文献名1大本神諭
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3大正6年旧1月22日よみ(新仮名遣い)
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データ凡例
データ最終更新日2017-08-12 22:54:03
年月日1917(大正6)年2月13日(旧1月22日)
神霊界掲載号大正8年10月15日号(第96号) 22頁(次号に続く)
神霊界八幡書店復刻版第5巻 460頁
七巻本第6巻 197頁
五巻本未調査
三五神諭なし
東洋文庫天の巻なし
東洋文庫火の巻なし
連合会水の巻なし
大本史料集成未調査
庶民生活史料集成なし
OBC os218
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本文
是迄の世は悪の世で世に出て居れる方の霊が皆俺が上位、身魂が高いと思ふて、何も判らん身魂が悪の経綸で何処迄も行ける様に思ふて国を思ふて仕て居る事が間違ふて居るから此迄の事はチットも用ひられんから、罪科のある国土には夫れ夫れの、罪科のある丈けの懲戒があるから、大出口直にモウ一度詳細とある所を申して与るぞと御筆先に書いて知らして在るぞよ。何なりと問いたい事があるなら、徹底的説いて聞かせるから、不足のある守護神は大本へ出て来て、膝つき合はして御話し為たり聞いたり致して打解けて来ねば、モウ間が無いやうに世界の事が差し迫って来て居るから、仕直しはチットも仕て居れんから、不足言う事の出来ん様に、何も筆先で気が附けてあるから、各自に腹の中の掃除を致して神国の間に合ふ様に成りて居らんと、十年余りて立替が延びたぞよ。世界はドウ仕様も無い事に動きもにじりも出来ん様に成りて来て居るから、始まるも何も一所に成りて来るぞよ。延ばしても早ふ致してもある丈けの事はありて了はねば、何も無しに済ませる事は出来んぞよ。改心の出来る様に大本内え引きよせて早う神徳を取らしたいと思ふて、口で申し筆先きで気を附け噛みて口え入れて呑み込みたら、良い様に為て聞かしても判らん身魂は何も判らん。好意的訓戒が逆様に感得れて早う先え行けんから神も骨が折れるし、其の仁が苦しみが増えて永う苦しむぞよ。身魂を磨かんと悪い霊が憑りて悪く成るから、改心致せよ、身魂を磨けと申して、何時迄も同じ様な事に気を附けて見せても、逆様に感得りて神業が遅く成る斗りで、苦しむ者が我れの心で身を攻めるのであるぞよ。判らん身魂程苦しむぞよ。素直な身魂は早う良くなるぞよ。我意的の心で身を攻めるから、神も永く苦しみて世界中が難渋を致すが、何時迄も同じ様な事を書いて知らせな成らんとは、誠に非道い事に汚りたものであるぞよ。申す様に心の持ち方を変えて居れば、神も喜びが早く成るなり、人民も其の場から心配が無くなりて、喜ぶ方え近ふ成りて何彼の事が経綸通りに成りて来て、末代の世が楽に暮せる様に成るのであるぞよ。天と地との先祖が世の元から此の世に成りて来る事がよく判りて居るので、世の元から仕組みてある事が時節で回りて来るのであるから、違ふ筈は無いぞよ。此の世へ出て守護して居れる守護神には判らん事であるから、変性男子の御魂の宿りて居る大出口直の手で、元の地の先祖の大国常立尊が仕組の事を書き知らすのであるぞよ。
変性男子で無いと今度の筆先は、他の身魂では書けんのであるから、一度書かした事の違はん筆先であるぞよ。
大正六年旧正月二十二日(続)
此の筆先を疑ふ身魂は、思ふ様には行きは為んぞよ。疑ふ身魂は苦しみて何を致しても、仕直し斗りを何時迄も致して、先さえ行く事がチットも出来んぞよ。夫れでも疑はんと申して居りて矢張り疑ふて居ると、物事は成就を致さんのは心に違ふ所があるからぢゃぞよ。是迄の様に思ふて我れの一存で勝手に致しても、充分の事が出来んのが世が変るのであるぞよ。我れの世で無いと充分の事が出来んのであるぞよ。他人の世の間は我が自由に成らんで、何を致しても我れの思わくには行かぬ。我の勝手に成らんのが我が世で無いのじゃ。何も命令を下げて頂いた丈けの事を致せば思ふ様に行くなれど、天地の先祖が世を持たねば、命令を下げる神が違ふたら、チットも物事は成就せんぞよ。
