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文献名1霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻
文献名2第1篇 千万無量よみ(新仮名遣い)せんまんむりょう
文献名3第1章 道すがら〔1038〕よみ(新仮名遣い)みちすがら
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-10-29 14:55:10
あらすじ『天帝一物を創造す。悉く力徳による。故に善悪相混じ美醜互に相交はる』とは、道の大原の最初に示された聖句である。全知全能の神が創造した世界になにゆえ、美醜善悪の違いがあるのかについては、いろいろと理屈をこねる人もある。しかしながらこれは全く力徳の塩梅によるものと断定を下してあるのは、万古不易の真理なのである。力徳は一朝一夕に説き明かすことはできないが、つづめて言えば、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八力の活動がどうなるかによって、善悪・美醜・大小・強弱が分かれるのである。大本では、人は万物の霊長であるのみならず、『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり』と断定しているのである。これも出口教祖の二十七年間の筆先の大精神を通観して得たところの断案である。天地経綸の司宰者である人間にも、また善悪・美醜・大小・強弱の区別があって、中には経綸の妨害をなす人間もたくさんに出来ているのである。この大原因は天賦の力徳の過不及による結果であり、いわゆる身魂の因縁性来によるものである。しかし人は神様に次いで尊きものであるから、世界を善に進め美に開くべき天職を、天賦的に持っているものである。人間は小なる神、神の生き宮としてこの世に生れ出たのである。そうである以上、終生神の御旨を奉戴して天地の御用を助け奉ることが、人として生まれ出た本文を尽くすことになるのである。人間は裸で生まれてきたから裸で死ねばよいという捨て鉢根性では、人生天賦の職責は遂げられない。それどころか、神界より選ばれて生まれさせていただいた大神の御聖旨に背く罪人となってしまうのである。天地神明の大業に奉仕し、政治を進め、産業を拓き、真の宗教を宣伝し、道義心の発達を助けて世界の醜悪を駆追し、真善美の天地に進めて行かねばならない。皇祖天照大神様の建国の御主旨は政教慣造の四大主義の実行である。政は万世一系、教は天授の真理、慣は天人道の常、造は適宜の事務。この四大主義を実践するのが人生の本分である。ただ天下公共のために自分としての転職を尽くし得ることが肝心である。役員や信者の中には、出口教祖のお筆先によって、私に対して空想を描いている人が多い。またなにほど筆先の精神を縦横無尽に説いても、それは教祖の筆先に出ていないと言って十分に感得させることができないことは、実に遺憾である。自分の肉体に対して好意を表してくれてはいるが、肝心要の真実の精神を汲み取ってくれるものが少ないのは、自分にとって最大の苦痛である。役員や信者の迷信を利用して猫をかぶっていたなら、物質的方面のことはどんなことでもできたであろう。しかしながら、自分の天授の良心が、どうしてもそんなことは許さない。神の道は方便や手段では行かない。至誠至直の神に仕える身分としては、神の大道より他の道を歩むことはできない。今日の場合にはいかにしても社会一般の誤解を正し、大本を正しく理解させることが必要であると感じたから、神様に一身をささげて口を提供し、物語を発表することとなったのである。混濁せる社会に対して一身をささげて五六七の御代に奉仕しようという誠の人は、一日も早くこの物語の精神に目をさまし、天下万民のために誠を尽くしていただきたいものである。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月14日(旧08月24日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年4月3日 愛善世界社版7頁 八幡書店版第7輯 159頁 修補版 校定版7頁 普及版2頁 初版 ページ備考
