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文献名1霊界物語 第12巻 霊主体従 亥の巻
文献名2第4篇 古事記略解よみ(新仮名遣い)こじきりゃっかい
文献名3第30章 天の岩戸〔526〕よみ(新仮名遣い)あまのいわと
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ御統麻琉(美須麻琉) データ凡例 データ最終更新日2021-06-12 12:28:55
あらすじ天照大御神はあまりのことに、天の岩戸に籠もってしまったが、これは現代で言えば、主宰の地位を辞職された、ということである。世の中の統治が崩れて混乱した。そこで貴賎の別なくすべての人々が国家を憂い、集まって議論をした。そして思兼の神の発案によって、天から下った教えを取り、世を治めるために必要な武具を作り、霊能の反映であり言霊である鏡を作ったのである。そうして、神占を行って神勅を乞うたのである。その結果、祭典を行って天神地祇を祀らねばならぬ、という結論に決まった。神楽の準備をなされた。今日の世の中は、ちょうど神楽の獅子舞のように混乱紛糾の極みにいたっていると見ることができる。天の宇受女命とは、難局に当たって活躍する男勝りの女である。それが飛んだり跳ねたり、国家的大活動をなした、ということである。そこで八百万の神々らは元気付いて、どっと笑った。信仰ができて神の御心がわかったならば、国家的な大難にも、談笑遊楽のうちに対処することができるようになるのである。天照大御神の姿が鏡に映ったというのは、鏡は言霊であるから、八百万の神々が言霊によって岩戸を開いた、ということを意味しているのである。一つの大きな言霊を為して、天照大御神をお寄せになった、ということである。さて、岩戸が開いた後、岩戸を閉めた者を罰しなければならない。しかし岩戸が閉まった原因を作ったのは、本来はほとんど世界中の八百万の神々の責任である。しかし全員を罰するわけにはいかないので、贖い主を立てる必要がある。罪ある神々は自分を省みず、もったいなくも須佐之男命御一柱に罪を負わせて、根の堅洲国に追放されたのであった。変性男子の役目は統治であるが、変性女子の役目は、この世が続く限り、罪人のためにどこまでも犠牲になる、ということなのである。
主な人物 舞台 口述日 口述場所 筆録者松村真澄、谷村真友[#講演筆録] 校正日 校正場所 初版発行日1922(大正11)年9月30日 愛善世界社版273頁 八幡書店版第2輯 728頁 修補版 校定版289頁 普及版121頁 初版 ページ備考
OBC rm1230
本文のヒット件数全 1 件/伊斯許理度売の命=1
本文の文字数6957
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本文  今迄耐へに耐へておいでになつた天照大御神は、余りの事に驚き且お怒り遊ばして是ではもう堪らぬといふので、天の岩屋戸を建てて直様その中にお入りになり、戸を堅く閉してお籠りになつて了つた。是も亦形容でありまして、小さく譬て見ますれば、この東京市は市長が治めて居る。然るに到底私の力では東京は治まらない、仕方がないと言つて辞職して了ふ。市役所に出て来ない様になる。一国に就て言へば総理大臣が私の力でこの国は治まらないからと言つて辞職して了ふ。一国にしても一市にしても、主宰者が居らぬでは外の者にはどうする事も出来ないと云ふ其人に辞職されて了うたなら其国なり其市なりはどうでせう。詰り此只今でいふ辞職といふのが、天の岩屋戸へ天照大御神がお籠りになつたと同じ様なことであります。
 『即ち高天原皆暗く葦原の中津国悉に闇し』
 真暗闇では何うしようにも方針がつかない、葦原の中津国の大政府が仆れた為に其所在地たる高天原を初め全国が火の消えたる如くになつて了つた。下の方の者では施政の方針は分らない。どうもかうも手のつけ様がない。
