話は少しさかのぼって、明治三十一年の四月三日、神武天皇祭の日に、喜楽は早朝から神殿を清めて修行者と共に祭典を行っていた。そこへ、飄然として五十余りの男が訪ねてきた。
男は紀州の出身で三矢喜右衛門と名乗り、静岡県富士見村の月見里稲荷講社の者だという。巡回のおりにここの噂を聞きつけ、総本部の長沢総理に伺ったところ、因縁のある者だから調べてこい、と言われたという。
喜楽は高熊山の修行以来、霊学の問題の解決に精神を集中していたが、身内から村中の者まで、悪罵嘲笑の的となりなんとかして人々の目を覚まさねばらなぬと思っていた。
そうしたところ、長沢総理が霊学の大先生だと聞いて、光明を見出し、旅費を工面して生まれて初めて京都から汽車にのり、静岡の長沢先生宅に到着した。
そのころ長沢先生はまだ四十歳の元気盛りであった。霊学上の話や本田親徳翁の来歴など立て続けにしゃべりたて、その日は自分の住所氏名を告げただけで終わってしまった。
長沢先生の御母堂の豊子刀自は、本田親徳翁の予言した丹波からの修行者はお前さまのことだろう、と本田翁が遺したという鎮魂の玉、天然笛、神伝秘書の巻物を渡してくれた。
翌日は喜楽は自分の神がかりに至ったいきさつを長沢先生に詳細に物語り、その結果、先生が審神者となって幽斎式を執り行うことになった。その結果、疑うかたなく小松林命の御神懸ということが明らかになり、鎮魂帰神の二科高等得業を証す、という免状もいただいた。
喜楽はこれまで、数多の人に発狂者だ、山子だ、狐つきだとけなされてきたので、高等神懸だと判定され、長沢先生こそ大なる力となるべき方だと打ち喜び、直ちに入門することとなった。
それより一週間ばかり世話になり、ようやく穴太の自宅に帰ることを得た。三矢喜右衛門も一緒についてきたが、園部の下司熊吉と結託して、喜楽に対していろいろと反抗運動をなすにいたった。
下司熊は、斎藤宇一の叔母にあたる修行者の斎藤静子を妻とし、一派を立てようとしていた。しかし下司熊は腹心の財産を使いこんでおり、喜楽は斎藤宇一に頼まれて、所有している牛を売って弁済することになった。
しかし下司熊は芝居を打って、喜楽の牛を売った金をほとんど懐に入れてしまった。
その後、下司熊は石清水というところで村の神官と示し合わせて、観音像を埋めておき、お告げの振りをして像を掘り出した。それをご神体として信者を集めて一時は人気を集めていたが、警察に目をつけられてしまいはやらなくなってしまった。
そこで下司熊は再び園部に舞い戻って博徒となっていたが、病気になって夭折してしまった。
弟の由松は、下司熊に牛の代金をだまし取られたことを怒り、そんなことも知らすことのできない腰抜け神だと祭壇をひっくり返して暴れまわった。
喜楽は今後のことを伺うために産土の社に参拝したところ、神勅を受けた。小松林命曰く、一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組みで待っている人がいるから、速やかに園部方面に行け、と大きな声で決めつけられた。
それより喜楽は故郷を離れることを決意したのである。