末代の天地の岩戸を開く折に、御手伝ひを初発に遊ばしたのが、女であれども竜宮の乙姫殿であるぞよ。夫れで、大出口直の子日の出の加美に、大望な御用を申し付けて、今に苦労が為せてあるぞよ。結構な大望な御用であるぞよ。身魂の因縁性来の良いので無くば出来ん、大望な用が為して在るから、人民では出来上りて了はんと、見当は取れんぞよ。身魂さえ磨けたら何んな事でも見えも判りも致すなれど、身魂が曇りて居ると、心が汚れて居るから、大本内に引っ着て居りても判らんので、其の事を盲目聾者の世の中で在ると申すので在るぞよ。身魂が揃ふて磨けたら、水晶の世に成りて、何も見え透く結構な世と成るのに、余り心が見苦しいから、皆が思ひ思ひの心に成りて、チットも誠の事は出来は為ぬ、実地の元の生神は、心の誠を好くので在るから、上手口申して機嫌を取る様な身苦しき人民は誠に厭で在るぞよ。神代に成ると神も人民も同じ心だ、夫れを神代と申すぞよ。今迄は神代一代の世の末と成りた末法の世で在るから、外国の害を致すカラミタマに、日本の国の大和魂を引き抜かれて、日本の人民が薩張りハイカラに成りて了ふて、チットも光りが出ん様に、間に合はん様に成りて居るから、天賦至霊至魂に致さうと申して、茲までに神諭ても、上の身魂は判り良いなれど、下素の身魂がドウにも判かりかけが致さんが、茲までは何でも改心を為してと思ふて、ドウゾして日本の国の人民を、大和魂に仕てと思ふて言ふて与る程、一日増しに悪く成る斗りで、改心の仕掛けが出来んから、悪で薩張り詰まりて了もふて、面白い程昇りて了ふて、何も判らん暗雲の世に成りて居る悪の性来を、吃驚箱を開けて、善え立ち復らしたいと思ふて、種々と骨を折りて見ても、性来と言ふものは何時に成りても、金は金の性来で性来を直す事は出来んから、悪が茲まで昇りたのじゃ、今充分気が附て来て居れど、モウ茲までに日本の国を犯侵たのが、悪では将来が違ふから、元え復整す事は出来やうまいがな。日本の国は大和魂に揃へねば、天爾之真旨で無いから、混合雑物はチットも出来んから、金は金で撰り分けて、将来の悪いのは、日本の国には住く事は出来んから、日本の国に生出た守護神は、可成く日本の中で御用が命たいので、神が心を砕くので在るぞよ。茲までに仕放題に上り詰めた悪の世を、善一つの世に致すと言ふ事が、何も無しに変りさうな事は無い、此立替が何よりも大至難な神業で在るぞよ。明治二十五年から大出口直の手で、昔から遺書にも遺言にも書物にも無い事を、茲までに世に落して、智慧学で判らん事を、いろは四十八文字で書きつくして在る事が違いはせんので在るぞよ。二度目の世の立替は、此の世が出来てから無い大望な事で在るのに、人民では判らん事なり、判らねば成らんなれど、此の世が薩張り覆り反りて居るので在るから、是れ程大雄崇な事が、人民が末代集りて掛りて致しても、出来る事で無いと申して、神諭では、知らして在るなれど、何時も鳴く鳥の如うに思ふて、嘲笑明で聞いて居る人民斗りで、辛いのは、大本の中の元の御用を致す、変性男子と変性女子とで、此の御用は外に補助の出来ん、大経緯な御用で在るから、邪魔丈けを致さん様に仕て貰いたいぞよ。大きな邪魔が出来ると、総崩壊に心配を致して、物事が遅く成りて、善い事はチットも出来んぞよ。今に成りて居りても判からんと、大きな邪魔が出来ると、時鳥と同じこと、直の御用は、喉から血を吐きもってでも、仕直しを致さねば成らん、大望な御用で在るぞよ。男子女子の真似も為て貰へんぞよ。時鳥声は聞けども姿は見えぬ、鬼門の金神は陰から守護を仕て居りたなれど、モウ蔭からの守護では、世が立ちて行かんから、表に現りて、天と地との元を建造た先祖が、此の世はコウ言ふ世の持ち方に致さねば、立ちては行かんと言ふ事を、天晴れと世界中へ、天地の吃驚箱を開けて、此れが天地の吃驚函で在ると言ふ事を、世界中へ一度に開いて見せて与ぞよ。