文献名1三鏡
文献名2月鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3淋しいといふことよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1930(昭和5)年01月号
八幡書店版241頁
愛善世界社版
著作集138頁
第五版115頁
第三版115頁
全集527頁
初版92頁
OBC kg325
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本文
私は昔から淋しいと思つた事が無い。心細く淋しいといふ感が起るのは、霊性に塞がつて居る部分があるのである。囚はれて居るからである。何物にも囚はれない自由豁達な心で居れば決して淋しいものでは無い。囚はるる心には悪霊がやがて感応して来る。例へば人間が縛られて居ると、小さな蚊に刺されても、それを打払ふ力がなくて、大なる苦痛を感ずるのと同じである。両手が空いて居れば打払ふのにも手間暇はいらぬのである。囚はれた心は一寸した悪霊にも苦しめられて、それを打払ふ事が出来ない、あまり小さい事に囚はれて居ると、人間はだんだん心が小さくなつて終りには気が変になるやうな事にもなる。囚はれない、執着しない、大きな心に淋しみなんか湧いて来るもので無い。人の悪口など恐がるやうでは駄目だ、大きなものには大きな影がさす、出る杭は打たれる、じつとしてさへ居れば人にかれこれ言はれる事は無いけれど、問題にせられる位の人でなければ駄目だ。霊性の一部が塞がつて居る人は、霊界物語を読まぬからだ。重要なる神様の御用を承はつて居る人は、殊更物語を拝読して置かぬと霊性が塞がつてをつては、本当の御用は出来ない。