青彦はなおも蜂に刺された苦しさに倒れたままであった。英子姫と亀彦は進みより、天津祝詞、天の数歌で傷を癒した。
青彦は感謝の念に堪えず、ひれ伏して礼をする。後ろの森林から聞こえる女の声が、三五教への改心を促すと、青彦はウラナイ教をやめて三五教のために働くことを誓った。
悦子姫には、天照大御神が懸っていたのであった。そしてこの場所は、昔この御山に自分が顕現した際に、産釜・産盥と称する天の真名井に禊して、神格を作り上げた旧跡であると明かした。
そして、ここに宮殿を造って自分の御霊を祀るようにと告げた。亀彦は、この谷川に身を清めて御舎を造り、神霊を奉祭して天下泰平国土安穏の祈願所と定めます、と答えた。
天照大御神は満足の意を表して、高津御倉に昇っていった。
三人は大神の神勅を畏みて、谷川に禊して天津祝詞を奏上し、忌鋤、忌斧を作って宮殿を造営し、百日百夜を経て工を終えた。そして天照大御神の神霊を招き奉り、鎮座式を奉仕した。これが伊勢神宮宮殿造営の嚆矢である。
これは今の丹後の元伊勢であり、この谷川を宮川と称える。この因縁により、大本開祖は明治三十四年旧三月八日、信徒を引き連れてこの場に禊を修したのであった。
産盥、産釜の清水は竜宮館の金明水に注ぎいれられた。次いで明治三十四年旧六月八日、沓島の山頂から大海原に向かって注ぎいれられた。これも天下修斎の大神業の一端と推察せらるるのである。