今度天地の岩戸が開いたら、末代モウ閉らんぞよ。大望な岩戸開きで在るから、下準備に時日が入りたなれど、始めかけたら、天地の始まりを創造るよりも大事業なことなれど、何も誤計の無い様に、手の掌を覆す如くぢゃぞよ。是れ程大望な事でも、バタバタと成就致すぞよ。末代の世を、ミロク様の教通りの神世に致す、二度目の世の立替で、天地が揃ふて、神力が能く判りて、末代の事が定まるので在るぞよ。此の世を経綸と言ふ事は、余程神力の在る活魂で無いと、末代の世を立る事は出来んぞよ。元の地の先祖を押込めて、茲までに世を開く程、悪力の在る極悪の頭でも、茲までの事より出来んが、夫れと申すは世の持ち方が判らんからぢゃぞよ。天は根本のミロク様なり、地は大国常立尊で、天と地とが揃て来たから、此の先は世の元の生粋の一輪神力の御手伝で、何彼の事を、仕組通りを現はす時節が循りて来たから、何も筆先通りの経綸を開くから、何所も恨む所は無いので在るぞよ。神の申す事が判る人民の無いのは、守護神の業であるから、茲まではドウしてなりと衆を済けてと思ふて、種々と言ひ聞かしたなれど、実地を聞く守護神が無いから、人民にも誠と言ふ事が、腹の奥に無い様に成りて了ふて居るから、何程誠の事を申して与りても、やう判けんので在るぞよ。腹の中に誠が無いと、誠の神徳は、有難い斗りでは、実地の神の申す事が汲取れんから、誠の事が判らんので実地の神徳は渡されんぞよ。誠一つを貫きて来た地の先祖を、誠が強過ぎて、コンナ力の有る神を地の大将に為て貰ふたら、他の神は一人も能う勤めんと、皆の神の心が一つに成りて、ミロク様へ御願ひを成されたら、夫れなれば大勢と一人とは換えられんから、艮い押込めいと、天の御先祖様の御命令で、押込められた御蔭で、本来の御用を為せて頂く時節が循りて来て、実地誠を貫ぬいて来た御蔭で、昔の元のミロク様の世に復帰らせて頂いて、是迄は道が善悪両道在りたのが、是の先きは道を一すじに致して、小言の起きん様に、何も昔の元の結構な神の世と成るので在るから、是迄の行り方の守護神は辛く成りて、大本の中では辛棒をやう為ん守護神が沢山出来るぞよ。
是迄のハイカラは辛く成るぞよ。エラ相に思ふて居りた守護神程辛く成るぞよ。気を附ける中にチト判りて、行儀行ひを変えて居らんと、俄かに今日から、茲まではびこりて浸み切りて居るハイカラが、世を持つ神の道え乗り替える事は、ナカナカ辛ふて、改心しても間に会はず、止むを得ず救からんことが出来致すから、聖連関発の時節が循りて来た折りには、昔の元の根本の御道の事情が判りて居らんと、苦しみてキリキリ舞ひを致しても、ソコに成りてからは、何程力の在る神でも救ける訳には行かんぞよ。能く判る身魂はキリキリ舞を致して喜ぶ事が出来ると言ふ事が、耳に蛸が出来る程知らして居るなれど、実地の判る身魂が無いので、何時迄言ふて居りても、功能が無い事に、永う掛りて居りても、善い事は一つも出来はせんから、実地を初めるから、其処に成りてから不足を申して来ても、神は御相手によう成らんぞよ。天地の先祖と直の取次ぎの心を知りて呉れる身魂が無いので、実地を言ふて聞かせると、ヲドス様に思ふて、神の名を悪く致すし、言はな陽気に成るし、判らん身魂の御機嫌を取のに往生を致すぞよ。判る所へ判りて来たら、善と悪との身魂を立判るから、ソウして立替立判を致さねば、仕掛けが出来んから、日本の仕組通りに判る所へ判りて来るのは、天地の先祖が此の経綸を知食ずに居りたら、判る処へ未だ未だ判らんから、世界が大変此の先は苦しみが出来るなれど、元の仕組通りの制敗に取掛るぞよ。此の先きの世を、日本の経綸通りに致して埒よう致さねば、此の世が立ちて行かんが、何も、外国の経綸を知らん身魂で在りたなら、此の先は泥海に成るかと言ふ境ひの大峠げで在るぞよ。変性男子と変性女子との御魂がこしらへて在りて、此の身魂がビクリとも仕て居らんから、今度の二度目の世の立替が出来るなれど、茲え成りて来た折りには、何彼の用意を致して居りて、難渋な事が世界に在れば、何んと無く何処へも響くから難渋を致さいでもよい様に、神に信頼様に、今に続いて知らしても近傍ほど慢心気味が出て何も判らんから遠国から前に判りて来て膝下が後から徐々と判り掛けるぞよ。