一歩も後へ引かぬと云ふ人がある。引かぬのみならず却つて何人にも自分の言を信じさせやうと努力する人がある。それは一種のパラノイヤ的の人である。もう一歩進むと本物のパラノイヤになる。浅野さんは自分の信じて居ることを他から、斯くの如く證明されて居るのではないかと言つても、頑としてきかぬ。従つて其云ふこと為すことには非常の矛盾や撞着があるが、本人は一向平気である。一例を云ふと嘗て一人の信者が浅野さんの鎮魂帰神法を受けて、盛んに所謂霊の発動があつた。(大本教では静坐して自発的に身体又は指先が動揺して来ると、既に霊の発動があつたから憑霊が現はれると云つてゐるのである。)其処で浅野さんは其の信者の所謂霊なるものに対して、お前は何者だと云ふ問を出した。すると其の信者は俺は諸葛孔明だと答へた。処が其の信者は其頃熱心に三国志を愛読して居つたので、私に云はせれば、彼れの潜在観念が諸葛孔明と名乗つて現はれたのである。其所で浅野さんは追求して、諸葛孔明の霊なら支那のことは何でも知つて居るだらう、と頻りに支那歴史上の質問を浴びせかけた。諸葛孔明も困つて仕舞つた。苦しくなつて遂に自分は諸葛孔明ではないとあやまつた。然らば何者だと再び問はれた時、自分は鞍馬山の天狗であると答へた。すると浅野さんは一言の下に其の天狗を承認して、今後は大に大本教に忠勤を擢んでるやうにと云つて、直ちに鎮魂帰神を解いた。若し浅野さんに研究的精神があるならば、諸葛孔明を疑つて追及するならば、何故に又鞍馬山の天狗に対しても追及しなかつたか、何故鞍馬山の天狗だけは一言の下に承認したのであるか。今日の変態心理学から云ふならば、斯る現象はすべて人格変換と云つて、只其人の精神作用に過ぎないのであつた、決して諸葛孔明の霊が降りて来たのでもなければ、勿論鞍馬山の天狗が降りて来たのでもない。斯う云ふ分り切つた妄想を頑固に振廻して、自ら悟らないのみならず、他人をも自分と同様の迷妄中へ引入れようとする処に、パラノイアの特徴があるのである。こんな実例を挙げれば、またいくらでもあるが、あまりに時間を取るから略しませう。
 要するに、大本教と云ふものは、上来述べ来つた如くに実に下らないものである。教祖出口なほは宗教性の妄想性痴呆患者で、其のお筆先は濫書症の現はれに外ならぬ。出口王仁三郎は山師である。浅野文学士はパラノイアである。活字の神諭は皆偽作である。鎮魂帰神法は拙劣なる催眠術である。所謂「神憑り」とは一種の人格変換である。所謂予言的中はすべて後から附会した捏造である。斯う解剖して来ると大本教など云ふのは、迷信流布の害毒こそ多くあれ、何等の積極的価値を持つてゐないものであります。然らば斯う云ふ下らないものが、どうして今日の社会にあのやうな勢力を張るに至つたのであらうか。私は以下簡単に、其の原因に就いて述べて見たいと思ひます。
 先づ第一の条件としては、在来の宗教と云ふものが……私の如き宗教の門外者が斯う云ふことを言ふのは甚だ僭越であるかも知れませぬが、在来の宗教なるものが多少威厳を失して居りはしないかと考へられることであります。是が第一の条件です。私の考へでは是が分れて又二つになる。即ち其の第一は政府当局者にも大いに責があると云ふことを申上げたい。簡単に申しますれば、御承知の如く明治維新の新政は有ゆるものをすつかり改革して呉れた。同時に廃仏毀釈と云ふやうなことを目標として、殆ど宗教と云ふものが日本国民の心から離れたやうな形になつて居る。宗教と云ふものは社会的にも教育的にも継児扱ひをせられ、度外視せられ、甚だしく圧迫を加へられたやうな形になつて居る。是は私より諸君の方が充分御承知のことと存じます。