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文献名1霊界物語 第1巻 霊主体従 子の巻
文献名2第2篇 幽界より神界へよみ(新仮名遣い)ゆうかいよりしんかいへ
文献名3第12章 顕幽一致〔12〕よみ(新仮名遣い)けんゆういっち
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ高熊山山中における顕界と霊界の修行の実践を、大略述べてみたが、述べた部分は実はほんの一小部分にしかすぎない。すべて宇宙の一切は顕幽一致、善悪一如である。絶対の善もなく、絶対の悪もない。絶対の極楽もなければ、絶対の苦患もない。根底の国に堕ちて苦悩を受けるのは、自己の身魂から産出した報いなのである。顕界の者の霊魂は常に霊界に通じ、霊界からは常に顕界と交通を保っている。これは、幾百千万年といえども、変わることはない。天国浄土と娑婆社会は、本質はまったく同じである。ただ、その本然の性質を十分に発揮して適当な活動をするかしないかで、神俗、浄穢、正邪、善悪が分かれるのである。あることも天下公共のためにすれば善であり、私有のためにすれば悪ともなる。神は一切万有を済度しようとする。凡俗は我が妻子眷属のみを愛すだけである。人の身魂そのものは、本来は神である。したがって、宇宙大に活動できる天賦の本能を備えているのである。この天賦の本質である、智、愛、勇、親を開発し、実現するのが人生の本分である。肉体を捨てず、苦あり悪ある現実社会を離れず、これを美化して天国浄土を目の前に実現させる。これが自分が考える神性の成就であり、目的とするところである。
主な人物 舞台 口述日1921(大正10)年02月08日(旧01月01日) 口述場所 筆録者王仁 校正日 校正場所 初版発行日1921(大正10)年12月30日 愛善世界社版55頁 八幡書店版第1輯 65頁 修補版 校定版55頁 普及版29頁 初版 ページ備考
OBC rm0112
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本文  自分が高熊山中における、顕界と、霊界の修業の間に、親しく実践したる大略の一端を略述してみたのは、真の一小部分に過ぎない。
 すべて宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、絶対の善もなければ、絶対の悪もない。従つてまた、絶対の極楽もなければ、絶対の苦艱もないといつて良いくらゐだ。歓楽の内に艱苦があり、艱苦の内に歓楽のあるものだ。ゆゑに根の国、底の国に墜ちて、無限の苦悩を受けるのは、要するに、自己の身魂より産出したる報いである。また顕界の者の霊魂が、常に霊界に通じ、霊界からは、常に顕界と交通を保ち、幾百千万年といへども易ることはない。神諭に、……天国も地獄も皆自己の身魂より顕出する。故に世の中には悲観を離れた楽観はなく、罪悪と別立したる真善美もない。苦痛を除いては、真の快楽を求められるものでない。また凡夫の他に神はない。言を換ていへば善悪不二にして正邪一如である。……仏典にいふ。「煩悩即菩提。生死即涅槃。娑婆即浄土。仏凡本来不二」である。神の道からいへば「神俗本来不二」が真理である。
 仏の大慈悲といふも、神の道の恵み幸はひといふも、凡夫の欲望といふのも、その本質においては大した変りはない。凡俗の持てる性質そのままが神であるといつてよい。神の持つてをらるる性質の全体が、皆ことごとく凡俗に備はつてをるといつてもよい。
 天国浄土と社会娑婆とは、その本質において、毫末の差異もないものである。かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、何ゆゑに神俗、浄穢、正邪、善悪が分るるのであらうか。要するに此の本然の性質を十分に発揮して、適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、附したる仮定的の符号に過ぎないのだ。
 善悪といふものは決して一定不変のものではなく、時と処と位置とによつて、善も悪となり、悪も善となることがある。
 道の大原にいふ。「善は天下公共のために処し、悪は一人の私有に所す。正心徳行は善なり、不正無行は悪なり」と。何ほど善き事といへども、自己一人の私有に所するための善は、決して真の善ではない。たとへ少々ぐらゐ悪が有つても、天下公共のためになる事なれば、これは矢張善と言はねばならぬ。文王一たび怒つて天下治まる。怒るもまた可なり、といふべしである。
 これより推し考ふる時は、小さい悲観の取るに足らざるとともに、勝論外道的の暫有的小楽観もいけない。大楽観と大悲観とは結局同一に帰するものであつて、神は大楽観者であると同時に、大悲観者である。
 凡俗は小なる悲観者であり、また小なる楽観者である。社会、娑婆、現界は、小苦小楽の境界であり、霊界は、大楽大苦の位置である。理趣経には、「大貪大痴是れ三摩地、是れ浄菩提、淫欲是道」とあつて、いはゆる当相即道の真諦である。
 禁欲主義はいけぬ、恋愛は神聖であるといつて、しかも之を自然主義的、本能的で、すなはち自己と同大程度に決行し、満足せむとするのが凡夫である。これを拡充して宇宙大に実行するのが神である。
 神は三千世界の蒼生は、皆わが愛子となし、一切の万有を済度せむとするの、大欲望がある。凡俗はわが妻子眷属のみを愛し、すこしも他を顧みないのみならず、自己のみが満足し、他を知らざるの小貪欲を擅にするものである。人の身魂そのものは本来は神である。ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、実現するのが人生の本分である。これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。吾人の善悪両様の動作が、社会人類のため済度のために、そのまま賞罰二面の大活動を呈するやうになるものである。この大なる威力と活動とが、すなはち神であり、いはゆる自我の宇宙的拡大である。
 いづれにしても、この分段生死の肉身、有漏雑染の識心を捨てず、また苦穢濁悪不公平なる現社会に離れずして、ことごとく之を美化し、楽化し、天国浄土を眼前に実現せしむるのが、吾人の成神観であつて、また一大眼目とするところである。
(大正一〇・二・八 王仁)
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