実地の生神は暑さ寒さの厭いはせず、夜る昼寝も致さんと実地を致さねば、人民ではよう致さん事が沢山在るから、実地を始じめると申して、筆先に知らして在るなれど、馬の耳に風吹く如く、此の難事業が此の世え出て居れる守護神に、何も判かりて居らん故に、日本の人民に何も判らんので、天地の先祖の骨の折れると云ふものは、此の世が出来てから無い、大難苦業な二度目の世の立替で在るぞよ。何時迄言ひ聞かして居りても判らずに、国の害斗りを致すカラ御魂に成り切りて居るから、正実の無いハイカラと申すので在るぞよ。無惨い様に、ようも是れ丈け何も判らん暗雲の世に成りたものぢゃ。悪い方へは皆うつり安一から、世の元から旧道と新道と道を二条に仕て置て、何方の道行くか見て居れば、楽な方へ皆付て了ふて、旧道えは来る人が無かりたぞよ。楽な方は、物質万能から学の道を造いて、此の学で、モウ一つ悪を強くして、女ももっと生意気に致し、小供をモウ一つ悪賢ふ仕入れて、此の状態で世の立替を致さずに、悪の頭の目的で末代行て行うとの、エライ陰謀を仕て居るなれど、日本の国の霊主体従の国には、モウ一つ深い経綸が仕て有るぞよ。日本の国は国は小さい国であるなれど、是れ丈け広い万国に、何んな事でも、学で出来る世の中で在るのを、学は使はん、世の元の初りのミロク様の、いろは四十八文字で通用を致す様に、昔の元え世を復して、末代の世が続いて行く様の仕組が、日本の始まりから致して在る、水も漏らさん大きな経綸が仕て有るのが、今判る様な、ソンナ浅い仕組は仕て居らんぞよ。国は小さうて神の数は少なふても出来る経綸が、世の始まりから仕組みて在るから、此の時節に成りたら、此の仕組が出て来る、其の世が済みたら、此の時節にはこう言ふ世が循りて来ると言ふ事が、末代の仕組が、世の元から致して在るぞよ。今度の二度目の世の立替は、物が違ふたら喉から血を吐きもってでも仕直しを致して、チットも違はす事の出来ん仕組が致して在るぞよ。末代続かせる世の立替で在るから、嘘を申したり、言ふた事を言はんと申したり、其んな心の変る様な事では、誠の事が成就せんから、何時に成りても変らん松心の、一度申した事は末代用る性来の身魂で無いと、大本の実地の御用は出来んぞよ。人の勧誘に乗たり、巧言令色を申す者に憑る様な悪の性来の守護神は、一人も誠の御用は為せんぞよ。口で巧い事を申して、心に誠の無き身魂は、使ふ事は出来んから、心を許す様な浅い心の身魂では、日々の間に合はんぞよ。トコトン心を試きて見て、是れなら間に合ふと云ふ様に成るのは、抜刀の中に立りて居る如くに思ふて居らんと、誠の神徳は出んぞよ。皆思ひが違ふて居ると言ふ事が、筆先に度々書いて知らして在ろうがな。思ひが違ふと途中で慮見の違ふ事が出来るから、誤解と慢神とが一番恐いぞよ。茲までに気が附けて在るのに、誤解を致したり、一寸心が違ふたら、悪い霊が違ふた心の肉体に掛りて悪い事を為せるから、貧乏動ぎも、気許しと言ふ事は、チットも出来ん大本で在るぞよ。其所まで判りて居る身魂が無いので、元の古き世の神は、何に付けても骨の折れる事で在るぞよ。実地の直接の取次ぎの骨の折れると言ふものは、夜分にも気を許して寝る事も出来んぞよ。大本の経綸が判る身魂は、何に付けても気を許すと言ふ事は、チットも出来は致さんぞよ。悪魔斗りの世の中に、誠と言ふ身魂は一厘で在るぞよ。九分九厘は皆敵ぢゃ。此の方からは敵には致さねど、衆の身魂が敵に成りて、悪き仕組を致すに掛りて居ろうがな。善と悪との立替で、世界中の困難で在るが、悪の方の仕組は、人の苦労で世を盗みて致した事ぢゃに依って、途中で世が乱れて、持ちも卸しも出来ん様に詰まりて了ふぞよ。こんな嘘天偽地で固めた暗雲の世を、善一つに立直すと言ふ事は、普大抵な事で出来んぞよ。善の道は茲まで隠忍不屈て来ねば、何事も出来が致さん、辛い御用で在るぞよ。