殊に歴代の当局に宗教の理解のある人は殆どなかつたと言つても宜いと思ひます。サーベルをさげ、権利義務を振り廻す人が主として日本の歴代の当局者になつて、宗教の方面、精神的の方面に理解のある人がなかつた。是が日本国民の心から本当の宗教と云ふものを奪ひ去つて、下らぬ迷信に走らせる動機になつて居りはしないかと考へられます。その結果は天理教のやうなものが公認されるやうなことになりました。而も近頃になつて国体擁護の宣伝を却つて宗教家に頼つて、宗教家の力を借りやうとして居る。矛盾も甚しいと云はねばなりません。しかし、私が申す迄もなく、宗教と云ふものは人の性来止め難き要求であります。之に圧迫を加へ、度外視して、其行く道がなかつたならば、是は吾々性来の止め難き要求であるから、何所かに何者かを求めなければならぬやうになつて来る。其処で下らぬものに手を出して行く。或は圧迫を加へられた結果は反逆謀反を起す。丁度人間が性来持つている色欲を無暗に圧迫すると、其の色欲が病的に流れると同じで、人間性来の要求である宗教心を圧迫し、度外視して来た結果として、其の宗教心が下らぬ方面に謀反を起して迷信に走ることになる。是が一つの大なる動機であります。大本教と云ふ卑近の宗教が世の中に歓迎されるやうになつたと云ふのも、政府当局に其の大部分の責があると云ふことを第一に訴へたいのであります。
 第二には今日の宗教家自身にももう少し斯る迷信に対する対抗策がありはしなかつたかと考へるのであります。勿論他の宗教を謗るとか、或は今将に是から起らんとする宗教を無暗に挫くと云ふやうなことは大人気ないことで、是は勿論君子の屑しとする処でないかも知れませぬが、しかし大本教のやうな下らぬ迷信と云ふことが、明々白々に分つてゐるものが、大に天下を風靡しようとする際に当つて、これを対岸の火災視して傍観してゐるに於ては、是苟くも社会風教の任にあるものの為すに忍びないことではあるまいかと考へます。私は前にも云つた如く宗教には門外漢であります。私は只単に変態心理学と云ふ立場から、即ち烏滸がましい話であるけれども、今日の科学と云ふ立場から大本教は下らぬものであると云ふことを今日迄丁度三年間叫んで来た一人であります。私は此の三年間、今に専門の宗教家の中から、此の迷信を打破して、迷へる信者を真信仰に導く新運動が起るに相違ないと期待してゐました。然るに私の寡聞な為めか、今日まで一向にさう云ふことを聞かない。最近に日本仏教青年会が宗教思想啓蒙運動と云ふやうなことを起して下さつたことは誠に結構でありますが、少し手後れの観があります。もう一二年前に何故斯う云ふことを起して下さらなかつたのであるか。甚だ遺憾に思ふのであります。
 第二の条件としては、今日の教育の弊害と云ふことであります。今日の教育は小学校から大学に至る迄、まるで職業的技術的のことばかりを教へて居る。専門の知識を吹き込むことに汲々として居つて、常識であるとか、正しき思想、正しき宗教思想を養成すると云ふやうなことには殆ど手が著いて居らぬ。是は先日高島米峯先生のお話で承はつたことでありますが、今日の小学校の教科書の中に、迷信と云ふことを教へて居る章は三年生か四年生の時に、たつた一節しかないさうであります。斯う云ふ国民思想の基礎たるべき義務教育六箇年間の間に、迷信に関する話を聞くのはたつた一日あるだけで、其他には斯う云ふ方面の正当の知識を得る機会がないのであります。斯う云ふ教育を受けた者は、たとひ大学を卒業したとて、博士になつたとて、迷信に囚はれ易いのは毫も怪むに足らないものである。大本教に或は博士が這入つて行き、或は中将が這入つて行く。社会的地位の高い人高等教育を受けて居る人が這入つて居るけれども、其の教育は専門的、技術的、職業的教育ばかりを受けて来た人である。今日の社会の上流に居る人が何万人大本教に這入つたからと言つて、大本教が迷信でないと云ふ證拠にはならぬと考へる。
