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文献名1霊界物語 第12巻 霊主体従 亥の巻
文献名2前付
文献名3序文
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ教祖の筆先とは、霊眼に映った現在過去未来や神々の言霊を断片的に筆写したものである。
演劇にたとえてみれば、各役者のせりふを抜書きした、暗記用の覚書のようなものである。だから、神劇全体を目撃したものでなければ、その真意を評することはできないのである。
それぞれのせりふを集めて一つの芝居を仕組むのは、緯の役なのである。
霊界物語の役目とは、太古の神々の活動を始め、現在過去未来の神界の活劇を、断片的に示すことなのである。だから、教祖の筆先を緯役が勝手に組み替えた、というのは大なる誤解である。
むしろ、筆先の断片を抜き出して勝手に解釈し、真の神の教えを軽信した結果、昨春のような事件を引き起こしたのである。
物語は歴史のみでなく、教訓でもあり、筆先の解説でもあり、確言書でもあり、また大神劇の脚本でもあるのである。この物語に拠らなければ、神界の御経綸・御意思は到底分かるものではないのである。
物語は、数十万年前の霊界の事を示しているので、多々不思議な点がある。故に不審な点も多々あると思うが、筆先と霊界物語は経緯不離の関係にあることを考えて欲しい。
今まで緯役が発表した筆先の解釈は、緯役自身が神界の実地に触れて根拠のある点のみを、発表しているのである。それが理解できないのは、神劇を目撃していないからである。
それゆえに、霊界物語(=神劇)を発表することにしたのである。
筆先に一言一句も変えてはならない、とあるが、緯役にはよく調べて出してくれ、とも言っている。「変えてはならない」とは、緯役以外の者に対しての言葉であることを、混同してはならない。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年03月06日(旧02月08日) 口述場所 筆録者外山豊二 校正日 校正場所
OBC rm120001
本文の文字数2973
本文のヒット件数全 8 件/教祖=8
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本文  教祖御筆先と霊界物語に就て、少しく所感を述べて置きます。
 抑も教祖の手を通して書かれた筆先は、到底現代人の智識や学力で之を解釈する事は出来ぬものであります。如何となれば、筆先は教祖が霊眼に映じた瞬間の過現未の現象や、又は神々の言霊の断片を惟神的に録したものですから、一言一句と雖もその言語の出所と時と位置とを霊眼を開いて洞観せなくては、其真相は判るものではありませぬ。之を今日の演劇に譬て見れば、艮の金神の筆先の名の許に、塩谷判官高貞の言語もあれば、高野師直、大星由良之介、大野九太夫、千崎弥五郎、早野勘平、お軽、大野定九郎、加古川本蔵、桃井若狭之介などの役者が各自に台詞を使ふのを、由良之介は由良之介一人に対する台詞、九太夫は九太夫一人のみの台詞を集めたのが、教祖の筆先であります。所謂芝居の下稽古の時に、各役者が自分の扮すべき役目の台詞のみを読み覚ゆるための抜書のやうなものであります。故に、実際の霊界にある神劇を目撃したものでなければ、筆先を批評する事は出来ませぬ。例へば大星由良之介の台詞の筆先を見れば、実に感心も為し忠臣義士の模範とする事も出来ますが、之に反して九太夫の台詞を記した筆先を見る時は、実に嘔吐を催す而已ならず、実に怪しからぬ筆先に見えるのであります。故に神様は、三千世界の大芝居であるぞよと、筆先に書いて居られます。其各自の台詞書を集めて、一つの芝居を仕組むのが緯の役であります。故に霊界物語は筆先の断片的なるに反し、忠臣蔵の全脚本とも云ふべきものであります。筆先の中にも、智恵や学では此筆先は到底判るもので無い、因縁の霊魂に神界の実地が見せてあるから、其者と直とでなければ筆先の精神は判らぬぞよ、と記してあるのを見ても判りませう。又時と処と位置とに因りて、筆先の文句に異同あるのも当然である。軽々しく筆先は人間の論評すべきものではありませぬ。筆先は決して純然たる教典ではありませぬ。
