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文献名1霊界物語 第6巻 霊主体従 巳の巻
文献名2第4篇 立花の小戸
文献名3第20章 善悪不測〔270〕
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ国祖はご退隠されてからも、神界現界の大災害が近づいていることを座視するに忍びず、天教山・地教山に野立彦命・野立姫命と現れて、しばらく救世の神業に携わっていたのであった。
しかし撞の御柱の神、天の御柱の神、国の御柱の神がご降臨されて、修理固成の神業を成すことを見定めると、地上一切のものの大洪水からの贖いのために、天教山の噴火口に身を投げて根底の国・地汐の国へとそれぞれ下っていった。
淤能碁呂島の本体ともいうべき国祖と豊国姫命の身魂は、自身の一部ともいうべき天教山の烈火の中にもまったく損なわれることはなかったのである。
知恵暗く力弱い人間は、どうしても偉大なる神の救いを求めなければ、自力で吾が身の犯した罪を償うことはできない。善をなそうとしても悪を知らず知らずのなすのが有限たる人間である。
だから、人生には絶対的の善もなければ、絶対的の悪もないのである。これは、神は霊力体をもって万物を造ったが、霊は善・体は悪・力は善悪混合であるからである。善悪不二、美醜一如であるのは、宇宙の真相なのである。
天地陰陽相い和して、宇宙一切が保持されるのである。また善悪は時所位によって変わるのであるから、本当に善悪の審判ができる権限を持つのは、ひとり宇宙の大元霊である大神のみなのである。
人はだから、吾が身の悪を改め、善に遷ることのみを考えるべきであり、いたずらに他人を裁くべきではない。善悪愛憎の外に超然として、惟神の道を遵奉することのみである。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年01月20日(旧12月23日) 口述場所 筆録者外山豊二 校正日 校正場所
OBC rm0620
本文の文字数1989
本文のヒット件数全 1 件/地教山=1
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本文  国祖国治立命、豊国姫命の二柱は、千座の置戸を負ひて、根の国、底の国に御退隠遊ばす事となり、大慈大悲の御心は、神界、現界の当に来らむとする大惨害を座視するに忍びず、暫らく天教山および地教山に身を隠び、野立彦神、野立姫神と改名し、神、現二界の前途を見定め、
『ここに撞の御柱の神、天の御柱の神、国の御柱の神の降臨ありて、修理固成の神業も稍その緒に就きたれば、われは是より進みて幽界を修理固成し、万の身魂を天国に救はむ』
と、夫婦二神相携へて、さしも烈しき天教山の噴火口に身を投じ、大地中心の火球界なる根底の国に落行き給ひ、野立姫命は、これより別れて、その西南隅なる地汐の世界に入らせ給ひける。
 至仁至愛至誠至実の身魂は、いかなる烈火の中も、その身魂を害ふこと無く、いかなる濁流に漂ふも、その身魂は汚れ溺るること無きは、全く『誠の力は世を救ふ』の宣伝歌の実証なり。その身魂の偉大にして無限の力あるときは、心中一切の混濁溟濛なる貪瞋痴の悪毒なければ、悪心ここに消滅して、烈火も亦清涼の風となるなり。
 野立彦神、野立姫神は、さしも烈しき噴火口を、初秋の涼風に吹かるるがごとき心地して、悠々として根底の国に赴かせ給ひぬ。たとへば蚤や、蚊や、虱のごとき小虫は、『敷島』の煙草の吸殻にも、その全身を焼かれて、苦悶すと雖も、野良男は其の同じ煙草の吸殻を掌に載せて継ぎ替へながら、手の甲の熱さを少しも感ぜざるが如し。三歳の童子に五貫目の荷物を負はしむれば、非常に苦しむと雖も、壮年の男子は之を指先にて何の苦もなく取扱ふがごとく、すべての辛苦艱難なるものは、自己の身魂の強弱に因るものなり。罪深き人間の火中に投ずるや、限りなき苦しみに悶えながら、その身を毀り遂には焼かれて灰となるに至る。されど巨大なる動物ありて人を焼く可き其の火も片足の爪の端にて踏み消し、何の感じも無きがごとく、神格偉大にして、神徳無辺なる淤能碁呂島の御本体ともいふべき野立彦神、野立姫神においては、我が身の一端ともいふべき天教山の烈火の中に投じ給ふは、易々たるの業なるべし。
 智慧暗く、力弱き人間は、どうしても偉大なる神の救ひを求めねば、到底自力を以て吾が身の犯せる身魂の罪を償ふことは不可能なり。故に人は唯、神を信じ、神に随ひ成可く善を行ひ、悪を退け以て天地経綸の司宰者たるべき本分を尽すべきなり。西哲の言にいふ、
『神は自ら助くるものを助く』
と。然り。されど蓋は有限的にして、人間たるもの到底絶対的に身魂の永遠的幸福を生み出すことは不可能なり。人は一つの善事を為さむとすれば、必ずやそれに倍するの悪事を不知不識為しつつあるなり。故に人生には絶対的の善も無ければ、また絶対的の悪も無し。善中悪あり、悪中善あり、水中火あり、火中水あり、陰中陽あり、陽中陰あり、陰陽善悪相混じ、美醜明暗相交はりて、宇宙の一切は完成するものなり。故に或一派の宗派の唱ふる如き善悪の真の区別は、人間は愚、神と雖も之を正確に判別し給ふことは出来ざるべし。
 如何とならば神は万物を造り給ふに際し、霊力体の三大元を以て之を創造し給ふ。霊とは善にして、体とは悪なり。而して霊体より発生する力は、これ善悪混淆なり。之を宇宙の力といひ、又は神力と称し、神の威徳と云ふ。故に善悪不二にして、美醜一如たるは、宇宙の真相なり。
 重く濁れるものは地となり、軽く清きものは天となる。然るに大空のみにては、一切の万物発育するの場所なく、また大地のみにては、正神の空気を吸収すること能はず、天地合体、陰陽相和して、宇宙一切は永遠に保持さるるなり。また善悪は時、所、位によりて善も悪となり、悪もまた善となることあり。実に善悪の標準は複雑にして、容易に人心小智の判知すべき限りにあらず。故に善悪の審判は、宇宙の大元霊たる大神のみ、其の権限を有し給ひ、吾人はすべての善悪を審判するの資格は絶対無きものなり。
 妄に人を審判は、大神の職権を侵すものにして、僣越の限りと言ふべし。
 唯々人は吾が身の悪を改め、善に遷ることのみを考へ、決して他人の審判を為す可き資格の無きものなることを考ふべきなり。
 吾を愛するもの必ずしも善人に非ず、吾を苦しむるもの必ずしも悪人ならずとせば、唯々吾人は、善悪愛憎の外に超然として、惟神の道を遵奉するより外無しと知るべし。
 アヽ惟神霊幸倍坐世。
 録者いはく、『虚偽と虚飾の生活に囚はれたる現代人士は、此の一節に躓くの虞あれば特に熟読玩味することを要す』
(大正一一・一・二〇 旧大正一〇・一二・二三 外山豊二録)
(第一三章~第二〇章 昭和一〇・二・九 於那智丸船中 王仁校正)
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