 『茲に万の神のおとなひは、五月蠅なす皆湧き、万の妖悉に発りき』
 今度はもう昼も夜もない真暗がりぢや。斯うなつて来ると世の中はどうなり行くか、丁度今日に就て考へて見ると面白い。政治は勿論教育も経済も、内治も外交も滅茶苦茶である。一切万事真暗がりの世になつてゐる。どこにどうしようにも見当がつかない。斯うなつて来ると、此に発して来るのは各階級の風俗の紊乱であります。不良人民が殖ゑ窃盗が横行し、強盗が顔を出す、神代に於ても、万の妖が総ての事に、彼方にも此方にも五月の蠅の如くに発生して来たのである。之を天の岩屋戸隠れと申すのでありますけれども、今日の世態を考へますと、恰も神代に於ける岩屋戸の閉てられた時と同じやうに思はれます。
 『是を以て八百万の神』
はどうする事も出来ないから、
 『天の安河原に神集ひに集ひて』
相談をなされた。之を高天原即ち天上の議場に集まつたのだと云ふ人もあります。平等なる神々様が、物を洗ふ、流すと云ふ意味の公平無私なる土地に集まつたのであります。安ということは安全と云ふことで、この安らかなる地点即ち風水火なり饑病戦なりその他総ての禍災を防ぐことの出来る、然も何等圧迫を被ることのない場所であります。さうしてこの清らかな場所へは、上下貴賤の区別なく総ての人々が、国を憂ひ、国家を救はなくてはならぬと云ふ、潔らかな精神を以て集まつて来たのであります。
 『高御産巣日の神の御子、思兼の神に思はしめて』
 この思兼の神は今日でいうと枢密院の議長といふ様な役目であります。一番思慮の深い人、さうして神の教を受けた人、この人に天の岩屋戸を開き天下を救ふべき方法を尋ねまして、その結果、
 『常夜の長鳴鳥を集へて鳴かしめて』
 常夜といふのは常闇の世の事であります。即ち永遠無窮に日月と共に、国事に就て憂ひ活動をして居る神、此等の神等を集めて泣かせるといふのは各自に意見を吐かせると云ふ事である。その結果、
 『天の安の河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人、天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売の命に科せて鏡を作らしめ』
 この堅い石を取るといふことは、皇化万世動かぬ岩に松といふ、天から下つた所の教を取るといふことである。天の金山の鉄を取るといふことはどちらもカネである。鍛人、これは鍛冶屋といふ意味でありますけれども、総て世を治めるに必要なる道具、一切の武器などを拵へたのであります。次に鏡を造らしめる。鏡は人物の反映である。霊能の反映である。故に歴代の天皇は之を御祀りになつて居る。鏡は皇室の宝物になつて居るのであります。鏡は神であります。さうして言霊であります。言霊七十五音を真澄の鏡と申します。三種の神器の一を八咫の鏡と申すのは即ち七十五声の言霊であります。それから言霊が日本人のは非常に円満清朗であるといふのは、是は日本の国に金の徳があるからであります。地の中に金といふものが多い、外国と違うて黄金の精が多い。故に日本人の音声は清いのであります。鳴物でも金が入つて居ると善い音が出ます。金の多いと云ふ事の為に天の金山の鉄を取りてと出て居るのであります。それから伊斯許理度売命に鏡を作らしめるとは、伊斯許理度売命の伊は発音であつて、斯許理といふのは熱中することで、一生懸命に国の為に奔走する神、さういふ神を寄せて言霊の鏡を作らせたのであります。次に、
 『珠を作らしめ』

 『天の香山の真男鹿』
の角を取つて占なはしめることになつた。天の香山といふのは鼻成山と云ふ意義で、神人を生かす山の事であります。此
 『天の香山の真男鹿の肩を打抜きに抜きて』
 さうして何ういふことをしたらよいか神勅を乞はれたのであります。今の神占は殆どそんなことはありませぬが、昔は鹿の骨を火に焼いて、その割目で吉凶を占うた。実際八百万の神が集まつて、種々雑多なことをして国の為めにどうしたらよいかと考へた。其中には易を見る神もあつたので御座います。易を見て方針を決めたり、其他いろいろに考へ、四方八方から考へて行つた結果、そこで初めて、岩屋戸を開くに就ては祭典をして天神地祇を祭らなくてはいかぬといふことに決つた。先づ、
