真の神であり、厳瑞である主神に認められ、愛され、信じられ、また主神を認めて深く信じ愛する所には、必ず天国が開かれる。善徳が同じでないことから、主神を礼拝する方法もひとつではなく、そのために人が往生すべき天国に差ができるのである。
天国は、このような各種の部分から成るひとつの単元である。天国の円満具足の相は、これら部分が調和しているところから来るのである。また各部分に変化があり、その性質によって、円満具足の相が保たれる。
天国の全体は、ひとつの巨人に譬えられる。第一天国は頭部から頚部、第二天国は胸部から膝まで、第三天国は脚部と肘から先を成しているようなものである。
天国は上方にも、中間にも、下方にも存在する。それぞれに天人や精霊が住んでいる。各自その善徳によって住所を異にしている。
宇宙全体では、一物として失われるものはなく、また静止しているものもない。人間の意志や情動も朽ちないものである。霊魂不滅であるから、記憶や意思をもって天国に行くのである。現界へ再生するときは、肉体が弱小であるために、思い出せないだけなのである。また過去世の記憶は人生に益なく弊害があるために、思い出す必要もないのである。しかし天国に行くと、それはますます明瞭になってくる。そのため、天国では再生ではなく、復活というのである。
科学的な交霊論者の議論は、まったく無駄ではないにせよ、謎の間で板ばさみになっている。もはや時間を数えることができない世界へ、死者の後をほんの一足つけて行くだけなのである。
宇宙の真相は、二言三言では現せないし、言い表したとしても、決して現代人の脳に入りきらない。人間の分際としては、いかなる聖人賢哲も、天国や霊界の秘密・真相を握る事は不可能である。この秘密や真相は、宇宙それ自身と同等に無限、絶対、不可測、究極するところの無いものだからである。
死者が我々と交通可能なときには、死者の方でもたいして報告すべきことがない状態にある。一方で天国に登った後は、もはや交通はできないのである。