 第三には、吾々国民精神性の欠点として、科学的研究精神が足りないと云ふことであります。是は姉崎博士もお話になりましたが、是が重大なる迷信の栄える動機になると考へます。科学的研究精神がないと、或物にぶつかつた時に分析し、研究し、実験して、さうして批評すると云ふことがなく、見たもの其儘を直ぐに感心して頭に受け入れる。さう云ふ弊害がありはしないかと思ひます。「つきもの」と云ふことなどは、今日の心理学から言へば迷妄に過ぎないと云ふことが立派に證明されてゐる。それにも拘らず「つきもの」を振り廻して人心を迷はして居る者がある。此の実験的精神が足りないと云ふことは、先刻お話した浅野さんが或信者の諸葛孔明を攻撃して置きながら、鞍馬山の天狗を許したのと同じことであります。斯う云ふ例は沢山にあります。私は明後日の実験で、是等を実験して御眼にかけたいと思ひます。或は腕に針を通すとか、焼火箸をすごくとか云ふやうなことも、今日の物理化学で説明すれば誰でも出来るに拘らず、ちよつと人がやりかねることをやると、それを直ちに神秘霊能と云ふことに解釈したがる。其結果直ぐに信仰の念を注ぐと云ふやうなことになるのであります。現に大霊道だの江間式心身鍛練法など云ふものは、こんな馬鹿げたことで世人を瞞着してゐるのであります。瞞着する者は勿論悪いが、瞞着されて喜んでゐる者が沢山にあるから、彼等も益々得意になつて、其の瞞着手段を逞しうするのであります。要するに、国民全般が科学的研究精神の欠乏して居ると云ふことが、迷信助長の大なる動機になると考へます。従つて社会の進化とか変遷と云ふものは自然に推移して行くものであると云ふことを忘れて、何か意外なことで、丁度吃驚箱から吃驚玉が飛び出すやうな意外な事で、世の中が治つて行くやうに考へてゐる。其処で大正何年には地震があつて東京がつぶれるとか、綾部の空だけは飛行機が通らぬとか云ふやうなことでも云ひ触らすと、大部分の世人はそれを実験せずに、批評せずに、其儘に感心して、どんどん綾部に移住すると云ふやうな馬鹿気た現象を惹き起すことになるのであります。
 第四の条件としては、科学的研究精神の欠乏の結果は、現実と離れて神秘不可思議に憧憬すると云ふことが起つて参ります。即ち宗教でも立派に今日迄連綿と伝つて来て居る所の宗教があるに拘らず殊に理智的である所の仏教と云ふやうな立派な宗教があるに拘らず、斯う云ふむづかしいものは二三日研究しても分らぬ、それよりは大本教のお筆先は分り易い、自分の研究心が足りない結果として、理智的研究を避けて分り易い所にのみ走る。入り易き宗教に向ふと云ふことが、迷信助長の大なる動機となつて居ると考へます。殊に総ての人が眼前の利益のみに走る、大本教のやつたとを分析して見ると、すべてが眼前の利害心のみである。地震があつて自分の財産のなくなるのがいやだから綾部に移らう、大戦争が起つて飛行機の爆弾にかゝるのはいやだから綾部に逃げる、と云ふやうな眼前の目的のみを主として居る。斯う云ふ浅薄な精神から入信して居る。十人が十人さうであります。殊に国民心理、社会心理の上から言つても、戦争と云ふやうな緊張した状態の長く続いた後には、人心が弛緩して努力することがいやになる。手つ取り早く楽をしたい、呑気にして金儲けをしたいと云ふやうな傾向が起つて来る。日清戦争日露戦争後に於ても斯う云ふ傾向があつた。