文献名1三鏡
文献名2水鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3真の宗教よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
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データ凡例
データ最終更新日2020-01-20 19:44:39
神の国掲載号1928(昭和3)年07月号
八幡書店版268頁
愛善世界社版18頁
著作集228頁
第五版168頁
第三版168頁
全集426頁
初版160頁
OBC kg135
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本文
宗教の宗の字は、国語にて宗と訓ず、宇宙一切の経緯を示すと云ふ意味である。ウ冠のウは、天地万有一切を生み出す神の経綸と云ふ言霊であり、下の示すと云ふ字は、天地人開くと云ふ意味である。
宗教と云ふ意味は、天地人一切に関する根本の真理を開示し、神の意志によつて人心を導き、民をおさめ、一切の万有を安息せしむべき意味が含まれて居る。故に宗教は、天文、地文、政治、教育、芸術、経済、其他ありと所有ものに対し、根本的解決を与ふるものの云ひである。
今迄の既成宗教は何れも天に傾き、地に傾き、或は心に傾き、そして一切の人間界と乖離して居る傾きがある。現実界を疎外し厭離穢土だとか、苦の世界だとか、火宅土とか、種々軽侮的扱ひをなし、而して目に見えない霊界を讃美渇仰し、人間生活の要諦にふれて居ないもの計りである。中には立派な宗教と現代人が思つて居る教理は人間の慣性たる五倫五常の道を専ら説いて宗教の本旨に副つたもののやうに思つて居るのが多い。試の道の心得だとか、八ツのほこりだとか、五戒十戒だとか、地上の人間に対し禁欲的の教理を教へ、神仏は非常に尊きもの、恐るべきものとして、殆んど人間の近づく事が出来ないものの如く習慣づけて来たものである。人間は生れ乍らにして善悪正邪の区別は知つて居る。教なるものは今日の曇りきつた人間の知識を以て測知すべからざる真理を教へてこそ初めて宗教の価値もあり、権威もあるのである。バイブルを調べても、釈迦の一切経を調べて見ても、いたづらに文句を長たらしく並べたのみで、これと云ふ一つの竜頭を認める事が出来ない。故に既成宗教を調ぶれば調ぶる程、迷ひを生ずるのみであつて、徒に時間を空費したのが収穫位なのである。故に今日迄、宗教が人心によい感化を与へた事は少々あつても、至粋至純なる天賦の精霊を混濁せしめたことも多大である。さうして今迄地上は宗教あるが故に残虐なる宗教戦も、度々繰返された。現にメキシコあたりの宗教戦も其数に漏れない残虐戦である。先年の世界戦に対しても世界のあらゆる宗教が、何の権威もなく、何の働きもなかつた事なぞも明瞭である。
要するに宗教なるものは地上一切の経綸に対し、根本的に指導すべき使命をもつて居るものでなくてはならないのである。