高天原の天国に昇る者は、地上にあるときその身内に愛と信との天国を開設しなければ、死後に身外の天国を摂受することはできない。
現実界にある間に、心身内に天国を造っておく必要がある。そのためには神を愛し、神を信じて無限絶対と合一しなければならない。人間は、無限絶対の一断片であるからである。
真神である天之御中主大神が、その霊徳を完備具足したとき、天照皇大神という。また撞の大御神という。
火の御祖神を高皇産霊大神と唱え、厳の御魂と申し奉る。
水の御祖神を神皇産霊大神と唱え、瑞の御魂と申し奉る。
以上の三神はそのご活動によって名称・働きに種々あれども、三位一体にして、天之御中主大神(大国常立命)に帰着する。
故に独一真神である。一神即多神、多神即一神であり、短く「主」という。厳の御魂は霊界人の主であり、瑞の御魂は現界人の心身内を守り治める主である。
死後の歓喜を受けるために、現実界で歓喜の生活を送ろうと思ったら、瑞の御魂の守護を受ける必要がある。瑞の御魂の手と口を通して示された言霊こそが、生命の清水である。
霊界物語によって、人は心身共に歓喜に咽び、永遠の生命を保ち、死後の歓楽郷を築くことができる。
天帝、すなわち主は、水火の息を呼吸して、無限にその生命を保ち、宇宙万有の生命の源泉となっている。
太陽は、また水火の息を呼吸して、恒温を万物に与えている。太陽神、太陰神、人間のそれぞれが呼吸する大気は、それぞれまた違っている。
現実界と精霊界では事象が違うのである。しかし互いに相似している。現実界は、精霊界の移写だからである。
高天原の天国は、主の位格によって高下の区別がある。主を見る各人の塵身また霊身の徳の不同があり、それによって上下・標準が定まるのである。天国には霊身の善徳によって種々の団体が築かれている。
天国外の罪悪不信の徒が主神を見ると、悪相に見える。
主神が天国の団体に姿を現すときは、天人の相に見えるが、他の天人とは天地の相違がある。
荒魂、和魂、奇魂、幸魂を主宰しているのが直霊である。四魂をまったく善と愛と信とに善動し活用するのを全徳という。全徳の霊身はただちに最奥天国に昇る。三徳が活用していると第二天国に進む。二徳は第一天国、一徳は最下天国に進む。
一徳一善もなき者は、草莽間に漂浪し、天の八衢に彷徨するのである。
悪が強い不信不愛不善の徒は、その罪業の軽重に応じて、それぞれの地獄に堕し、罪相応の苦悶を受ける。