日露戦争後には千里眼問題がやかましくなつて、彼方にも此方にも千里眼が輩出した。殊に今日は欧洲戦争で非常に社会に変動があつた結果として、去年迄下らぬ一職工であつた者が成金になつて幅を利かす、せつせと努力した者が一向出世しない、何が何だか分らない。下らぬ真似をして金を取ると、社会の上流に立つてさうして権威を振ふと云ふやうな、何が何だか分らぬやうな状態になつて来た為に、努力するのは詰らぬ、研究するのは詰らぬ、棚から牡丹餅でも落ちることがあつたならば、それにありつかうと云ふやうな精神が国民全般に拡まつて来る。其結果遂には神秘的なことに走ると云ふ結果になるのでありますが、是は日本ばかりではありませぬ。西洋でも同じことで、殊に欧羅巴に於ても、所謂心霊現象の研究と云ふものが盛んになつて、科学もので有名なオルバー・ロツヂなどは、欧洲戦争に出て死んだ自分の子供の霊魂が或霊媒の口を通じて通信したと云つて、『レーモンド』と云ふ書物を拵へた。それを見ると、所謂子供の霊と談話をして、是が本当と思つて居る。霊媒巫女が好い加減なことを言つてもそれを信ずる。是は日本ばかりではありませぬ。西洋に於てもさう云ふやうな気分が大きな戦争のあつた後には必ず起つてゐる。
 以上を申し述べました四箇条が、大本教のやうな愚劣なものが、今日の社会に勢力を得るに至つた、重な動機ではないかと私は考へます。
 最後に私は、大本教が今後どうなるだらうかと云ふことに付て、少しく愚見を述べて見たいと思ひます。私は初めから大本教は宗教団体でも、思想団体でもない、下らぬものであると云ふこと絶叫して来た一人であります。だから大本教のやうなものを取締るには、あれを一個の宗教として取扱つたり、又は一個の思想団体として取扱ふのは間違つて居る、どうしてもあゝ云ふ愚劣なものは詐欺師として、山師として懲罰しなければならぬものであります。所が先程も申しました通り、其れが当局者にはどうも徹底しない。又候当局の悪口になりますが、私は今日の当局者が、かう云ふ方面の知識に頗る乏しいと云ふことを断言して憚らない。今日の当局者は無論立派な社会の代表者でありますけれども、其教育たるや先程申しました通り職業的、技術的の教育を受けた人であつて、精神的の教育を受けた人は極めて少ない。従つて斯う云ふ裁判の衝に当つて居る人達でも、中々斯う云ふ点に無理解なことが多いので困るのであります。一例を申しますと、先刻も一寸申しました大霊道など云ふものは、私等から見れば実に呆れかへつて物も言へない代物であります。当局は下らぬ小泥棒を取調べる暇があるならば、何故あゝ云ふ大きな詐欺師を取締らぬのであるか。処が、実は先年有名な某々の検事が大霊道を取調べに行つたさうでありますが、例の下らない潜動や顕動に威かされて、『成程大霊道にも一理ある』と言つて手を空しくして帰つて来たのだと云ふことであります。以て此の方面の知識が足りないことが分るのであります。誰でも少しく静坐して居つて観念を纏めたならば、自発的運動が起るに極つて居る。心理学上当り前であるのに、それを見て大霊道にも一理あると言つて帰つて来たと云ふに至つては、呆れざるを得ないのであります。さう云ふ人が上に立つて居る。最近にも穏田の行者飯野吉三郎に御馳走して貰つて、国民思想の鼓吹を聴かされた大臣方もあると云ふ世の中であります。さう云ふ当局者が上に立つて居る以上は、どうしても斯う云ふ大本教のやうなものが出て来た時に、之をすぐ一箇の宗教である、思想団体であると云ふやうに見るのも無理はない。私は斯う云ふことは重大問題である。社会政策上重大問題であると常に考へて居るのであります。