 『真賢木を、根抜に掘て、上枝に八咫の勾珠の、五百津の御統麻琉の玉を取り著け、中枝には、八咫鏡を取りかけ、下枝に、白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて』
 つまりこれは今日で言ふ神楽であります。伊勢神宮では昔から十二組の大神楽がありますが、これは岩屋戸開きの事をお示しになつて居るのであります。
 前にも申上げましたやうに現代の世態を考へますると今日は所謂世界の大神楽を奏しなくてはならぬときであります。あのお神楽のときに出て参りまする翁獅子、あれは既に大きなおそろしい面をした獅子を被つて、刀を口にくはへ毛を下らして居る。この形は何であるか。眼は金、鼻の孔も金、歯も金、而も其口を動かして、本当に恐ろしいやうであるけれど、真中には人が入つて操つて居るばかりか、頭の方こそ立派だが後の方には尾も何もない。だんだらの条のやうなものが入つてゐる布に過ぎない。そこにも人が隠れて居て前の者と調子を合せて操つて居る。これが獅子舞の真相であります。所で今日の世界の外交術は皆この獅子舞であります。表面は非常に大きないはゆる獅子口を開けて、今にも噛みつきさうにして、怖ろしいやうであるが、中に入つて見ると、人が獅子の口を開けて舞うてゐるのである。ちやうど今日は神楽をあげてゐるのである。それから大神楽のときに芸人が鞠を上げたり、下したりする。これは霊の上り下りを示して居るのである。また一尺位の両端に布切れの付いた妙な棒のやうなものを上げたり下したりする。これは世の中の柱が、上のものは下敷となり下のものは上になりて行く、即ち立替をするといふことを示してあるのである。それから盆の上や傘の背に一文銭を転がせて一生懸命きりきり廻して居る。これは何をして居るのであるかといふと、今日の世の中は金融が逼迫して、一文の金も一生懸命に走り廻つてゐる。千円の財産でもつて一万円も二万円もの仕事をしてゐる。だから一朝経済界の変調が起るとポツツリ運転が止つて了ふ。そう云ふ工合に金融が切迫してゐると云ふ事を表してゐる。次に剣の舞をやつて居る。頭を地につけて反り身になつて一生懸命にやつてゐる。これはいはゆる危険な相互傷き倒れると云ふ戦争をして居る意味である。それから茶碗に水をつぎ込み長い細い竹の先にのせて、下から芸人がキリキリ廻して居る。あの通り危い。茶碗が落ちたらポカンと割れる。無論水はこぼれる。所が落ちないのはこのキリキリ廻して居る竹の所が要であるからで、すなはち要を握つて居るからであります。要と云ふものは中心である。いはゆる神であるからして引つくり覆らぬ。又おやまの道中と云ふ事をやりますが神楽が出来て、獅子舞姿でおやまの道中をして居る真似をする。ちやうど今日の世の中の様に男の頭の上に女が上つて居るやうな工合になつて居る。それから獅子の後持といふのがある。さうしておやまの道中には傘をさして妙な獅子舞を致しますが、今日の世の中に於きましても男が下になり女が上になつて之を使つてるのと同じ事でありますが、またこの獅子舞は達磨大師の真似をして見せる。足を下にして大の字になつたり、逆様にひつくり返つたりして見せる。上になつたり下になつたりキリキリ舞をしてゐる。後持が大の字になつて見せたり逆様になつて見せたりする。上のも大の字、中のも大の字、あとのも大の字逆様ぢやと申して一生懸命やつてゐる。一方では大神楽の親父と云ふのがあつて、片方で芸人の真似をしては邪魔をしたり、いらぬ口を叩いたりして、頭をポンと敲かれたり、突かれたりしてお客さまを笑はせる。笑はせる丈ならよいが大変な邪魔をする。この親父は唖や聾の真似をして舞もせずに邪魔をする。今日の世の中にもかう云ふ獅子舞の親父がゐる。