OBC rm3801
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本文の文字数3393
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本文
 『天帝一物を創造す。悉く力徳による。故に善悪相混じ美醜互に相交はる』
 これ道の大原の初発に示されたる聖句である。つらつら考ふるに、蒼空を仰望しても海原を見ても、山川虫魚を見ても、悉く善悪美醜の区別が様々あつて、『此世界は至善至美の神様がお造りになつた以上は、悪といふ事は微塵もなく、至善至美の物ばかりであらねばならぬ』と云ふ人がありますが、決してさうはゆきませぬ。或人が、喜楽に向つて詰問して曰く、
『天帝果して全智全能にして、万物を造りかつ真善美を好むものならば、何故其全智全能の神徳によつて、美なるもの善なるもののみを拵へて、醜悪なるものを拵へぬ筈である。神の意志果して真善美を愛するならば、元より善ばかりを拵へて置けば、別に悪を造つておいて悪を改めしめむとて宣伝に努力するの必要は無いではないか。要するに天帝は自分から醜悪なるものを造り、其醜悪を嫌ふと云ふのは自家撞着も甚だしい矛盾である。吾等はここに至つて全智全能の神を疑はざるを得ず』
と云つた人が沢山にあつた。然し乍ら何人と雖も今日迄の諸々の宗教、倫理、道徳説が貧弱なる頭悩に浸み込んで居る人の考へから見れば、実に尤も至極の疑問である。喜楽等も少年の頃から此問題には大変に心を砕いて来たものである。時の古今を問はず、洋の東西を論ぜず、凡ての哲学者、宗教家も此問題については頻りに研究をして居た様である。世界皆善論を唱へるものもあれば、世界皆悪論を唱へるものも現はれて居る。又『此世は夢の浮世ぢや』と云つて厭離穢土と称し、『未来の天国浄土を楽しむのが人生の大目的だ』などと区々の説を立て、所説紛々として落着く所を知らず、宙に迷ふて居る姿である。古今の学者が一人として今日に至る迄、大宇宙の本体を捉え、人生の真目的を諒解したる者は無い様である。仏教にしても儒教にしても、現代我国の十三派の神道宗教にしても、其他種々雑多の宗教にしても、決して宇宙の真相を解決し得た者は無い。然し乍ら尊い事には、我国には皇祖皇宗の御遺訓なる古事記、日本書紀其他の古書が伝はり、言霊の明鏡が歴然として輝き、宇宙の真理を解決すべき宝典に乏しくはなけれども、闇黒なる今日の思想界に於ては、此真理を諒解する丈けの偉人も賢哲も学者も現はれて居ないと云ふ事は、国家社会の為めに実に慨嘆の至りである。
 喜楽は幼時より我国体の淵源を極めむとし、且明治卅一年以後今日に至る迄、殆ど廿五年間、艱難辛苦を積み神界の真相の一端を極めた結果、宇宙真理の一部を『霊界物語』として発表する事となつたのである。道の大原の聖句にも、天地間の万物に善悪美醜の混交せるは、全く力徳の塩梅によるものと断定を下してあるのは、実に万古不易の真理である。
 偖此力徳と云ふ事は、一朝一夕に説き明す訳には行かぬ。約言すれば、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八力の活動の如何によつて、善悪美醜大小強弱が分れるのである。『人は天地の花、万物の霊長』と称へられて居るが、大本では一歩進んで、
『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり』
と断定を下して居るのである。これも出口教祖の廿七年間の筆先の大精神を通観して得た所の断案である。斯くの如く尊き天地経綸の司宰者たる人間にも、亦善悪美醜大小強弱の区別があつて、中には天地経綸の司宰者どころか、却て天地経綸の妨害をなす人間が沢山に出来て居る。斯くの如き人間が現はれて来るのは、要するに一つは教育の如何にもよるのは無論だが、真の原因は決してさうでは無い。肝賢の大原因は天賦の力徳の過不及による処の結果で、お筆先の所謂身魂の因縁性来によるものである。概して人間の肉体の善悪強弱は、凡て力徳の過不及により生ずる所の結果である。人の心の善悪智愚は元より教育によつて其一部分は左右せらるるものである。然し人は神様に次での尊きもので、世界を善に進め美に開くべき天職を天賦的に持つて居るものである。人間は小なる神として又神の生宮として此世に生れ出でたる以上は、終生神の御旨を奉戴し天地の御用を助け奉らねば、人と生れ出でたる本分が尽せないのである。人間は裸体で生れて来たのであるから、又裸体で死ねば宜いと云ふ様な棄鉢根性では、人生天賦の職責が遂げられぬのみならず、折角神界より選まれて神の生宮として世に生れさして頂いた、大神の御聖旨に背く罪人となるのである。