天理教のやうなものが公認されることになり、今回の大本教の検挙に際しても、出口や浅野を取調べるのに、非常に多くの人と多くの費用を費して、九十日間も掛つて審議した結果が何であるかと云ふと、不敬罪と新聞紙法違反より外にない。さうして其時予審に従事した裁判官が何を言つたか。『吾々は古典学の研究の予備知識がないから、それで大本教取調べる為に、古事記、神典の研究から初めた、それが為に今日では日本の古典に大分通ずるやうになつた』と自慢して居る。私から見れば実に不見識極ることである。詐欺師を捕へるのに、古典の研究が何の必要であるか。実に不見識極まると思ひます。これを云ふのも、彼等当局が、最初から大本教は一箇の宗教である、思想団体であると買被つて居るからである。又或裁判官は斯う云ふことを言つて居る。『吾々は大本教を公平に裁判する為に、大本教に反対の意見を述べて居る人の意見は更に読まなかつた。』斯う云ふことを言つて居る。大本教を公平に裁判する為に、大本教反対者の意見を聴くことを恐れるやうな不定見な裁判官に、果して能く大本教を公平に裁判し得る能力ありや否や、私は実に疑はざるを得ないのであります。私から云はせれば、大本教の幹部輩に、不敬罪など云ふ罪名は勿体なさ過ぎる。彼等は詐欺横領罪で沢山であります。出口王仁三郎は破廉恥罪を幾つも犯して居る。私の手元に来て居る材料だけでも、立派な證拠が幾らもある。又予審で調べた中に於ても皆それを言つて居る。詐欺もあり、横領もあります。それから私印偽造、私書偽造、沢山あるが、夫等は之を葬つて仕舞つて、不敬罪と云ふ立派な名前を被はせられて居る。裏面から言ふとこれは彼等を一種の宗教若くは思想団体として政府当局が裏書をしてやつたことになるのであります。そして彼等をして今回の検挙は一の法難であると叫ばして居る。実にけしからぬことであります。もう一つ怪しからぬことは、出口がお筆先を焼かんとして居ることである。出口王仁三郎の誓約書十五箇条には、曖昧不徹底なことが沢山書いてあるが、彼は第一にお筆先の偽物であると云ふことを看破されるのを恐れて居る。私にはそれが能く分つて居る。それをもう少しのことで当局は焼かんとして居る。実に怪しからぬ話があります。それからもう一つ私の腑に落ちないのは、最初は證拠隠滅の虞があるから、出口浅野共に保釈を許さぬと言つて居つたのが、昨日の新聞で見ると、遂に保釈を許した。彼等は再び綾部に帰つて、大本教の大改革、大改造をやると言つて居る。どうも当局のやり方には、私の腑に落ちないことが沢山にある。保釈された出口や浅野は、今後今迄の詐欺や横領の跡を巧に暗まし、忠君愛国を表看板にして、危険思想的な分子は悉く何処かへ仕舞ひ込み、他日、学校の一つも建て、社会的事業の一つもやれば、此処に政府の了解を得て、まんまと公認教になるでありませう。これは想像するに難くないと思ひます。さうして大正の世の中には、如何に宗教に無理解な人間が多かつたかと云ふことの證拠を後世の物笑ひの種に残すことになるであらうと思ひます。私は此際に於きまして特にお願ひするのは、在来の宗教──特に健全なる宗教の教義の上に立つてお出でになる方々の御奮発を願つて、今日のやうな宗教に無理解な当局はどうでも宜しい、斯う云ふ者に欺かれる信者を救ふ為には、どうしても在来の健全なる宗教に依つて立つてお出でになる方々の努力を希望しなければならぬと考へるのであります。余りに長くなりましたし、時間も迫りましたから、今日の講演はこれで失礼いたします。
(終)
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