 要するに、太古の神々の活動を始め、現在未来の神界の活劇を、断片的に示した台詞書きに過ぎませぬ。之を一つに取まつめてその真相を劇化して、完全に世人に示す様にするのが霊界物語編纂の大使命なのであります。右様の性質の筆先を一所に集めて、神劇の真相を世に発表せむと努力する緯役の苦心をも覚らずに、緯役が完全な筆先をワヤに作りかへたなぞと批評する人は、筆先の真の価値なり又神の御意志を以て、自分の意志と同一に見做した人々の誤りであります。教祖の書かれた筆先(台詞書)の九太夫の巻を見た人は、キツト艮の金神の教は悪であると云ふであらう。由良之介の台詞書を見た人は、定めて艮の金神の教を立派な結構な教であると云ふでありませう。この台詞書を整理して立派な神劇を組立てた上、始めて平民教育の芝居ともなり、バイブルともなるのであります。九太夫一人の台詞を見たり、由良之介一人の台詞書のみを見て、善だの悪だの忠だの不忠だのと批評するのは、批評する人が間違つて居るのであります。故に緯役は大正十年旧九月十八日、教祖の神霊の御請求に由つて、病躯を忍び臥床の儘霊界物語を口述することと致しました。然るに霊界物語は簡明を欠くとか、冗長にして捕捉する事が出来ないとか、複雑之を読むの煩に堪へないとか、神劇としても俗化して居て神威を冒涜するものだとか、甚だしきは緯役の精神そのものの発露だとか、種々雑多の小言を聞きますが、緯役として霊界物語を口述し始めたのは、今迄の信徒の方々が筆先の台詞書而も九太夫の台詞を真の神の教の如く軽信された結果、昨春の様な事件を突発する様になつたのだから、過失を再びせざらしめむとして、病中を忍び本物語を著述する事に成つたのであります。決して道楽や物好きでコンナ事が出来ませうか。
 馬琴は二十八年間を費して八犬伝を作りました。この霊界物語は、僅かに一年足らずの間にて口述日数は百五十日、而も八犬伝の三倍を超過して居る大部なものであります。何れも人間の頭脳の産物でない事は、少し著述に経験ある文士なれば一目瞭然たるべきものだと考へます。又中には、霊界物語は神幽現三界の歴史であつて、家庭の宝典たる教化的価値なきものだと云つて居る布教師があるさうですが、未だ霊界物語を読了せないからの誤りであります。第一巻より第四巻迄位を読むだ人は、教訓的よりも歴史的方面の多いものと思惟されるのは寧ろ当然だろうと思ひます。併し霊界物語は歴史でもあり、教訓でもあり、教祖の筆先の解説書であり、確言書であり、大神劇の脚本であります。この物語に依らなければ、教祖の筆先の断片的(台詞書)のみにては、到底神界の御経綸と御意志は判るものでは無いのであります。
 霊界物語の文句の中に、一旦帰幽した神人が時代不相応の後世まで生きて居て種々の活動をしたり、又ヱルサレムの都が現今の小亜細亜の土耳古であつたりするなどは、現代人の尤も疑ひの種を蒔くものと予期して居ます。併し何を謂つても数十万年前の物語であり、又霊界を主として口述したのですから、不審の点は沢山にあるでせう。口述者自身に於ても不審、不可解の点は沢山ありませう。筆先と霊界物語とは経緯不離の関係にある事を考へて貰ひたい。また今まで発表した神諭は、由良之介や千崎弥五郎の台詞のみを教訓として発表したものであります。たまに九太夫の台詞のやうに人に依つて感じられる点がある様なのは、其人が神劇の全体を見て居ないから起る誤解であります。由良之介でも七段目の茶屋場あたりでは、一寸見ると九太夫式の言辞を弄してゐる。されど彼の心中は決して悪ではない。緯役として今まで発表した神諭を、九太夫式の点がある様に解するのは、霊界の真相が解らないからであります。何れも緯役として解決の着かない様なものや、悪言的の筆先は決して発表はして居ませぬ。精神のゆがみたる人が見たら悪く見えるであらうが、緯役として神界の実地に触れ根拠ある点のみを選抜して神諭とした迄であります。悪く見ゆるのは神霊の活劇を見ないからであります。故にその蒙を啓くために、本書を発表する事となつたのであります。
 中には『筆先は一字も直すことは成らぬぞよ』とあるのを楯に採り、緯役が直したのが不都合だと謂つて居る人がある。是も一を聞いて二を知らぬ人の誤りである。変性女子は緯役だから書き放題に出口直に書かしてあるから、女子がよく調べて直して出して下さいと示してある。是が緯役としての使命である。『一字も直す事は成らぬぞよ』と示されたる意義は、変性女子以下の当時の筆記者に対して示された筆先の詞である。之と混同して緯役を云々するのは少し早計でありませう。
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