斎藤宇一の親父の機嫌が直り、また屋敷を修行場として貸してもらえることになった。霊をかけて火鉢を動かしたり、机を宙に上げたり土瓶を廻したりなど、霊学の研究に面白く没頭していた。
多田琴や石田小末の憑霊は、京都大阪に出てこれを見世物として興行すれば、金儲けと神様のお道の宣伝と一石二鳥だと喜楽を急き立てる。
喜楽はそんな芸をして見せるのは神様に対して申しわけないと思っていたが、しきりに勧められるので、それで神様のお道が開けるのであれば、と決心して産土神社に参って伺ってみた。
すると自分の腹の中から馬鹿と怒鳴りつけられ、そんなことをしたら凶党界に落としてやるぞ、と戒められ、この計画は取りやめになった。
あるとき多田琴は、園部藩主の指南番であった奥野操と名乗る武士の憑霊があり、荒んで喜楽の鎮魂も効かなくなった。そこで産土の社へかけつけて祈願をこらしていた。
すると石田小末が、武士の霊が鎮まったと告げに来た。行ってみると、奥野操と名乗る武士の霊は、死後自分を誰も弔うことなく迷っているので、祀ってくれれば神の座に直り、教えを守護すると約束した。
そして自分の墓を探し当てたら、その石塔を動かして知らせると告げた。喜楽は霊が教えたお寺や、武士の家来の子孫の家という宅を訪ねてみた。武士の名前はわからなかったが、戒名は的中していたので墓を探し当てたが、石塔はいつまで待っても動かない。
霊眼で調べてみると、石塔の浦に大きな古狸が見えた。喜楽は怒って修行場に帰り、多田琴の憑霊を詰問して霊縛をかけたが、逆に座敷中を飛び回る。喜楽はどうぞお鎮まりください、と頭を下げて優しく出た。
すると神がかりは大口を開けて大笑いし、実は自分は松岡であり、審神の修行をさせてやったのだ、と腹をかかえて笑いこけた。
にわかに部屋が死人臭くなってきた。霊眼で見ると、亡者の葬列が障子の細い穴から入ってくるのが見えた。亡者の先頭は、隣のお紋という娘の顔をしている。不快の臭気が室内に漂い、ランプやろうそくの火も次々に消えてしまう。
禊をして天津祝詞を一生懸命奏上すると、怪しい亡者の影は一人、二人と減って逃げ去ってしまった。
するとお紋の母親があわただしくやってきて、娘が病気になり、うわごとで喜楽の名前を呼んでいると言うのでやってきてみると、修行場で臭った不快な熱病のにおいが漂っていた。
喜楽は天津祝詞を唱えて鎮魂を施すと、お紋は『のきます のきます』と言って門口の方へ二三歩歩きだし、その場に倒れてしまった。それから病気はすっかり治ってしまった。
次郎松はいよいよ喜楽は飯綱使いだと口を極めてののしりまわった。