元老とか何とか言うて、若い屈強盛りの者が一生懸命に芸当をやつてゐる所へ口嘴を出したり、邪魔をしたりする、時には頭をポンとやられる。さうして一番しまひに弐円なり五円なりの金をせしめる、芸をすませて、親父はアバババと言うて帰つてしまふ。このアバババは言霊から申しますと、総ての物の終り、大船が海上で沈没をした時や、開いた口が閉がらぬ様な困つて失望したとき、どうもこうも出来ぬやうな苦境に陥つてしまつたと云ふ時の表示であります。兎に角、今日の世の中は大神楽を廻して居る時であります。神代の岩戸開きの神楽と、今日の世の神楽とは余程変つて居りますけれども、その大精神に於ては同一であります。
 神楽舞の時に囃子が太鼓を打つのは大砲や小銃弾や爆裂弾の響き渡る形容であり笛を吹くのはラツパを吹き立てる形容であり、銅鉢を左右の手に持つてチヤンチヤン鳴らし立てるのは、世界が両方に別れて互に打合ふといふ事の暗示であります。
 そこで、
 『天の宇受売命、天の香山の天の蘿を、手次に繋けて、天の真析を鬘として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戸に空槽伏せて』
 いろいろの葉を頭につけたり、葛を襷にかけたりして、岩屋戸の前へ行つて、起きたり逆様になつたり、足拍子を取つてどんどんどんどんやつた。
 『踏み動響し、神懸して、胸乳を掻き出で、裳紐を陰上に押し垂れき』
 岩屋戸を開く為に、宇受売の命が起きたり、逆様になつたり、一生懸命に神懸りをやつた。神懸りに就いてはここには省略する。これはその人一人の事ではありませぬ。宇受売と云ふのは、女の事を申しますが、俗に男女と言はれる女であつて、男のやうな強い人をオスメまたはオスシと言ひます。これは宇受売から初まつたのである。女は女らしくしなければならないので御座いますけれども、然し乍ら、天の岩屋戸の閉つたと言ふ様な国の大事の際には、女だとて女らしくして居られない場合があります。男も女も神様がなされました様に一生懸命になつて国事に奔走せなければならぬ。総て女と云ふ者は人の心を柔げる所の天職を有つて居ります。今誰も彼も、皆の者が岩戸開きの為に心配をしてゐる。顔をしかめて考へ込んでゐるその際に、宇受売命、すなはち男勝りの女が出て来て、とんだり、跳ねたり、腹匐うたり、面白い事をして見せたり、いはゆる国家的大活動をした為に、
 『かれ高天原、動りて八百万の神、共に咲ひき』
 一度にどつと笑つた。非常に元気づいて国家の一大難局を談笑快楽の中に治めて了つたのであります。現代に於ても女の方も活動して下されまして岩屋戸の開く様にせなければならぬと存じます。昔もさうでありました。
 『ここに、天照大御神、怪しと思ほして、天の岩屋戸を細目に開きて、内より告り給へるは』
 岩屋戸に隠れてゐられました大神様は、今私は岩屋戸に隠れて了つた以上は、葦原の中つ国も、天地も共に真闇になつて、さぞ神々は困つてゐるであらう、と思ふに何故か岩屋戸の外で、太鼓を打つ、鐘を叩く、笛を吹く、どんどん足拍子がする、宇受売の命が嬉しさうに噪ぐ、八百万の神たちが一緒になつてどつと笑ひ楽ぶ。余り不思議に思はれて中から仰せになつた。
 『吾が隠れますに因りて、天の原自ら闇く、葦原の中津国も皆闇けむと思ふを、何て天宇受売は楽びし、亦八百万の神、諸々笑ふぞ』
 何故そんなにをかしいか。すると天宇受売命が、
 『汝が命に益りて、貴き神坐すが故に、歓咲ぎ楽ぶと申しき』
 何でもその国に大国難が出来たときは皆なの顔色は変るものである。お筆先にも『信仰がないと正勝のときには大方顔色が土のやうになるぞよ』とあります。信仰が出来て神諭の精神が解り神の御心に叶へばやれ来たそれ来たと、勇むで大国難を談笑遊楽の間に処理する事が出来るのである。私は永年間御神諭を拝し、かつ御神意を少し許り了解さして頂いただけでも、心中平素に安く楽しき思ひに充ち、如何なる難事に出会しても左迄難事とも思はず、何事も神の思召と信じて、人力のあらむ限りを安々と尽さして頂いて居ります。凡て事業は大事業だとか、大難事だとか思ふやうでは、回天の神業は勤まらない。三千世界の立替立直しに対しても夫れが完成は浄瑠璃一切り稽古する位により思つて居らないのですから、実に平気の平左で日夜神業に面白く楽しく奉仕して居ります。然う云ふ工合に、総ての神様が信仰の下に、喜び勇んで元気よく活動されたのであります。それで何故、諸々笑ふぞとお尋ねになつた。そこで、あなたに優つた偉い神様がおいでになつたから喜び勇んで居りますと答へられた。