 人生の本分としては、第一に天地神明の大業に奉仕し、政治をすすめ、産業を拓き、且真の宗教を宣伝し、道義心の発達を助けて世界の醜悪を駆追し、真善美の天地に進めて行かねばならぬのである。他人は如何でも構はぬ、自分のみ清く正しければ宜いのだと云つて、聖人気どりで済まして居る様な事では、人間としての天職を全くしたものと云ふ事は出来ないのである。喜楽は常に政教慣造の進歩発達を祈願し、且完成せしむるを以て人たるものの天職だと考へて居る。皇祖天照大神様が建国の御趣旨は、政教慣造の四大主義の実行であつて、
一、政は万世一系也
一、教は天授の真理也
一、慣は天人道の常也
一、造は適宜の事務也
即ち此四大主義を実践躬行するのが人生の本分であつて、特に我神国に生れたものは、一層責任の重且つ大なるものである事を忘れてはならぬ。吾人は何れも此主義に向つて、最も忠実に勤め奉らねばならぬのである。吾人は人生の重大なる責任を感じ、如何しても肉体の安楽のみを貪る事は出来ない。人生の本分を幾分なりとも遂行し得ざる内は、如何なる栄華も歓楽も自分の心を満たす事は出来ない。美衣美食財宝なども到底天授の心魂を喜ばすに足らぬ。只天下公共の為めに自分としての天職を尽し得る事が肝賢である。一寸先の見えない様な不完全なる、罪に穢れたる吾人の身を以て、到底重大なる天職を完ふする事は出来ずとも、其幾分にても奉仕し得たならば、これに過ぎたる人生の幸はないのである。
 今日の瑞月としては、浅薄なる肉体上の観察から見るならば、実に安楽なものの様であるが自分としては実に一日も安んじては居ないのである。数多の役員や信者は親の様に崇め『先生々々』と云つて厚く遇して呉れて居る様であるが、自分の為めには、却てそれが苦痛の種となるのである。何故なれば役員信者の親切や好意は大に有難迷惑を感ずる事があるからである。自分の真の使命を諒解するのでもなく、只単に出口教祖のお筆先によつて、色々と私に対する空想を描いて居る人が多いからである。又如何なる立派な事を話しても説いてもそれは教祖の筆先に出てゐないから用ゐられないとか云つて、如何なる真理も無造作に葬つて了ふので、何程筆先の精神を縦横無尽に説いても、十分に感得せしむる事が出来ぬのが実に遺憾である。又自分の肉体に対し、役員信者が非常に気をつけて好意を表して呉れられるが、肝賢要の真実の精神を汲みとつて呉れるものが少いのは最大の苦痛である。今迄の役員信者は自分を妙な事に過信して、堅実な教理等は頭から耳に入れぬのみか、今に世界の救ひ主にでもなる様に、身魂も研かずに騒ぎ廻つて居るのは実に残念であります。自分に少しにても権謀術数的の精神があるならば、十年以前の大本は、役員信者等とも折合がうまくついて、極めて平和であつたでせう。役員や信者の迷信を利用して猫を被つて居やうものなら、物質的方面の事などは如何な事でも出来たでありませう。然し乍ら自分の天授の良心が如何しても、そんな事を許さない。今の世の中の様に神の道は方便や手段では行かぬ。方便や手段を以てした事は何時しか化の皮が剥げるものである。況んや至誠至直の神に仕ふる身分としては、夢にだにも良心の許さぬ事は出来ない。自分は天地と共に亡びざる大真理即ち神の大道より外の道を歩む事は出来ぬ。真理の為めには一身を献げて悔いないのである。今日の場合は如何にしても社会一般の誤解を正し、大本を正解させることが必要であると感じたから、茲に天下修斎のため真理の旗幟を翻し、神様に一身を献げて口を藉し、茲に愈此物語を発表する事となつたのである。混濁せる社会のため一身を捧げて五六七の御世に奉仕せむと云ふ誠の人は、一日も早く此物語の精神に目を醒まし天下万民の為めに誠を尽して頂き度いものである。

 選まれし神の使の甲斐もなし
  人を導く力なき身は

(大正一一・一〇・一四 旧八・二四 北村隆光録)
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