 すでにその前に天の児屋根命、これは祭祀のことを掌つた神様、後には中臣となつて国政を料理した藤原家の先祖であります。この神様がその時天神地祇にお供へをしたり、太玉命が太玉串を奉つて神勅を受け、一方占の道によつて、万事万端、ちやんと手筈が整つてあつたので御座います。所へ案の如く天照大御神様は、
 『愈奇しと思ほして』
そつと細目に戸をお開けになつた。するとそれがパツと鏡に映つたので、
 『天の手力男神、其手を取りて引き出しまつりき』
 その間に布刀玉命が注連縄をその後に引き渡して、此処より中にはもうお入り下さいますなと申した。これで天地は照明になつた。この鏡に天照大御神の御姿が映つたとありますのは、つまりは言霊で御座います。八咫の鏡は今は器物にして祀られて天照大御神の御神体でありますが、太古は七十五声の言霊であります。各々に七十五声を揃へて来た。すなはち八百万の誠の神たちがよつて来て言霊を上げたから岩屋戸が開いたのであります。天津神の霊をこめたる言霊によつて再び天上天下が明かになつたのであります。決して鏡に映つたから自分でのこのこ御出ましになつたと言ふやうな訳ではありませぬ。つまり献饌し祝詞を上げて鎮魂帰神の霊法に合致して、一つの大きな言霊と為して天照大御神を、見事言霊にお寄せになつたのであります。それから注連縄、これは七五三と書きます。その通り、この言霊と云ふものは総て七五三の波を打つて行くものであります。さうして注連縄を引き渡してもう一辺岩屋戸が開いた以上は、再び此が閉がらぬやうにと申上げた。
 『かれ、天照大御神、出で坐せる時に、高天原も葦原の中津国も自ら照り明りき』
 言霊の鏡に天照大御神の御姿が映つて、総ての災禍はなくなり、愈本当のみろくの世に岩屋戸が開いたのであります。そこで岩屋戸開きが立派に終つて、天地照明、万神自ら楽しむやうになつたけれども、今度は岩屋戸を閉めさせた発頭人をどうかしなければならぬ。天は賞罰を明かにすとは此処で御座います。が岩屋戸を閉めたものは三人や五人ではない、殆ど世界全体の神々が閉めるやうにしたのである。で岩屋戸が開いたときに、之を罰しないでは神の法に逆らふのである。併し罪するとすれば総ての者を罪しなければならぬ。総てのものを罰するとすれば、世界は潰れて了ふ。そこで一つの贖罪者を立てねばならぬ。総てのものの発頭人である、贖主である。仏教でも基督教でも斯う云ふので御座いますが、とにかく他の総ての罪ある神は自分等の不善なりし行動を顧みず、勿体なくも大神の珍の御子なる建速須佐之男命御一柱に罪を負はして、鬚を斬り、手足の爪をも抜き取りて根の堅洲国へ追ひ退けたのであります。要するに大本の教は変性男子と変性女子との徳を説くのであります。変性男子の役目と云ふものは総て世の中が治まつたならば余り六ケ敷い用は無い、統治さへ遊ばしたら良いのであります。之に反して変性女子の役はこの世の続く限り罪人の為めに何処までも犠牲になる所の役をせねばならぬので御座います。岩屋戸開きに就てはこれからさきに申し上げますと尚いろいろのことがありますけれども、今日はまづ岩屋戸が開いて結末がついた所まで申上げておきます。
(大正九・一〇・一五 講演筆録)
(大正一一・三・七 旧二・九再録 高熊山御入山二十五年記念日 松村真澄 谷村真友録)
(昭和九・一二・九 王仁校正)
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